七夕の夜、小紫はお客様が多くて、嬉しい悲鳴を上げた。
梅雨のさなか、朝のひんやりした空気はどこへやら、日中は雨はなかったのに、全身に水滴が付きそうな蒸し暑さだったことも、帰宅前のビールを恋しくさせた要因だろう。
「とにかく、生をひとつ!」なんて注文が多かった。
この日のお通しは枝豆だ。
ただし、ゆかりさんのことだから、スーパーで買った枝豆などではない。
裏の畑で、春先から自ら育てた枝豆なのだ。
有機栽培、当然除草剤など一切使わず、僕も一緒になって毎朝草取りをしてきた。
それを、この朝、まだ葉に朝露が光るうちに収穫し、ゆでたものだ。
ゆで方のコツは僕にはわからない。
ただ、仕上げにザッとふりかけた塩にもこだわりがある話は聞いている。
この塩が、本当に旨いのだ。
小紫の調理場には、3種類の塩がある。
しっとりと、細かい塩。
これは、枝豆をゆでるときにも使っていたが、出番が一番多い。
元さんが大好きなおむすびにも、この塩が使われる。
それから、卓上瓶に入った、サラサラした塩。
これは、サラダの仕上げにサラリとふりかける時などに使う。
そして、ざらめのような粒の塩。
枝豆に振ったのがこれだが、ほかに、天ぷらに添えたりもする。
ゆかりさんこだわりの塩は、伊豆大島で作られている。
口に入れると塩辛さの後に甘みを感じるから不思議だ。
海水から伝統の製法で作られるそうだが、どれも強い火で焼いたり、天日で乾燥させたりして作るから、「塩に邪気がない」のだそうだ。
邪気がある塩とは?という点は、さっぱりわからない。
そもそも、塩って邪気払いに使われるものじゃないの?
この塩の話は以前から何度も繰り返し聞かされているのだが、いまだに理解できないのだ。
世の中には、僕が知らないことがまだまだたくさんある。
ともかく、邪気のない旨い塩が白く載った枝豆の評判と言ったらなかった。
うまい、うまい、枝豆ってこんなに甘いものだったかね、
生をもうひとつ、いや、できれば枝豆をもうひと皿…
などという声が続いて、ゆかりさんはご機嫌だ。
「今日のようにたくさん汗をかいた日は、水分もたくさんお取りになるでしょう?
すると、汗と一緒になくなっていた体の中の塩分が水で薄くなってしまうんです。
それで、水を飲むほど熱中症になるなんていうこともあるそうなんですよ。
ですから、今日の枝豆には粒塩をふりましたので、一緒にお口に入れてみてくださいね。」
初めて来た客の席に二度目のビールを運びながら、ゆかりさんが話している声が聞こえる。
僕が作っておいた短冊も、置いたままにせず、お席に運んでみることにした。
思いついたのは僕だ。
「今夜は七夕ですから、願い事をお書きください。」
一笑に付されるかと思いきや、「おお、そうかい?」と書いてくださる方が多いのに内心驚いた。
集まった願い事は、この街、この店にふさわしい、ささやかなものが多かった。
『家族が幸せに暮らせますように』
『温泉旅行に行きたい』
『おじいちゃんの足がよくなりますように』
『お嫁さんが見つかりますように』
『安全第一』…これは、元さんが書いた。
さすがは棟梁だ。
「笹じゃなくて、毎日現場にかけておくといい。」
宮田先生が珍しく冗談を言った。
『家内安全』…これは、八百屋の長さんが書いた。
「よほど、奥方が怖いのだろうねぇ。」と元さん。
「家内安全ってのはそういう意味じゃないよ。
まるで何かい?うちの家内は危険みたいな言い方するじゃないか。」
言い返した長さんに、
「家内ってガラか?ひとっつも頭が上がらないくせに。」
「う…。いや、まぁ、ヨメの言う通りにしとけば平和だからねぇ。」
一緒に来たわけではない隣のテーブルまで笑っている。
『無病息災』…これは、宮田先生が書いた。
「おいおい、先生よぉ。先生が無病息災なのは願ってもないことだけれど、世間みんなが無病息災になっちまったら、先生は飯が食えなくなるよ。いいのかい?」
元さんにからかわれて、宮田先生が一瞬真顔になったから、また周囲から笑い声が溢れた。
「確かに。では、ちょいと…。」
そう言って先生は筆ペンを取りなおすと、無病の「無」を二本線で消して、「一」と脇に書き足した。
「一病息災?」
「ああ。私が勝手に作った言葉だよ。
人間、何一つ病気もしない体だと、つい油断をして食べ過ぎたり飲みすぎたり、健康を過信して、気付かないうちにかえってひどく体を壊してしまうものなんだ。
それより、ひとつくらい気になることがあって、己を労わりながら養生するつもりで暮らす方が、長く息災にいられるというものだよ。」
なるほど、そういうこともあるかもしれない。
僕なんか、まさにその口だろう。
もしかしたら、先生は僕に気遣って、こんなことを書いてくれたのだろうか。
「こんばんわぁ!お久しぶり〜!」
笑い声の中に、能天気なほど陽気な声が響いた戸口を見ると、さよりさんの顔がのぞいている。
確かに、ずいぶん久しぶりだ。
「あらぁ、さよりちゃん。元気だったの?」
ゆかりさんは、里帰りした娘を出迎える母のような喜びようでカウンターから弾み出てきた。
「会社の人たちと一緒なんだけど、いい?」
「もちろん。丁度奥のテーブルが空いたところだから。何人様かしら。どうぞ。」
さよりさんを入れて6人の団体様だ。
おそらくみな運転手なのだろう。
さよりさん以外は全部男性で、しかも、僕より少し年上に見える。
そろいの作業服姿のままだ。
実に男らしく日焼けしていて、半袖の作業服からのぞいている腕は、どれも力を入れているわけではないのに、筋肉がくっきりと浮き上がっていて、同性の僕から見てもカッコイイ。
メラリ。
僕の心の底に、普段は感じない熱が伝う。
大ジョッキを6つ、一度に運ぶと、
「ビールは鮮度が命だから。」
とさよりさんの一声で、無駄な話のない乾杯が叫ばれ、黄金色の液体がふとやかな喉に流し込まれていく。
「プハーッ、美味いなぁ!」
「たまらないな、こりゃ。」
ポッ。
さっき心の底に伝わった熱から、小さな炎が引火した。
全身をとことん使って働く人だけが、あげる声がある。
ビールのうまさは、そんな労働と仲が良い。
僕は、その労働を知らない。
知らないから、嫉妬心がわくのだ。
今夜の僕はどうかしている。
一年に一度会える彦星と織姫。
それとは違って、僕はいつでもその気になればさよりさんに会える。
しばらく顔を見ていないのは、必要がなかったからではないか。
彼女が会社の人と飲みに来たからと言って、なにを慌てる?
もう一度、大ジョッキを用意しにカウンターに戻る。
凍らせたジョッキをひとつ手にして、さよりさんのテーブルを振り返る。
以前はどこか陰のある…というか、乱れた印象があって、この人は誰かが守ってやらなくてはならないのではないかと思わせる雰囲気だったのだが、今ではお日様の香りがする、元気いっぱいのOLさんになっている。
僕はなんだか、置いてきぼりを食らったような、寂しい気持ちになってきた。
なんだよ!
その就職探しに一緒に行ってやったのは僕じゃないか。
思う端から、そんなことを考えている自分に嫌気がさす。
今までの僕なら、こんな不愉快な気分から、どうにかして目を逸らそうとしたはずだ。
でも、その夜の僕は違っていた。
僕が思うことだ。
僕が思ってやらねば。
そんな気持ちが強く出てきている。
情けないと自嘲することもなく、酒や会話に逃げることもなく、お客様の注文に応じながら、僕は静かに自分の心を感じ続けた。
調理台にこぼれた粒塩を二粒見つけた。
人差し指に押し付けて、ペロリと舐めてみる。
ほんの少しの苦味と、しっかりとした塩味、そのあとでほんのり甘さが広がる。
「もうすぐ夏だな。この塩を振ったスイカ、食べたいな。」
どうしてだろう。
目をそらすよりずっと、力強く生きている自分を感じていた。
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コメント
コメント一覧 (4)
私も、塩には、こだわってます。
といっても、どれにどれがあうのかは、わからないのですが(笑)
この間いったお店は、メインが野菜スープで岩塩が、別皿でついてきて、
自分で、味の調整をしていくのです。
少しづつ、塩がとけて、いろいろな、味になっていきます。
とても、おいしかったですよ・・・
おお!塩にこだわりが!
以前は醤油味一辺倒だったものに「塩」が美味しいと感じるようになってきました。
天ぷらに抹茶塩なんかは依然からですが、
白身のお寿司にレモンを絞って岩塩をカリリと砕いて…なんていうのも美味です。
自分で味の調整ができるお店があるのですね。
なんだか楽しそうです。
名無しで失礼いたしました。
さよりさん、懐かしい〜!
すっかり会社になじんでいるようですね。
先週は忙しくて、こちらもビール日和になりました。
ゆかりさんの枝豆が食べたかったわぁ〜。
今年、つるなしいんげんを育ててみました。
もぎたてをバターソテーにしたら、美味しいのなんの!
普段はビールを飲まない私ですが、今週は毎晩「3センチだけ」ともらっていました。
暑い日、一生懸命働いて帰ると、ビールが美味しいですね。
今日は健康診断。
う〜〜〜