雨の外出で疲れた体を、まだ陽が落ちきらない時刻の長風呂で癒す。丁寧に体を洗った湯あがりは、すっかり火照ってクラクラする。熱が引くまでと横になったらウトウトしたらしい。キュウリ畑の夢を見た。
沖縄を思わせる冴え渡った青空の下、畑にはキュウリがたくさん実っている。ツヤツヤしたの、真っ直ぐなの、伸びすぎたの、曲がったの、膨れたの、いろいろ見える。農夫がいる。なぜ全部真っ直ぐなのにならないのかと悩ましい。
同じ長さ、同じ太さ、真っ直ぐなキュウリだけであれば、商品として大変売れ行きがよく、儲かりやすい。伸びすぎたり曲がったりしたのは価値が下がる。できれば1本のハズレもなく、真っ直ぐで丁度良い長さのキュウリにしたい。
私は、自分は農夫なのだろうと思っていたけれど、農夫を外から見ているところから、何か別の者らしいことに気付く。ふと、農夫とは違うことを考え始めた。真っ直ぐのキュウリは高い。買えなくて、食べられない人もいるかもしれない。
曲がったキュウリは安いから、真っ直ぐが買えない人でも食べられる。漬物には、ちょっと伸びすぎたやつのほうが合う。そうか、曲がったやつにも、伸びすぎたやつにも、それにしか持てない価値があるのだ。
それでも、どうにも価値がなくて捨てられるキュウリも出てくる。それはそれでいい。また土に帰っておいで。その時気がつく。そうか、私は農夫じゃなくて畑なんだ。改めてキュウリたちを見る。もう、どんな形でも大きさでも構わない。
ただ、それぞれがあるように育ってくれればそれでいい。全部が同じであってもいいし、なくてもいい。そうか、育むとはこういうことかと納得する。農夫の悩みでさえ、あってもいいし、なくてもいい気がしたところで目が覚めた。
