人とは空のように自由で際限がなく、つながりあっていて、失いもせず、元々すべてを持っているのだと聞かされて、僕は母さんや姉さんのことを思い出した。
僕にとって、それは当たり前のことだった。
でも、誰にとってもそういうわけではないと、この夜、僕は知ることになる。
「あの、差し出がましいのは承知なのですが少しお話をさせていただいても?」
ゆかりさんがそっと言い出たことに、僕はいくらか驚いた。
お客様一番の彼女が自分の話したいことを優先するなど、かつてなかったからだ。
「いいですよ、どうぞどうぞ。」
和尚さんとともにやってきた檀家さんたちが朗らかに答える。
「ありがとう存じます。」
ゆかりさんはしんみりとした顔で会釈をした。
「何かな?」
和尚さんがゆかりさんに言葉をかけた。
その声を待つようにして、ゆかりさんはゆっくりと話し始めた。
「穂高は、親御さんの深い愛情に恵まれて育ったようです。
それがどれほどありがたく、幸せなことかは疑う余地がありません。
人がみなそうであれば、この世から不幸な人はいなくなるでしょう。
でも、和尚様はすでにご存じのとおり、世の中で、そんな幸せな人は稀です。
こんな時に私のことで恐縮なのですが、長い長い間の絶望と疑問なのです。
どうかお話しすることをお許しください。
私は母を知りません。
私の母という人は、私を15で産むと、育てようともせず、私を見捨てたそうです。
今と違って、そのころはそんな歳で子を産む人はけして珍しくもなかったでしょう。
でも、母は私を育てようとはしなかった。
理由は知りません。
もとより、父親が誰だったのかも分からないのです。
折りも折り、日本は戦後の復興への道を歩き出したところです。
まだ子どものような母に、私を育てることがとても大変だったのだろうということは容易に想像がつきます。
どのようにして妊娠したのかも…それが母が望まぬことであったのだろうことも、分かる気がするのです。
ある日、母は乳児院をしていた篤志家のところへ倒れ込み、私を産んだそうです。
大人たちは母にいろいろ問いかけたそうですが、名乗りもせず、ただ15歳だということと、身寄りがないことだけを答えたそうです。
そうして、私を産み落とし、一晩もたたず、まだ自分の身も落ち着かないうちに、母は姿を消し、二度と現れませんでした。
そのようなわけですから、私は気付いたら、愛情に飢えた血のつながらない同年代の子どもたちとともに育つしかなかったのです。
私はいつでも不安でした。
自分がそこにいていいとも思われず、愛されているなどと考えることも感じることもありません。
油断すれば奪われ、求めなければ得られず、求めても得られない経験ばかりが増えるのです。
いろいろな人から殴られ、蹴られ、暴言を吐かれました。
自分が生きていることは罪悪だとしか思えない子供時代でした。
私は母と同じ歳になったころ、孤児院を飛び出して、ひとりで生きるようになりました。
そんな女が夜の世界と縁を持つのは当たり前のなりゆきだったのでしょう。
でも、人を信じることができず、自分を信じることもできない私が、人様をおもてなしするなど、できるはずもないのです。
どのような目に遭い、血を吐くような思いをしたかなど、お聞かせするのもお耳汚しなばかりです。
それでも、私がいくらか人らしくなれたのは、亡くなった夫との出会いがあったからでした。
今でも思うのです。
私はあの人に出会わなければ、安心とか、自分に居場所があることだとか、自分にも人様にして差し上げられることがあるなどということに気付くことはできなかったでしょう。
そう思うと、恐ろしくて身震いするほどなのです。
夫は本当にできた人でした。
彼だから、私のような者ともつながり合えたのだと思います。
そうして、この穂高もそうです。
生まれながらに幸せを持っている、とびきりできた人でなければ、私のような傷者とは付き合い切れないのでしょう。
和尚様。
穂高が幼いころに母上から与えられたようなものを受け取れない子供たちは、いったいどうしたらよいのでしょう。
時間がたてばたつほど痛みは深まり、不安は募り、心がひねくれてしまいます。
幼いうちならば諸手を広げて受け止められたものでも、ひねくれてしまってからでは受け止めるだけでも一苦労です。
私はどうしてあのような目に遭わねばならなかったのでしょう。
母と聞いても会いたいとすら思わず、恋しいと思ったこともない。
それを世間は悲しいと申します。
けれど、その悲しみは私のせいなのでしょうか。
私が母を恋い慕って泣き続ける子であったなら、もっと早くに安心や居場所を見つけたのでしょうか。
幸せな子どもになれたのでしょうか。」
どれも、初めて聞くことばかりだった。
ずっと常連でいた元さんや長さんや宮田先生も、どうやら初めて聞いた話のようだ。
和尚さんは途中から目を閉じ、言葉のわりには激しさを帯びないゆかりさんの声にじっと聞き入っていた。
ゆかりさんがそんな人生を送ってきたなどと思いもしなかった僕は、声を出すことすらできなかった。
「そうよな…。」
和尚さんはそろりと目を開けると、つぶやいた。
「よくぞ生きてこられたなぁ。ありがたいことだ。」
深く温かい声だった。
「そうしてなぁ、やはりあなたもまた、とびきり幸せな人なのだなぁ。」
えっ?というように、ゆかりさんの目が大きく見開かれた。
僕は今の話に「幸せな人」を見つけるのは難しくて、よいご主人に出会えた幸運のことを言っているのだろうか?、それでは子どもの頃のゆかりさんは?と疑問に思った。
ふと、空を思った。
この話をしている今も、屋根のずっとずっと上には、何十年前と何一つ変わらない空が広がっている。
空から見たら今僕が聞いた話は、どう見えるのだろう?
僕には分からなかった。

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コメント
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幼い子たちのためにおやつを作ったり、兄弟のように面倒をみたり。
暴力的で反社会的な子がいる反面、穏やかで平和的な子がいたり。
どこで差がつくのか、私には見えてきません。
でも、同じ環境で育ったとしても、みんなが同じ人格になるわけではない。
ゆかりさんのような、ホッとする女性になることもあるでしょうね。
私はもっと親に構ってもらいたかった子どもでした。
子ども時代はやり直しができないけれど、大人になってから穴埋めすることはできるような気がします。
施設でも、家庭でも、粗暴な性格の人は育ちます。
粗暴な時期を「悪い子」と言われるか「何か迷っている子」と見られるかで、その後の人生に変化が出るようにも思います。
もっと見て!もっと構って!と、多くの子どもは思いますね。
一方で、「もう放っておいて!ひとりでやらせて!」と悲鳴を上げるように暴れている人も見てきました。
学校で算数や国語を習うように、人間関係や子育ても教えたらいいのにね。