Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

カテゴリ:小説 > Bar小紫


さよりさんに誘われて出かけた盆踊りの夜に釣り上げたヨーヨーは、そのままゆかりさんへの土産になった。
「あら、まあまあ!」
ゆかりさんは懐かしそうな目をしながらそれを受け取ると、すこしの間首をかしげて考えていたけれど、戸棚を開けて、奥の方からガラスの鉢を引き出した。
そこに水を張り、ヨーヨーを浮かべたのだ。
ゆかりさんは、ヨーヨーの横に、外からとってきた朝顔の葉を添えた。
カウンターの端にその鉢をそっと置く。
それだけで、夏祭りが店の中にやってきたような雰囲気になった。
ちょうど客の切れ間だった。

「お借りした浴衣を汗まみれにしてしまいました。」
「いいのよ。浴衣とはそういうものだから。洗っておくから、そのまま返してね。」
「すみません。」

冷たいシャワーを頭から浴びて、ほてった体が少しだけ温度を下げる。
小紫はまだ営業しているから、着替えて店に出るつもりだったのだけど、部屋に戻ったところでけだるさに耐えられなくなった。
今夜は出なくていいと、朝からゆかりさんに言われている。
僕はそのまま眠ってしまうことにした。

自分の吐息が炎のように熱く、まるでゴジラにでもなったような気がして目が覚めた。
真夜中…いや、明け方に近いのかもしれないいが…正確な時間はわからない。
耳を澄ませてみるが、何の音もしないところから察するに、店じまいした後らしい。

今度はちゃんと目を覚ました状態で、大きくため息をついてみる。
やはり、息が熱い。
熱帯夜なのだろうか。
そういえば、窓を開けるのも忘れ、部屋に戻った勢いで寝てしまった。
喉が渇いている。
水を飲みたい、階下に降りようと思うのだが、体が布団に張り付いたようになっていて起き上がれない。

またか。
僕はもう数えきれないほど、こういう経験をしている。
少し緊張しすぎたのだろうか。
緊張ではなく、興奮か。無駄な期待か。
敏感な体は正直で、それが抱えきれないほど大きかったことを僕に教えてくれている。

さよりさん、きれいだったな。
もう少し一緒にいたかったな。
一緒にいて…それで…

その時、僕は、ものすごいことに気が付いた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
衝撃で、体がガタガタと震え出した。
いや、思い過ごしだ。こういうことには個人差があるに違いない。
無理にもまた眠ってしまおうと思った。
忘れた方がいい。その方が自分を傷つけない。
しかし、僕はそれきり、眠ることができなかった。


「おはよう。あれきり降りてこないから、疲れたんだろうと思ってたわ。」
それでも、ゆかりさんが起き出す音を確認してから、部屋を出た。
微熱は続いているようだけど、それ以上に…いや、だからこそ、起きなければならなかった。
「食欲があまりないんです。でも、喉が渇いて。」
「水がいい?」
「はい、冷たいのが。」
「わかったから、座って。顔色がよくないわ。」
「少し、熱が出たようで。」
「ああ…。」
ゆかりさんも、僕のこうした様子にはかなり慣れたようだ。

「宮田先生を呼びましょうか…。」
「いや、今日は恋待先生に診てもらおうかと思ってるんです。
定期検診には少し早いけど、こんな調子だし、ちょうどいいかと。」
「そうね、それがいいわ。一緒に行ってあげるから、安心して。」
「大丈夫ですよ、ひとりで。でも、タクシーで行こうかな。」
「ええ、ええ。それがいいわ。それなら安心。」
ガラスのコップでたっぷり2杯、冷えた水を飲み、ゆかりさんと話しているうちに、僕は少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。

「穂高、あのね…。」
座布団を二つに折って枕にして寝転び、食事の支度をしているゆかりさんを背にテレビを見ていると、ゆかりさんが声をかけてきた。
「はい?」
「昨日、穂高の浴衣姿を見てね、久しぶりに花火大会に行きたいなぁなんて思ったりしたのだけど…。」
そういえば、もうすぐ大きな花火大会がある。
「ものすごい人ごみですものね、疲れちゃうわよね。」
「そうですね、そうかもしれない。」
花火大会にはものすごく興味をそそられるけれど、夕べの夏祭りくらいでこの有様だ。
全国規模の花火大会にでかけるなんてことをしたら、その場で倒れてしまいかねない。
とはいうものの、ゆかりさんがこんなことを言い出すのは本当に珍しくて、もしかしたら昨日からずっと、一緒に行こうと言いたくて待っていたのかもしれないと思うと、断るのも気が引けた。

「それなら、ゆかりさん。庭で、花火しませんか?」
「まぁ、そうね、それもいいわね!」
「僕、子どもの頃から線香花火が大好きなんですよ。」
「男の子にしては静かな。ねずみ花火なんかが好きなのかと思ってたわ。」
「それもいいですけどね、線香花火は小遣いで10本一束が買えるから、姉さんと半分ずつ…。」
「ああ、そうなのね。思い出があるのね。」
「病院から戻ったら、今夜にでも。」
「熱が下がったらね。夏はまだ長いから。」
「そうですね。」
「じゃ、線香花火を買ってきておくことにしましょう。花火を買うなんて、本当に久しぶり。」

ゆかりさんは、一度止めていた手を動かして、朝食作りを再開した。
リズミカルな包丁の音が響いてくる。
僕は目を閉じて深呼吸をする。
ここにいられてよかったなぁ。
こんな時、一人きりだったら、どれほど心許なかったことか。
まぶたの裏に、子どもの頃、姉さんとどちらが長く球を落とさずにいるか競って見つめた線香花火がチカチカと映る。
「はっきりさせなきゃな。」
僕は改めて自分に言い聞かせた。

電話予約もせずにでかけたが、運よく恋待先生は病院にいて、少し待ったけれど、診察を受けることができた。
「微熱があるって?」
「夕べ、はしゃぎ過ぎたらしくて。」
「思うように体力があがらないね。」
「まあ、体力づくりに励んでいるとはお世辞にも言えませんから。」
「励んでみてほしいんだけどな。」
「元々の性格でしょう。」

僕は、本題を切り出しかねた。
でも、勘のいい先生は、僕に何か言いたいことがあるのだと気付いているらしい。
「何か相談でもあって来たのかな。何だろうね。」
先生は忙しい。
急かされる前に話さなければと分かっているのだが、言いにくくもあった。
でも、これ以上、言いあぐねてもいられない。

「先生、実は、昨夜気付いたことがあって。僕は、その…。」






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すっかり陽が落ちた盆踊り会場は、昼間の間に温められ尽くしたアスファルトと、ごった返す人の熱気とで息詰まるほど暑い。
インドア派でかつ静かな夜型生活が板についた僕は、この暑さと人いきれで目が回りそうだ。
少しでも、今、ここのしんどさから脱出しようと目論む脳は、僕に「浴衣というのは洗濯機で洗えるものか、それともクリーニングに出すのか、こんなに汗をかいてはそのままというわけにはいくまい…」などと、我ながらピントがずれたことを考えている。

そんな僕と手をつないで、あちらへこちらへと引きまわしているのは、もちろんさよりさんだ。
これは、恋に落ちる寸前のふたりが「手をつなぐ」というよりも、人混みで見失うのを恐れた母親が子どもの手を「つなぎとめておく」に近い。

会社の盆踊りというものが想像できないままに来てみたのだが、普段大型トラックが何台も入ってきては転回していく広大なスペースにやぐらを立てて、一番高いところでは、お祭りらしい笛太鼓が引きも切らずに軽快な音頭を鳴らしている。 
周囲には、これも例年のことだそうだが、どれほどあるのかというほどたくさんの屋台が並び、射的だのヨーヨー釣りだの金魚すくいだの綿あめだの、にぎやかなことといったらない。
会社の人々は家族連れで来ているし、さよりさんの話によると、お得意様だとかご近所さんだとかも呼ぶのだそうで、かなりの盛況だ。 

今夜のさよりさんは、ゆかたを着ている。
会社の入り口で待ち合わせをした。
なかなか現れないので、誘ってくれたことを忘れているのではないかと思い始めたところへ、会社の中から彼女は現れた。
浴衣姿だった。
それも、紺地に朝顔なんていう、いかにも夏の浴衣らしいものではない。
白地に、真っ赤なボタンが咲きこぼれているのだ!
長い髪をアップに結い上げてあるのだが、ほろりと一筋ほつれている。
「ごめんね!穂高くん。どう?似合う??」
「ああ、とても。」
「ありがとー。穂高くんも素敵よぉ!」
と、突然、僕の浴衣の右肩にしがみついてきた。
ああそうだ、この人は夜の蝶だったのだと久しぶりに思い出した。
真に受けてはいけない。
こういうしぐさは「客あしらい」なのだろう。
そうして、この派手としか言いようのない(でも、その派手な浴衣が恐ろしく似合っている) 浴衣も、実はかつての「仕事着」だったのではあるまいか。

ねぇ、ちょっと座らない?と言い出すタイミングを見計らっている僕には気づきもしないのか、気付いていても知らない顔をしているのか、さよりさんは僕の手をぐんぐん引っ張って、金魚をすくってみたり、綿あめを買ってみたり、楽しそうにはしゃいでいる。
綿あめなんて、白いかうすいピンクか、そんなものだろうと思っていたが、いまどきは違うらしい。
どうやっているのかわからないが、真紫とか真っ青とか、真っ黄色とか、およそ食べ物とは思えない極彩色を選べる。
「あたし、この真っ赤がいい!」
「はいよっ!」
受け取った綿あめからはイチゴの香りがした。

ねぇ、ちょっと一息…
「穂高くん、あっち行ってみようよ!焼き鳥の屋台があるんだ!」
「え?ああ、うん。」
「ほら、金魚持ってて。」
「ああ、いいよ。」
「ほら、こっち!」
また腕を引っ張られて、人波を縫うように進むと、ひときわ大きく開放的なテントから、香ばしい焼き鳥の香りが漂ってきた。

「売り上げはどう?」
さよりさんが意外な声をかけると、
「姉御!見てくださいよ!もう半分以上売れちゃいましたよ。」
「食中毒なんか出さないように、ちゃんと焼くのよ!」
「おう!任せとけ!」

テントで白タオルを鉢巻きに焼き鳥を焼いているのは、先日、ゆかりさんと一緒に小紫に来た屈強な男たちではないか。
「あの日ね、打合せだったのぉ。」
「へー。」
ゆかりさんは僕に焼き鳥を買わせると、右腕に焼き鳥、左手に金魚の僕と手がつなげなくなったからだろう、僕の背中をぐいぐいと押して、広場の奥、きっと倉庫と車をつなぐあたりの階段に僕を座らせた。
祭りの喧騒から10メートル離れただけだが、ふいに静かさがやってきて、僕はそっとため息をつく。
「焼き鳥、食べようか。」
「そうだね。」
「あーっ、待ってて!」
「何?」
「ビール買ってくるね!」
飲む?とも聞かずにさよりさんは駆け出している。
飛び跳ねすぎて少し浴衣が乱れ始めている。
でも、それも可愛らしいと言えば、言えなくもないか。

祭りの楽しみはきっと、非日常性にあるのだろう。
自分の浴衣姿を見下ろしながら、まさに非日常と思う。
女の子に手を引っ張られて、金魚を片手に下げて、赤い綿あめを舐めさせてもらって、焼き鳥にビール?
こんなマンガみたいな時間が自分にもできるなんて。

「お待たせ〜!」
さよりさんが裾もはだけんばかりの勢いで駆け戻ってきた。
両手に大きな紙コップ。
ドン!と隣に座ったとたんに「かんぱーい!」
ゴクンゴクンと喉を鳴らして、あっという間に半分飲み干している。

「楽しい?」
不意に聞かれて、うん、と答えてしまう。
本当はこれが楽しいのかどうなのか、なんだかよく分からない。
「疲れた?」
いや、そんなことないよ。
そう答えるしかない。男だし。
「子どもの頃にね…」
焼き鳥を一本、さもおいしそうに食べた彼女が言い出した。
「飲んだくれの母さんと、母さんが連れ込んだ男しか家にいないわけだけど、近所では盆踊りがあるわけよ。
でも、親はほら、そういうの全く関心ないわけ。
自分たちが関心ないから、あたしが行ってみたがっているなんて、眼中にないのね。
お小遣いなんて持ってないし、でも興味はあるし、行ってみるのよ。
そうしたらさ、小学校の友達が親と来てるの。
かわいい浴衣着せてもらって、慣れない下駄はいて。
あれほしいって指差すと、金魚すくいもヨーヨーすくいも、綿あめも、何でもやらせてもらえてる。
うらやましかったなぁー。
指をくわえてみているって、ああいうことだよね。
いつか自分もって思ったなぁ。
家を飛び出してから、バイトして、お金好きに使えるようになってから、行ってみたのね、夏祭り。
でも、びっくりした。
全然楽しくないの。
お祭りを楽しいなぁって思う年頃を、もう通り過ぎちゃってた。
悔しかったなぁ。
ほんと、悔しかった。
でもね、今年、こうやって普通の仕事始めたでしょ?
会社がね、お祭りをするんだっていって、準備をするのよ。
当然、あたしも手伝うでしょう?
そうしたら、なんだかだんだん楽しみになってきてね。
会社の人も、毎年何かテントで販売するんだって。
それで、今年は何にしようか?なんて話に混ぜてもらったら、めっちゃ楽しくなったの。
それでね、今年はもしかしたら、お祭り楽しいかなぁって。
子どもの頃に味わえなかった楽しさって、年のせいじゃなくて、ただ、タイミングっていうの?そういうのだけかもって。」

「そうだったの。今日、楽しい?」
「うん!めっちゃ楽しい!!」
「よかったね。」
「うん!」
さよりさんが楽しいなら、その場に一緒にいられるなら、それが楽しいと僕は思った。

「ね、まだヨーヨー釣りしてないね?」
「あー!忘れてたぁ。」
「今度は僕もやってみようかな?」
「いいねぇ!行こう行こう!あ、ごみはちゃんと片づけるのよ!」

今度は僕が彼女の手をひいて、先ほど一度通り過ぎたヨーヨー釣りのプールの前に来た。
僕は、彼女と違って、子どもの頃から祭りとなれば母さんと姉さんと3人で出かけたものだ。
金がなかったのは同じ。
でも、母さんは全部だめとは言わなかった。
「いい?ひとつだけよ。どれにするか、よーく見て歩いて、よーく考えて決めてね。」
僕は毎年ヨーヨー釣りで、姉さんは毎年綿あめを欲しがった。
「だって、ヨーヨーは失敗するとゼロだけど、綿あめは絶対手に入るもんね!」
あの頃から姉さんはしっかり者だったなぁ。

僕は水色の地にオレンジや黄色の曲線が入ったヨーヨーを、さよりさんは白地に鮮やかな線が入ったヨーヨーを釣り上げた。
ふたりでハイタッチ、やはり祭りはひとりより二人で来る方が楽しい。

「あー、楽しかった!じゃ、今夜はこれで。」
「え?」
もっとずっと一緒にいられると思っていた僕は、肩透かしを食らったようで言葉が出ない。
「これから、焼鳥屋の当番なのよ。お化粧直して、ちょっと浴衣も髪も直さないと。」
僕も手伝おうか?と言ってみたが、会社の人のテントだからとスッパリ切られた。
「でも、帰る前にもう一か所、付き合ってくれる?」
もちろんいいよと答えると、彼女はヨーヨーから少し進んだ先にある、先ほどの金魚すくいのプール前に来た。
「その金魚、貸して。」
「これ?」
「おじさん、ありがと!もう十分楽しかったから、金魚を広いプールに返してあげて!」
言われたおじさんも目を丸くしている。
そんなことはお構いなしに、さよりさんは小さなビニール袋に入っていた金魚を1匹、大きなプールに戻した。
「あんたも、みんなと一緒がいいよね?」

戻した金魚はあっという間に他の金魚に紛れて、どれがそれだか分からなくなった。
立ち上がり、裾を直したゆかりさんは、プールに向かってキザなことを言った。
「二度と、釣られるなよ!」
「釣られてくれなきゃ、商売になんねーよぉ!」
おじさんの答えに大笑いしながら、さよりさんはじゃあねと鮮やかに身を翻して、駆け去ってしまった。

夏は始まったばかりだ。
でも、僕の夏は、今夜でもう十分かなという気がしていた。





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7月ももう終わるころになって、ようやく梅雨が明けた。
といっても、僕は喜んでいるわけではない。 
仕事がはかどる、大工は夏が勝負だ!なんていう元さんや、野菜の季節がやってきたぜ!と張り切る長さん、これからは熱中症と夏風邪で患者さんが増えるんだよぉと嘆き半分、どこか嬉しそうに見えなくもない宮田先生と違って僕は全然嬉しくない。
夏は嫌いだ。
何度経験しても嫌いだ。
暑いのは本当に苦手だ。

子どもの頃に、何か余程嫌な経験でもしたのだろうかと思い出してみるのだが、これといって思い浮かばない。
思い出したくもないほど強烈な思い出なんだろうか?

今夜は、さよりさんが言っていた、あの会社の夏祭りだ。
強引な誘いに負けて、僕はつい、行くことにしてしまった。
というのは表向きのこと、あんなふうに声をかけてもらって、僕はまんざらでもなかった。
やっぱり、無視されるより、ずっといい。

ところが、当日になってジワジワと焦りが出た。
何を着ていけばいいんだろう?
まさか、バーテンダースタイルで行くわけにもいかない。
でも、そうしないと、Tシャツとデニムくらいしか持っていない。
それでは気分も見た目もパッとしない。

待ち合わせの時刻まではまだ間があるから、急いで買いに行くこともできる。
けれど、袋から取り出したての折り目が付いたシャツを着ている自分を想像したら、なんだかものすごく気合いが入った初心者みたいで恰好がつかない。
ポロシャツ?それとも?
イメージもわかない。

子どもの頃、母さんや姉さんと一緒に、毎年夏祭りに連れて行ってもらったじゃないか。
あの時、周りの大人は何を着ていた?
思い出してみようとするが、ぼんやりかすんでいてよく分からない。
母さんの笑った顔、姉さんのビーチサンダル、それから?

こういうことは、いくら考えたところで答えは出ないから、素直にゆかりさんに聞いてみることにした。
「夏祭りに行く男というのは、何を着ているものですかね?」
「そうねぇ、普通でいいんじゃないかしら。」
その「普通」が一番困る。
今夜何食べたい?と聞いて、何でもいいよと言われた時と同じくらい困る。

「ああ、そうそう。よかったら、これ着て行ってみない?」
ゆかりさんはそう言うと、自分の部屋に行き、白い畳紙に包まれた着物を持ってきた。
そのまま居間に座って見せてもらう。
中から、男物の浴衣が出てきた。

「これは?」
「だいぶ古いものだけれど、きちんと手入れをしながら保管してあるから、いつでも着られるわ。
帯も、下駄も、ほら、そろえてあるし。」
ゆかりさんは、家族について多くを語りたがらない。
僕はいまだに、彼女が既婚者なのか、子どもがいるのかなど、まったく知らずにいる。
でも、問いかけたことがない。
問わない僕だから、ここに置いてもらえるのだと思っている。
だから、その浴衣はどなたのものですか?とは問わずにおくことにした。

「お借りしてもいいですか?」
僕は渡りに舟と飛びつくことにした。
大学の学部にいたころ、少しだけ茶道をかじったことがある。
学園祭の発表会の時には、浴衣姿で茶をたてた。
まったく知らない着物ではない。
もっとも、あの時の浴衣は借り物で、自前のものなど持ったことがないのだが。

おかげで、僕は服選びの苦痛からあっという間に解放された。
ゆかりさんにちょっと手伝ってもらって浴衣を着た後は、時間を見てでかければよいだけだ。
6時に正門前で…と言われている。
あの会社までの道のりは、歩いていくこともできるのだが、駅前でちょっとお金をおろしてから、ひと駅電車に乗っていくことにした。
下駄では歩き慣れていないから、少しでも歩く距離を縮めておくのは悪くない。

さほど混んでいないだろうと思っていた車内は、意外と人が多い。
ユニフォームを着て真っ黒に日焼けした小学生の団体を、小柄で若い女性がひとりで引率している。
このユニフォーム、持ち物ならばサッカーだろうか。
子どもたちなりに精一杯おとなしくしているのだろうが、甲高い笑い声、一斉のどよめき、なかなかに騒々しい。

僕がつかまったつり革の隣に、引率の小柄な女性がいる。
彼女も真っ黒に日焼けしている。
つり革を持ちながら、周囲に目を配り、声が大きすぎたりすると、キッと目配せをしている。
長い髪をポニーテールにして、一切の無駄がなさそうな引き締まった容姿に、自分とは異世界の何かを感じる。
彼女もまた、Tシャツにジャージ姿だった。

「お前さぁ…。」
子どもたちの中でも年齢が上に見える少年が、彼女に話しかけた。
少年は彼女と同じくらいの背丈をしている。
「何?」
お前と呼ばれても、彼女は文句ひとつ言わない。
「お前も一応女なんだからさぁ、試合の行き帰りくらい化粧するとか、普通の服着るとかしろよ。」
「ピアスとかネックレスとか、ネイルとかしろよ!」
最初の少年より年下の子が一緒になっていうと、そうだそうだと他の少年たちもはやし立てる。
「電車にジャージで乗ってる女なんかいないぞ。」

僕は、彼女がなんて答えるのか、少年たちと同じくらい興味を持ってしまった。

「あのね、試合の前に普通の服着た監督を見て、やる気が湧く?」
「着替えればいいじゃん。」
「あたしが着替えに行っている間、みんなの気持ちとか練習とか、緩んじゃうんじゃない?」
「そんなことないよ!」
「そうか、ないか。みんなならそうかもね。でもね…。」

さっきまでゲームがどうの、スマホがどうのとワイワイいっていた20人ほどの子どもたちが、いつの間にか彼女の声を聴き始めている。
それほど大きな声ではないのに。
統制のとれたチームのようだ。

「あたしはまだ先生になって間もない半人前だからね、偉そうなことは言えないんだけど、みんなと一緒にいるときって、あたしはみんなと同じでいたいんだよね。」
「なんで?別にお手本とかいらねーし。」
「うん。お手本なんてすばらしいものにはもともとなれないし…。」
「それじゃダメじゃない!」
子どもたちが笑う。

「けどね、例えば、運動会を考えてみてよ。
みんなは今日みたいに、決められた体操着を着ているでしょ?
見に来るお母さんたちは体操着?」
「そんなことない!体操着だとヘンだよ。普通の恰好。」
「だよね?ネックレスとかピアスとかは?」
「してるねー。」
「うちの母ちゃん、けっこう気合い入ってる!」
「そうそう。お母さんたちはそれでいいの。だって、応援団だもん。」
「うん。」
「じゃあ、運動会の時、先生たちがみんなお母さんと同じ格好していたらどう思う?」
「えー?なんか変。」
「変?
じゃ、先生が服はジャージを着てるけど、ステキなネックレスしてたら?
ダイヤがキラキラとか、真珠がずらりとか。」
「あー!なんかすげーヤダ。」
「雰囲気壊すねー。」
「雰囲気壊す?
じゃぁ、ネックレスはやめて、ピアスして、綺麗なネイルしたばかりだから綱なんか持てないよ、って言ったら?」
「うわ、サイテー!」
「ピアスしててボール当たったら怪我するよって、ママが言ってた。」
「そうだね、危ないってのもあるね。
じゃ、もし、先生が救護の係で、みんなのかけっこやダンスは一緒にやらないとしたら、オシャレしてもいい?」
「…うーん、どうかな?」
「オレはヤダな。」
最初に化粧しろと言った少年が言い出した。
「だって、あんたたちは走る人、私は関係ないって言われているみたいな気がする。」
しばらく真面目な顔で聞いていた隣の少年も言い出した。
「運動会の朝、先生が、僕たちのことじゃなくて、自分のネックレスとかピアスとかのことを考えてたんだーって思うと、なんだかちょっとがっかりするね。」

「あたしもね、そうなんじゃないかな?って思うの。
あたしはね、役割は違うけど、いつでも一緒に走る気だよ、君たちと心は一つだよっていうのを、服装でも表したいんだよね。」
「そうなんだー。」
「わかった!だから校長先生もカッコ悪いジャージなんだね?」
「スゲー古いデザインのやつ。着慣れてないから似合わねーんだよなー。」
「でも、校長先生のジャージ見ると、今日は特別な日なんだな!って、ドキドキするよな?」
「うん!」

「いろんな考え方があるし、みんなが私みたいに感じるわけではないと思う。
でも、あたしは、みんながジャージで試合のことを考えるときは、私もジャージで、みんなの気持ちになって、みんなと一緒に試合のことを考えたいの。
オシャレは別の時にいくらでもできるからね。
それに…。」

彼女はジャージのズボンを引っ張った。
「これ、あたしが今一番気に入っているスカートより高いんだよ!」
「えーっ!」
「大人になって、一生懸命仕事してお給料いただくと、こんな楽しみがあるんだよっていうことよ。」
「へー!」

「お前さぁ…。」
最初にこの話をし始めた少年がしみじみと言う。
電車はそろそろ次の駅に近づき、減速し始めている。
「オレ、初めてお前のこと、先生って呼んでやってもいいと思った。」
「じゃ、これから、お前じゃなくて、先生って呼んでくれるの?キャプテン?」
「ま、気が向いたらね。」
「しかたないか。あまりに未熟者だからねー。
いつも先生って呼んでもらえるように、これからも精一杯頑張ります!」
「ま、頑張れば?」
少年の偉そうな答えと同時に電車が止まり、ドアが開く。
子どもたちの盛大な笑い声が湧き起こった。

僕はその笑い声を背に、電車を降りた。
空には雲ひとつなく、あちらこちらから蝉の声が降り注いている。
電車の冷房から一気に外の蒸し暑さに投げ出されたのに、僕の心はさわやかなままだった。










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会社の仲間とはしゃいでいるさよりさんを見ていて、僕はなんだか落ち着かない。
まるで自分が無視されているような感覚に苛まれるのだ。
でも、さよりさんは店に客としてきて、客らしく楽しく飲んでいるにすぎない。
他のお客様と同じように。
来てくださってありがとうございますと思うのが、僕の仕事だ。
そんなこと、頭では十分分かっているのだけど。

「あのぉ。」
少しぼんやりしていた僕に、カウンターでひとり飲んでいた初老の紳士が声をかけてきた。
静かにゆっくりとグラスを口に運ぶ姿が洗練されている。
「は、はい。すみません、ご注文ですか?」
それに比べて、ひとつの返事に、僕はしゃべりすぎている。

「なんだかね、冷ややっこが食べたくなってきてね。」
「はい。ご用意いたします。」
「そうかい。どんなふうにできるだろうね?」
召し上がりたいものがあるだけでなく、お話がなさりたいのだろう。
この会話は、ゆかりさんに任せた方がよさそうだ。

「お好みがおありですか?」
ゆかりさんがすっと隣にやってきて、僕と何のやりとりもなく話を継いだのが、紳士を喜ばせたらしい。
「そういうことではないのだが、ほら、簡単な料理ほど、いろいろ工夫ができるものだろう?」
「そうですね…。」
ゆかりさんは人差し指をあごにあてて、少し首をかしげて見せた。
「お嫌いでなければ、ショウガと青しそに、少しミョウガを添えてお出ししてみましょうか。」
「おお、ミョウガか。それはいい。」
「ミョウガはお好みでない方も多いので、あまりお出しすることはないのですよ。」
「そうかもしれないね。
いえね、子どものころ住んでいた家の庭に、ミョウガが勝手に生えてくるんですよ。
それで、夏の間はそうめんだのなんだのと言うたびにミョウガがついてくる。
子どものころはあれが苦手でね。」
紳士は懐かしそうに眼を細めている。
「新潟の出身なんだがね。」
「そうでしたか。」
「故郷を離れて暮らす方がずっと長くなったけど、今頃になって子どもの頃の味が懐かしい時があるねぇ。」
「はい、はい。そうでございましょう。」

いつもは一度奥の調理場に入って支度をするのだが、今はお話が続いているので、僕が奥に入り、耳にした材料をそろえてカウンターに持ってきた。
「白ごまもね。」
ゆかりさんの耳打ちを聞いて僕は急いで身を翻す。
ゆかりさんは会話を途切れさせることなく、紳士ご用命の冷ややっこを仕上げた。
切り子が美しいガラスの器に盛りつけ、箸ではなく、木のスプーンを添えた。
「これはこれは。目に涼しく、舌に涼しく、だねぇ。」
あくまで細く切られた青しその上に白ゴマが散っている様子が、淡雪のようにも見える。
「うまい。これは、うまい!上等な豆腐を使っているね。」
紳士はたいそうご機嫌だ。

「ところでママさん。あなたの今夜の着物は、きっと上布だろうね。」
「まぁ、よくご存じで。その通り、ご出身の新潟でできた越後上布ですわ。」
「よく似合っているねぇ。」
「あら、お上手ですこと!」

今夜の着物は「上布(じょうふ)」というそうだ。
麻でできていて、薄く、軽いのだそうだ。
深い紺色の中に、井形の模様が白く浮き出ている。

「この布が仕上がるまでには、50工程もの手作業が必要なの。」
昨年、この着物を初めて見た日にゆかりさんが教えてくれた。
「越後上布は重要無形文化財になっているの。織るにも染めるにも、職人さんが精魂傾けてひとつひとつ手を動かして作り上げるのね。それをこうして着せていただけるのは、本当にすばらしい気持ちになるのよ。」
ベージュ…いや、今夜は練色(ねりいろ)と呼ぼう… の帯とのコントラストがいかにも涼しげな着こなしなのだ。
七夕の夜の、特別なしつらえなのだろう。
この着物を着ると、ゆかりさんはいつもの数倍、しゃんとして、きれいに見える。

「越後上布は年取った職人が糸をつむぐのは知っているでしょう?」
「はい。存じております。」
「今はそれが、できなくなってしまった。」
「まぁ!それは存じませんでした。どうしたのでしょう?」
「新潟で、大きな地震があったのは、もうずいぶん前のことに思えるが…。」
「覚えておりますよ。」
「あの地震でね、土地の職人たちが怪我をしたり、避難したり、都会の子どもたちの家に引き取られたりして、糸を紡げる職人がいなくなってしまったのだよ。」
「…!」
「今では伝統のままに作られる越後上布は、年に2反か3反か、そんなものだそうだ。」
ゆかりさんは息を飲んでいる。
「だからね、ママさんの越後上布は買ったときも高かっただろが、これからますます価値が出るでしょうよ。」

紳士はあっというまに冷ややっこを腹に収めている。
薬味のわずかな破片も残さないきれいな食べ方に、器を下げながら、僕はちょっと憧れめいた感覚を覚えた。

「君、ママさんのあの着物、いくらぐらいすると思う?」
「はぁ…。」
こういう時は、当てるより外れる方が喜ばれる。
でも、本当に、いくらなのか想像もつかない。
盛大に高値を言ってみようか。
「20万円くらいかなぁ。」
「わっはっはっはっ!」
紳士は大爆笑の体だ。
「違いましたか!」
「20万円では帯も買えないだろう。
ゼロがひとつ足りないよ。
いや、ゼロをもうひとつ足したくらいでは買えないんだと思いますよ。」
「ほ、本当ですか!」

僕は瞬きの仕方を忘れてしまった。
ゆかりさんは微笑むだけで、頷きもしなければ首を振りもしない。

「穂高くーん!」
もうすっかり出来上がったさよりさんが呼んでいる。
紳士が、行っておいでと手を振る。
世の中には、僕が想像もできない世界がまだまだたくさんあるんだなぁ。

「ねぇ、願い事書いておいたから、笹につけてきてよ。」
「はい。」
年下の癖に、相変わらず人使いが荒い。
「それからね、月末にね、会社で盆踊り大会があるんだけど、穂高くんも来ない?」
「へ?」
「来るでしょ?花火大会もあるんだ。ね?じゃ、そういうことで。」
「あ?」
「あんた、いいねぇ、姉御に誘われるなんてさぁ。」
ことに色黒の筋肉が、僕の背中をバンと叩いてガッハッハと笑った。
ゆかりさんは「何言ってんのよぉ」とご機嫌だ。
僕はまだ、背中を打たれた勢いで息が止まったままだというのに。






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七夕の夜、小紫はお客様が多くて、嬉しい悲鳴を上げた。
梅雨のさなか、朝のひんやりした空気はどこへやら、日中は雨はなかったのに、全身に水滴が付きそうな蒸し暑さだったことも、帰宅前のビールを恋しくさせた要因だろう。
「とにかく、生をひとつ!」なんて注文が多かった。

この日のお通しは枝豆だ。
ただし、ゆかりさんのことだから、スーパーで買った枝豆などではない。
裏の畑で、春先から自ら育てた枝豆なのだ。
有機栽培、当然除草剤など一切使わず、僕も一緒になって毎朝草取りをしてきた。
それを、この朝、まだ葉に朝露が光るうちに収穫し、ゆでたものだ。

ゆで方のコツは僕にはわからない。
ただ、仕上げにザッとふりかけた塩にもこだわりがある話は聞いている。
この塩が、本当に旨いのだ。

小紫の調理場には、3種類の塩がある。
しっとりと、細かい塩。
これは、枝豆をゆでるときにも使っていたが、出番が一番多い。
元さんが大好きなおむすびにも、この塩が使われる。
それから、卓上瓶に入った、サラサラした塩。
これは、サラダの仕上げにサラリとふりかける時などに使う。
そして、ざらめのような粒の塩。
枝豆に振ったのがこれだが、ほかに、天ぷらに添えたりもする。

ゆかりさんこだわりの塩は、伊豆大島で作られている。
口に入れると塩辛さの後に甘みを感じるから不思議だ。
海水から伝統の製法で作られるそうだが、どれも強い火で焼いたり、天日で乾燥させたりして作るから、「塩に邪気がない」のだそうだ。
邪気がある塩とは?という点は、さっぱりわからない。
そもそも、塩って邪気払いに使われるものじゃないの?

この塩の話は以前から何度も繰り返し聞かされているのだが、いまだに理解できないのだ。
世の中には、僕が知らないことがまだまだたくさんある。

ともかく、邪気のない旨い塩が白く載った枝豆の評判と言ったらなかった。
うまい、うまい、枝豆ってこんなに甘いものだったかね、
生をもうひとつ、いや、できれば枝豆をもうひと皿…
などという声が続いて、ゆかりさんはご機嫌だ。
「今日のようにたくさん汗をかいた日は、水分もたくさんお取りになるでしょう?
すると、汗と一緒になくなっていた体の中の塩分が水で薄くなってしまうんです。
それで、水を飲むほど熱中症になるなんていうこともあるそうなんですよ。
ですから、今日の枝豆には粒塩をふりましたので、一緒にお口に入れてみてくださいね。」
初めて来た客の席に二度目のビールを運びながら、ゆかりさんが話している声が聞こえる。

僕が作っておいた短冊も、置いたままにせず、お席に運んでみることにした。
思いついたのは僕だ。
「今夜は七夕ですから、願い事をお書きください。」
一笑に付されるかと思いきや、「おお、そうかい?」と書いてくださる方が多いのに内心驚いた。

集まった願い事は、この街、この店にふさわしい、ささやかなものが多かった。
『家族が幸せに暮らせますように』
『温泉旅行に行きたい』
『おじいちゃんの足がよくなりますように』
『お嫁さんが見つかりますように』

『安全第一』…これは、元さんが書いた。
さすがは棟梁だ。
「笹じゃなくて、毎日現場にかけておくといい。」
宮田先生が珍しく冗談を言った。

『家内安全』…これは、八百屋の長さんが書いた。
「よほど、奥方が怖いのだろうねぇ。」と元さん。
「家内安全ってのはそういう意味じゃないよ。
まるで何かい?うちの家内は危険みたいな言い方するじゃないか。」
言い返した長さんに、
「家内ってガラか?ひとっつも頭が上がらないくせに。」
「う…。いや、まぁ、ヨメの言う通りにしとけば平和だからねぇ。」
一緒に来たわけではない隣のテーブルまで笑っている。

『無病息災』…これは、宮田先生が書いた。
「おいおい、先生よぉ。先生が無病息災なのは願ってもないことだけれど、世間みんなが無病息災になっちまったら、先生は飯が食えなくなるよ。いいのかい?」
元さんにからかわれて、宮田先生が一瞬真顔になったから、また周囲から笑い声が溢れた。
「確かに。では、ちょいと…。」
そう言って先生は筆ペンを取りなおすと、無病の「無」を二本線で消して、「一」と脇に書き足した。
「一病息災?」
「ああ。私が勝手に作った言葉だよ。
人間、何一つ病気もしない体だと、つい油断をして食べ過ぎたり飲みすぎたり、健康を過信して、気付かないうちにかえってひどく体を壊してしまうものなんだ。
それより、ひとつくらい気になることがあって、己を労わりながら養生するつもりで暮らす方が、長く息災にいられるというものだよ。」
なるほど、そういうこともあるかもしれない。
僕なんか、まさにその口だろう。
もしかしたら、先生は僕に気遣って、こんなことを書いてくれたのだろうか。

「こんばんわぁ!お久しぶり〜!」
笑い声の中に、能天気なほど陽気な声が響いた戸口を見ると、さよりさんの顔がのぞいている。
確かに、ずいぶん久しぶりだ。
「あらぁ、さよりちゃん。元気だったの?」
ゆかりさんは、里帰りした娘を出迎える母のような喜びようでカウンターから弾み出てきた。
「会社の人たちと一緒なんだけど、いい?」
「もちろん。丁度奥のテーブルが空いたところだから。何人様かしら。どうぞ。」

さよりさんを入れて6人の団体様だ。
おそらくみな運転手なのだろう。
さよりさん以外は全部男性で、しかも、僕より少し年上に見える。
そろいの作業服姿のままだ。
実に男らしく日焼けしていて、半袖の作業服からのぞいている腕は、どれも力を入れているわけではないのに、筋肉がくっきりと浮き上がっていて、同性の僕から見てもカッコイイ。

メラリ。
僕の心の底に、普段は感じない熱が伝う。
大ジョッキを6つ、一度に運ぶと、
「ビールは鮮度が命だから。」
とさよりさんの一声で、無駄な話のない乾杯が叫ばれ、黄金色の液体がふとやかな喉に流し込まれていく。
「プハーッ、美味いなぁ!」
「たまらないな、こりゃ。」

ポッ。
さっき心の底に伝わった熱から、小さな炎が引火した。
全身をとことん使って働く人だけが、あげる声がある。
ビールのうまさは、そんな労働と仲が良い。
僕は、その労働を知らない。
知らないから、嫉妬心がわくのだ。

今夜の僕はどうかしている。
一年に一度会える彦星と織姫。
それとは違って、僕はいつでもその気になればさよりさんに会える。
しばらく顔を見ていないのは、必要がなかったからではないか。
彼女が会社の人と飲みに来たからと言って、なにを慌てる?

もう一度、大ジョッキを用意しにカウンターに戻る。
凍らせたジョッキをひとつ手にして、さよりさんのテーブルを振り返る。
以前はどこか陰のある…というか、乱れた印象があって、この人は誰かが守ってやらなくてはならないのではないかと思わせる雰囲気だったのだが、今ではお日様の香りがする、元気いっぱいのOLさんになっている。
僕はなんだか、置いてきぼりを食らったような、寂しい気持ちになってきた。

なんだよ!
その就職探しに一緒に行ってやったのは僕じゃないか。
思う端から、そんなことを考えている自分に嫌気がさす。

今までの僕なら、こんな不愉快な気分から、どうにかして目を逸らそうとしたはずだ。
でも、その夜の僕は違っていた。
僕が思うことだ。
僕が思ってやらねば。
そんな気持ちが強く出てきている。
情けないと自嘲することもなく、酒や会話に逃げることもなく、お客様の注文に応じながら、僕は静かに自分の心を感じ続けた。

調理台にこぼれた粒塩を二粒見つけた。
人差し指に押し付けて、ペロリと舐めてみる。
ほんの少しの苦味と、しっかりとした塩味、そのあとでほんのり甘さが広がる。

「もうすぐ夏だな。この塩を振ったスイカ、食べたいな。」
どうしてだろう。
目をそらすよりずっと、力強く生きている自分を感じていた。







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僕の不快指数で換算したら120%以上になりそうな湿っぽい梅雨の日々が、今日はいったん休憩するようだ。
朝目が覚めて、窓を開けたとたんに、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
カーテンの動きが昨日までとは逆だから、きっと北風が吹いているのだ。
こんな日は、何かいいことがあるんじゃないかと思えてくる。
幸せな「日常」の一コマの始まりとしては、上々の気分だ。

身づくろいを済ませて下に降りていくと、居間にはゆかりさんの姿がない。
台所にも気配がないので、裏の畑に出ているのかもしれない。
でも、ふと店に回り込んでみる。
ゆかりさんは、やはり店にいて、背丈と同じくらいの笹に、きれいな飾りをつけているところだった。
車が突っ込んできてぐちゃぐちゃになったドアはきれいに新しくなって久しく、ついでにリフォームした店内は、今もまだ新築の香りがする。

この笹はどこで手に入れたものか、昨夜元さんが届けてくれた。
約束では、もう何日か前に届けてもらうことになっていたそうだが、七夕前夜になったのは、元さんが仕事で大忙しだという嬉しい理由からだったので、ゆかりさんも「届いただけでありがたいわ」と感謝している。

「あら、穂高。おはよう。ちょっとだけと思って作り始めたら楽しくなってしまって。朝ご飯の前に、もう少しだけいいかしら?」
「ええ。手伝いましょうか?」
「お願いするわ。何かできる?」

僕はカウンターの上に載っていた水色の折り紙を一枚半分に折り、5ミリ間隔に切り込みを入れてから開き、対角をひとつ糊付けして飾りを作った。
「これしか知りません。」
「いいわね、かわいい。」
僕の手から水色の飾りを受け取ると、ゆかりさんは手早く糸をつけて、笹に飾り付けた。
ゆかりさんが指先でツンと飾りをつつくと、折り紙の裏の白と表の水色が不規則にくるくる回った。

「同じ方法で天の川も作れるわ。やってみる?」
薄紫の折り紙を半分でなく、細長く何度か折りたたんで、両側から交互にはさみを入れ、そっと平らに戻してから切り込みに対して垂直に引っ張ってみる。
「うわ、できた!なるほど川ですねぇ。」
それもゆかりさんの手で糸をつけられ、笹を飾った。

「次は、星の折り方を教えましょうね。簡単よ。」
ふたり並んでスツールに腰かけ、黄色い折り紙を一枚ずつ持って、折り進める。
「へぇ!ホントに星ができましたね。」
「ふたつ並んで吊るしたら、織姫と彦星が会えたみたいで縁起がいいわね。」

最近はやりの新しい飾り、なんていうのも教わった。
折り紙も、見慣れた色ばかりではなく、両面にそれぞれ色がついているものや、キラキラ輝く紙など、いろいろ用意されていたから、僕はいつの間にか夢中になっていて、腹が減ったことにも気づかなかった。

「あとは、お客様に願い事を書いていただく短冊を用意しておきましょう。」
「では、それは後で僕がやっておきます。」
「いいの?ありがとう。では、このくらいの大きさのを…。」
ゆかりさんが手際よく折り紙を三つ折りにして筋をつけると、はさみでシャキンと切った。
「わかりました。糸も通しておきますね。」
「ええ、お願い。じゃ、お客様が気軽に書けるように、私たちの願い事を先にかけておきましょうか。」
「願い事ですか?そうですね…。」

僕はしばらく考えた。
願い事はたくさんありそうで、いざ書こうと思うと構えてしまう。
ゆかりさんは筆ペンをさらさらと動かして、あっという間に一枚仕上げた。
『千客万来』
墨跡が乾く間にもう一枚。
『商売繁盛』

「なんだか、フツーですねぇ。」
からかい半分に言うと、普通が一番いいのよと返された。
ゆかりさんが置いた筆ペンを握って、僕はもうひと考えしてから、手を動かした。
『兄と弟が一度にできますように』
よし。
会心の出来だな。
「叶うといいわね。本当に。」
ゆかりさんの言う通りだ。
僕は笹の一番高いところに、この短冊をかけることにした。
少しでも、願い星に近いところへ。

「さ、朝ご飯にしましょう。」
「ほんとだ、すっかり遅くなりましたね。」
「今朝はだし巻玉子にしますよ。ちょっと湿気にうんざりして食欲が落ちてきたから、大根おろしをたっぷり添えましょう。」
「いいですね。大根おろしは僕が作りましょう。」
「助かるわ。」
僕らのコンビネーションは、そこらの夫婦に負けないくらいになってきた。

…いや、やっぱり夫婦じゃなくて、親子にしておこうっと。







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姉さんが結婚するという相手、カネタマルジョージさんは、金田丸譲二さんと書くのだそうだ。
きっと、小さいころから「金持ちになりそうな名前だ」と言われてきたに違いない。
姉さんたちは観光としてやってきたマルコ少年を一度グアテマラに連れ帰らねばならないらしい。
「養子縁組は6歳の誕生日を過ぎると、日本の法律ではいろいろとややこしくなるの。あと半年の勝負なのよ。」
なのだそうだ。 

結婚は、その進展に合わせてという。
これから池袋にある金田丸家にご挨拶に行くのと言う姉さんは、 相変わらず小さな台風の目だ。
「サトル、認めてくれてありがと。」
「いや、あの…。」
「じゃ、行ってくるわね。また連絡するから。」
「あ、おお。」
「葉月ちゃん、ランチは?」
と問いかけるオーナーにごめんなさいまた今度とサラリと言うと、3人は席を立ち、僕に盛大に手を振って行ってしまった。
約束の時間が迫っているのだそうだ。

台風が去った僕のテーブルに、オーナーがルナソル特製ワンプレートランチを運んでくれた。
大きな丸い皿の上に、つややかな黄色い小山が乗っていて、頂上に美味そうなデミグラスソースがかかっている。
ソースの中に浮いているマッシュルームがきれいだと思った。
「あれ?貴船さん、僕、ランチの注文なんてしましたっけ?」
「ああ、やっと口をきいてくれたね。」
「え?」
「君、お姉さんがいる間、ずっとあーとかうーとかばっかりだったじゃないか!」
「だって…。」
「ま、わかるけどね。」
「すいません。」
「謝ることはないさ。
さ、食べて。
今日のランチはオムレツなんだ。
ワンプレートと決めているけど、今日は見た目の問題で、サラダとスープは別にね。」

僕はオムレツが好きだ。
このトロトロとした舌触りがたまらない。
柄の長いスプーンを持って、一口食べてみた。
「ああ、美味いなぁ。」
オーナーはいつの間にか、さっきまで姉さんが座っていた席に腰かけて、水を飲みながら僕を見つめている。
「お気に召しましたか。」
冗談口調に僕も気持ちが少し軽くなる。

「サトル君。」
オーナーが改まった声を出した。
「はい。」
僕はオムレツを頬張る速度をゆるめずに返事をする。
「君はお姉さんを一言も責めなかったね。」
「責める?」
僕にはオーナーの意図が分からない。

「僕は内心驚いた。
だって、葉月ちゃんは病気と闘う君のそばにいるのが辛くて逃げ出したんだろう?
それで家族と言えるか?
君はどうして怒らないのかと思ってね。」

オーナーの口調には、姉さんを責めるような感じは含まれていない。
心底分からない、といった気持ちなのだろう。
僕にしても、頭で考えて姉さんを責めないと決めたわけではなかった。
ただ、最初から最後まで、驚きはしたけれど、責めるなどとは考えもしなかった。

「それは…。」
僕は自分の本音を探り始めた。
子どもの頃、テレビで観た映画のワンシーンがふとよぎる。
海の底に向かって、素潜りでくぐっていく男が映っていた。
あの、青くて暗い方へ向かう感じ。

「それは…、姉さんがあの時も今も、自分に正直に生きているんだと分かったからかなぁ。」
「正直に?」
「そうですね。
もし、姉さんが心底僕のそばにいたいと思うなら、それでよかったですよ。
でも、僕のそばにいるのが辛いと思いながら、家族だからという義務感で我慢していてくれたとしたら、それはきっと僕にも伝わって、僕も苦しんだと思うんです。」
「ああ。」
「死んでもしかたないと腹をくくられながら、覚悟を決めた顔でそばにいられるのも辛かったかもしれないし。」
「そうだろうか。」
「でも、姉さんは、建前や義務感より、自分に正直にいることを選んでくれたんです。
おかげで、ああして幸せな顔を見せてくれている。
突拍子もないのは相変わらずだけど、義務感に縛られて、密かにため息つきながら『あなたのために』なんて言われるより、僕にはずっとありがたいです。」

オーナーはまた一口、水を含んでから、静かに微笑んだ。
「いい、姉弟だね。」
「ありがとうございます。」
「君たちのお母さんは、素晴らしい子育てをなさったようだ。」
「どうなんでしょうね。
でも、確かに、母さんも母親だから僕らを育ててたという印象より、本当に僕らといることが楽しかったのだろうなぁという思い出の方が多いかな。」
「そうなのか。見習いたいものだな。」
「え?」
「いやね、僕ももうすぐ父親になるらしいからね。」
「へ?そうなんですか?」
「ハハハ!」

僕はもう、これ以上の非日常に耐えられそうになかった。
だから、確実に理解できる、オムレツの味に没頭することにした。
「このデミグラスソース、本当に美味いですね。」
「おいおい、こういう時は『おめでとうございます』って言うんもんじゃないのかい?」
「ああ、美味い。本当に美味い。」
「おやおや、キャパを超えたらしい。」

オーナーは自分のグラスを片手に、カウンターの奥へ戻っていく。
背中を見送ることもなく、僕はスープとサラダもカケラひとつ残すまいと、念を入れて皿をつつき続けた。






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「気持ちは分かったけど、葉月ちゃん…。法律的にどうなの?マルコ君を君が育てるなんて、できるの?」
貴船オーナーが大人らしい質問をした。
僕はもうずっと、オーナーに引っ張られ、後追いでしか思考できなくなっている。

「そうね。
問題は山積みだと思う。
さしあたり、人身売買目的の誘拐犯だと言われないように農園では認められてきたけれど、単純な手続きで済むものではないわね。
日本の法律は移民を認めていないくらいだから。」
「それでも?」
「ええ。この国ならば、この子が学校に通うことも、毎日安心して眠ることも、お腹いっぱい食べることも『当たり前』になるはずだもの。
時間がかかっても成し遂げるわ。
きっと、何か道はあると思うの。」 

どうやら姉さんの決心は固いようだ。
「マルコ君は葉月ちゃんの息子になるの?それとも、弟?」
オーナーが意外な質問をした。
僕はこの少年が僕の何になるのかなんて考えてもみなかった。
弟だって?

その時だった。
それまでつぶらな瞳で周りの大人にふわりふわりと視線を当てていたマルコ少年がポツリと話したのだ。
「ハヅキは、僕のパートナー。」
「え?」
僕とオーナーの声がハモった。
「今、パートナーって言った?」
「はい。」
今度は少年の声がはっきりと聞こえる。

「僕の父と母は、死んでしまったけれど、ちゃんといます。
ほかには、いらない。」
多少イントネーションに癖があるが、流暢な日本語が小さな口元からこぼれてくる。
僕はなんだか不思議なものを見る思いで、それを聞いた。

「ハズキはずっと悩んでいた。
自分が間違っていると、いつも言っていた。
サトルのことを聞いたのは、父が死んだ時。
それで、ハズキの悩みがわかった。
ハズキはずっと不幸だった。
自分で幸せになろうとしていなかった。
それは、悲しいこと。
ハズキが幸せにならないのは、自分に罰を与えるため。
でも、ハズキは幸せになっていい。
神様は、誰も罰しない。
神様は僕たちみんなを愛している。
自分から不幸せを選ぶ人がいること、神様は喜ばない。」

オーナーでさえ、何も言えなかった。
マルコ少年はテーブルのアイスコーヒーを、恐る恐る飲んだ。

「僕はハズキが幸せになるまで側にいると決めた。
ハズキがまた悩むときは、僕が励ます。
だから、僕はハヅキのパートナーね。」

そうして、また一口。
僕がマルコ少年を見るのと、多分同じ目で、少年はアイスコーヒーを見ている。
「これ、おいしい。
グアテマラでは冷たいコーヒー飲んだことない。」
「ああ、そうなのか!」
オーナーも少年の所作が気にかかっていたらしい。
「甘くすることも、ミルクを入れることもできるが…。冒険かな?」
「ボーケン?」
姉さんが通訳すると、ああ、と頷いて、やってみると言う。
オーナーはガムシロップを少しと、生乳ではないミルクをたらしてから、グラスを戻す。
そうして、手まねで、ストローを回してかき混ぜろと伝えている。
少年は目をキラキラさせてストローを回し、全体を白濁させると、得体のしれない物を飲むような顔で一口啜りこんだ。
「おお!」
ストローをテーブルに放り出し、そのままゴクゴクと喉を鳴らす。
どうやら気に入ったようだ。

「まだほんの子どもなのに、この子には教えられることばかりなの。
老いた魂とでもいうのかしら。
年齢では計り知れない叡智を、この子の心はいつも持っている。
神様が出会わせてくれたこの宝物を大切にしたいの。」

「サトル、マルコです。よろしくお願いします。」
いつの間にか僕の真横に立って、少年は僕の目の前に手を差し出した。
日焼けした腕と、不釣合いなほど白い掌。
僕は、その手を握ってしまった。
まだ柔らかい掌が、グラスを握った水滴で濡れている。
「よろしく。」
僕は微笑んでしまった、多分、極上の笑顔で。

「あれ?」
オーナーが奇妙な声を出した。
「弟か息子かなんて聞いておいて今更だけど、養子縁組をするなら、独身ではできないんじゃなかった?」
「さすが貴船さん。なんでも詳しい!
ええ、夫婦の方が養子縁組の道が広くなるのは確かね。」
「独身でも養子縁組できるの?」
「心配いらないわ。」

姉さんは確信を持って言う。
僕にはよく分からないが、独身でも養子縁組は可能なのだろう。
そうだよな、後継ぎ問題とかって、独身だからこそ起きることもあるんだろう。
養子縁組はそういう解決にも使われること程度は、2時間サスペンスを見て知っている。

「私、結婚するから。」
へ?
「彼と結婚して、ふたりでマルコを支えるの。」
は?

彼、と姉さんが顔を巡らせた先に、さっきマルコ少年の後ろから入ってきた、一般客の男性がいた。
おいおい何なんだよ。
一般客じゃなかったのかよ〜!

隣のテーブルでコーヒーをすすっていた、姉さんと同じくらいの年頃に見えるあの男性が、すっと立って3歩。
マルコ少年の後ろに立った。
背が高い。
少年は彼の足に抱き付く。
慣れたしぐさで、間違いなく知り合いなのだと納得がいく。
ということは、この人が本当に姉さんと?
「ジョージよ。」
姉さんは明るく言うが、どう見てもコテコテの日本人だ。
ジョージだと?

「サトル君。
はじめまして。
カネタマルジョージです。
お姉さんとの結婚を認めてください。
よろしくお願いします。」

差し出された大きな手と、思わず握手してしまい、慌てて手をひっこめた。

「彼はもともと、海外ボランティアとして私より先にあちらへ来ていた日本人教師なの。
いろいろとお世話になっているうちに、いろんなお話をするようになってね。
マルコもバイリンガルにしてしまおうって思いついて、ふたりで一緒に物心つくかつかないうちから、日本語を教えちゃったのよ。
それで、彼は…」

姉さんによるジョージサンの紹介が続いていたが、僕はもう聞いていなかった。
デジャヴだ。
今朝、こんな夢を見たのではなかったっけ?
なんだろう、このドラマチックな展開は!
まだランチは食べてないけれど、もうお腹いっぱいだよ!

頭がカオスに支配されている僕を憐れんだのだろうか、マルコ少年がジョージサンから離れて、僕の前に立ち、突然両腕を伸ばして僕に抱き付いてきた。
細くて、温かくて、しなやかな重みが僕をかろうじて地上につなぎとめてくれる。
彼の体から、熱い太陽の匂いがした。






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姉さんの後ろから、一般客の男性の前を歩く少年が入ってきた。
6歳?7歳?それとも、もっと幼いのか、もう少し年上なのか。
小さい体から細い腕が覗いている。
黒い短い髪、黒い瞳。
明らかに日本人ではないのだが、どこか親近感を覚える顔だちをしている。

少年は、立ち止まった姉さんの脇にピタリと寄り添って、片腕で抱き付いている。
姉さんは、その子の肩に、掌をそっと載せている。
その黒い瞳が、僕をソフトフォーカスで見つめている。
なんだ、この光景は?

「紹介するわね。彼はマルコ。」
「マルコ?」
「そう。同じ農園で働いていた人の息子。」
「同じ農園…息子…。」
「いろんなことがあってね、私、この子を育てることに決めたの。」
「育てる…。待って、この子の親は?」
「…亡くなったの。」
「へ?」

言葉だけ書くと、僕が姉さんに尋ねているようだけれど、本当は違う。
尋ねているのはすべて貴船オーナーだ。
僕は驚きのあまり、声も出ない。

「ちゃんと聞かせて。その前に座って。」
「ええ。はい。ありがとう。」
姉さんはオーナーが差した席に先にマルコ少年を座らせると、隣に自分も腰かけた。
「ちょっと落ち着こう、うん。コーヒーを淹れよう。」
「ありがとうございます、オーナー。」
今度は姉さんも丁寧に答えた。
カウンターに戻る前のオーナーに背中を押されて、僕は姉さんの前の席に腰かけた。
そこには、さっきまで僕が飲んでいた水があった。
僕は無言でボトルから水を注ぎ、喉を鳴らして飲み込む。
レモンの味がするはずなのに、少しも分からない。
さっき少年の後ろから入ってきた男性客が隣の席で何かを注文している。
姉さんの後で雇われた、年かさの店員が聞き取ってメモをとる姿を僕は呆然と眺めた。

オーナーは、アイスコーヒーを4つトレイに載せて戻ってきた。
ホットは丁寧に淹れるから時間がかかる。
アイスは先に作って保存してあるから、グラスに注ぐだけでよいのだ。

「もう一度聞かせて。どうして君がこの少年を育てようと?」
この冷静沈着なオーナーでも、この顛末には慌てているらしい。
僕よりも、姉さんよりも先にアイスコーヒーをごくりと飲むと、すぐに問いかけた。

「この子の母親は私が農園に行って間もなく、この子を産んだの。
まだ15だった。
苦しい初産で、命を落とした。」

衝撃的な話だった。
けれども、聞き知ってはいたのだ。
国によっては、12や13で嫁ぎ、出産することも少なくないと。
この日本だって、100年遡れば、それが常識だったはずだ。

「それから、父親がこの子を育てたの。
日本とは少し違うやり方かもしれないけど、愛情いっぱいに育てた。
農園で働くみんなが家族のようなものなの。
だから、私も一緒に彼の成長を見守ってきたの。

先月のことよ。
この子の父親は農園の仕事でシティに出かけて、事件に巻き込まれたの。
強盗殺人だった。
グアテマラは拳銃を持ってもいい国なの。
シティは首都だけれど、治安がとても悪い。
分かってはいたのだけれど、まさか自分の身の回りであんなことが起きるなんて思っていなかったわ。」

姉さんはマルコ少年の頬を撫でる。
少年はこの話が分かっているのかいないのか、表情を変えずに姉さんを見上げている。

「突然父親を失って、呆然としているこの子を毎晩抱いて寝たの。
この子の両親は流れ者だったらしいの。
母親の方は農園の誰かの娘だと思っていたのだけど、事件の後で、そうじゃないと知ったわ。
二人とも、どこから来たのか、誰にも何も言っていなかったのよ。
だから、この子は身寄りを完全に失ってしまったの。

そうして、私も考えたの。
私はいつまでここにいるのか、何をしたいのか、何をしたくなかったのか。
これからどうやって生きていくか。
そんなことをいろいろとね。」

なんだか分かる気がする。
身近な人の死は、誰もを哲学者にする。
生きるとは?幸せとは?と問わずにはいられない。
僕は、僕自身のために、それを問い続けてきた。
いや、問うことを禁じて、今を生きてきたと言った方がいいかもしれない。

「サトル。
あなたに謝らなくてはならないわ。」
姉さんは言葉を切って、グラスに手を伸ばした。
小さな水滴が付き始めた細長いグラスが、すっかり日に焼けた姉さんの手の中に半分隠れている。

「私が日本を離れたのは、恋に破れたからじゃないの。
本当は、あなたを失うのを見るのが怖かったの。」

僕は息が止まった。
姉さんが言っている意味をちゃんと理解しなきゃ。
そう意識すればするほど、頭がガンガンと音を立てて混乱した。
僕がいたから、姉さんはここにいられなかったということか?

「私にとってあなたは、最後の家族よ。
それが、重い病気にかかって、治ったとはいえ、いつ再発するか分からないなんて言われて、私は怖くて怖くてしかたがなかったの。
あなたのそばにいて、あなたの支えにならなければとも思った。
でも、そうやってあなたにのめり込んで失ったらと想像すると、ショックの大きさが恐ろしくてどうしようもなかった。
それで、まだあなたが病院にいるうちから仕事を探して、気を逸らしたの。
だけど、仕事をしていても、ダメだった。
今度は、あなたを失ったときに、どうしてもっと近くにいてやらなかったんだろうと後悔する自分を想像して、苦しくて、苦しくて。
私には、あなたのそばにいることも、いないこともできなかったの。

そんな私を救ってくれたのは、母さんだった。
ある朝、母さんの夢を見たの。
おいしそうにコーヒーを飲んでた。
ルナソルでバイトをしたのも、母さんがコーヒーを好きだって知らなかったことがきっかけだったけど、この夢の中でも母さんはあの笑顔でコーヒーを飲んでいて、言ったの。
『不思議ね。コーヒー豆って日本ではできないのよね。どこでどんなふうにできているのか、見てみたかったわ』って。

その夢は、私に日本を離れる口実を作ってくれたの。
できるだけ遠くて、開発途上の国で、連絡なんかとれないところを選んだ。
そこでせめて5年、暮らそうと思った。」

僕には姉さんが5年といった意味が分かっていた。
僕の病気は5年再発しなければ、完治といっていいらしい。
姉さんはそのことを言っているに違いない。

「まずは5年。
サトルは大学院に行ったから、院を終えたところで5年経ったのだけど、念をいれてあと1年。
それでもサトルはやっぱり元気で、仕事も始めたというし、本当はもう、向こうにいる理由がなくなっていたの。
そんな時に、マルコのお父さんのことが起きた。
私、帰ろうと思った。
マルコと一緒に、サトルのいるこの日本へ。
そうして、マルコに、昼でも夜でもショルダーバッグがどこにかかっているかなんて気にもかけずに歩けるこの国で、この子を成長させてあげたいと、心から思ったの。

サトル、ひどい姉さんだったわ。
ほんとうにごめんなさい。」

僕こそごめん。
姉さんの気持ちなんか、全然分かっていなかった。
ただの自由人だと思ってた。

言葉にならない僕の気持ちは、ちゃんと姉さんに伝わったらしい。
姉さんは、微笑んで僕を見つめている。
今度は僕が、姉さんの思いを丸ごと受け止める番だ。
僕は本気でそう思った。







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明け方になってうとうと寝入るなんて、こういう場合よくあることだろう。
眠れなくたってしかたない。
頭の中に、いろいろな姉さんの「男」が浮かんでくる。
引き締まった体躯の黒人男性が浮かぶ。
これは、米国大統領のイメージだ。
かと思えば、筋肉が目立つ、真っ白い歯が印象的な笑顔。
これは、ニュースで見たばかりのプロボクサーか。
日本人男性も浮かぶ。
「ボランティアで教師をしていたところで葉月さんに出会いまして…」なんて挨拶まで浮かんでくる。
青い目に白い肌、金髪がクルクルフワフワと頭にのっている陽気な男が出てきて、「ハヅーキィ!」なんてハグしていたりする。 
どこかで見た映画俳優のような気もするが、もう分からない。

挙句には、自家用ジャンボ機のタラップを降りてくる姉さんの腰に手を回したアラブの大金持ちが出てきて、「うわぁっ」とうめいた自分の声の大きさに驚いて目が覚めた。

おいおい…。
自分でツッコミを入れるくらいしか、このシーンを笑う術が分からない。
コミカルなほどに慌てている自分がそこにいた。

よく考えてみれば、ねえさんが成田のホテルに男といること以外、なにも分からない。
どうして突然帰国したのか、そちらの方が大事かもしれない。
それも、男、か?
姉さんはじゃーねと言って、連絡先も教えてくれなかったし、今日どうやって会えるのかも言わなかった。
こんなの、蛇の生殺しだよぉ!

それでも腹は減る。
僕は下に降りて、台所の冷蔵庫を開ける。
この台所は店のキッチンとは別の、生活専用の場所だ。
それほど大きくもない冷蔵庫で、さすがゆかりさんの管理が行き届いているため、無駄なものや古いものが隅っこに残っているなんてことはない。
「…朝っぱらからなんだけど、チャーハンでも作るか。」
チャーシューを厚めに切って刻んでいたら、少しだけ心の波が凪いだ気がした。


姉さんから連絡が来たのは、昼前11時ごろになってからだった。
ホテルを出て、そちらに向かっているところなの、ルナソルで12時、来られるかしら?
当然来ると思っている強引な問いかけが姉さんらしくて笑える。
「ああ、大丈夫。」
「じゃぁまた後で。」
いつどんな連絡が来ても飛び出す準備ができていた僕は、そのまま外に出た。
姉さんのことだ、きっと間際になって呼び出すに違いないと思ったのが大当たりだった。
貴船オーナーのルナソルまでは、それほど遠い道のりではない。
最後の上り坂のきつさを除けば!
でも今はまだ、心地よい乾燥した風が吹く季節だ。
梅雨まで少し間がある。
きっと気分よく登れるだろう。


それでもわずかに汗ばみながら入ったルナソルは、いつものようにホコリを感じさせない乾いた空気に満ちていた。
「おや。こんな時間に珍しい。」
貴船オーナーはいつもの爽やかな笑顔で迎えてくれる。
「連絡、ありました?」
前後を省略して尋ねる僕に、オーナーはきょとんとする。
「姉さんが、帰ってきたんですよ。連絡、なかったですか?」
「そうなのか!いや、何も。」
オーナーも驚いている。
「何かあったのかな。それとももう満足したのかな。」
「解りません。それに、どうやら男が一緒らしい。」
「男?」

貴船さんは、渡航前の姉さんが恋に破れた人だ。
そんな人の店にわざわざ連れてくるなんて、結婚でも約束した男とした思えない。
「あたし、幸せになりますっ!ってか?」
ひとりごとをいいながら、案内されるままに席に着く。
緑色の瓶に冷えた水を無意識のうちに飲む。
いつものように、かすかにレモンの味がする。

「12時にここへ来るっていうから。」
「おや、そうなの。何年になるかな。久しぶりだ。」
オーナーは本当のところどう思っているのか、平然としている。
「では、もう少しで着くかな。今日のランチをぜひ食べて行ってほしいね。」
そういうと、わざとか忘れたのか、オーナーは僕の注文をとらずにカウンターの向こうへ下がってしまった。

それから15分ほどだろうか。
不意に姉さんが店に入ってきた。
「ああ、ここは涼しい!」
見れば、小さなバッグひとつしか持っていない姉さんは、別人のように陽に焼けている。
その分、以前よりもずっと強そうに見える。
男が、いない。

「サトル!」
姉さんもすぐに僕に気付いたようだ。
足早にやってくると、立ち上がりかけの僕をギューッと抱きしめた。
「おい、やめろよ。」
心にもないことを言っても、姉さんはそのままくっついていて、「元気そうでよかった!」とつぶやいた。

「元気だよ。夜の仕事だから日焼けはしてないけどね。」
「ほんと。モヤシみたいに真っ白!」
貴船オーナーが近づいてきた。
「オーナー!お久しぶりです。」
「おかえりなさい。元気そうだね。」
おかげさまでと姉さんが答えるのを聞きながら、僕は『おかえりなさい』をまだ言っていないことにやっと気が付いた。
しまった。

「なんだか、お連れさんがいるそうだねぇ。」
これもオーナーに先を越された。
「ええ、そうなの。驚かせてはいけないと思って、外に待たせているんだけど、連れてきても?」
「もちろんだよ。なぁ、サトル君。」
「は、はい!」

姉さんは一度も座ることなく、身を翻して扉の外に出た。
いよいよ、姉さんの「男」とのご対面だ!
僕は知らず知らずのうちに体中の筋肉をこわばらせている。
奥歯がギリギリと音を立てそうだ。

もう一度扉が開いて、姉さんが入ってくる。
その後からついてきた男は…

えっ??




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