姉さんの後ろから、一般客の男性の前を歩く少年が入ってきた。
6歳?7歳?それとも、もっと幼いのか、もう少し年上なのか。
小さい体から細い腕が覗いている。
黒い短い髪、黒い瞳。
明らかに日本人ではないのだが、どこか親近感を覚える顔だちをしている。

少年は、立ち止まった姉さんの脇にピタリと寄り添って、片腕で抱き付いている。
姉さんは、その子の肩に、掌をそっと載せている。
その黒い瞳が、僕をソフトフォーカスで見つめている。
なんだ、この光景は?

「紹介するわね。彼はマルコ。」
「マルコ?」
「そう。同じ農園で働いていた人の息子。」
「同じ農園…息子…。」
「いろんなことがあってね、私、この子を育てることに決めたの。」
「育てる…。待って、この子の親は?」
「…亡くなったの。」
「へ?」

言葉だけ書くと、僕が姉さんに尋ねているようだけれど、本当は違う。
尋ねているのはすべて貴船オーナーだ。
僕は驚きのあまり、声も出ない。

「ちゃんと聞かせて。その前に座って。」
「ええ。はい。ありがとう。」
姉さんはオーナーが差した席に先にマルコ少年を座らせると、隣に自分も腰かけた。
「ちょっと落ち着こう、うん。コーヒーを淹れよう。」
「ありがとうございます、オーナー。」
今度は姉さんも丁寧に答えた。
カウンターに戻る前のオーナーに背中を押されて、僕は姉さんの前の席に腰かけた。
そこには、さっきまで僕が飲んでいた水があった。
僕は無言でボトルから水を注ぎ、喉を鳴らして飲み込む。
レモンの味がするはずなのに、少しも分からない。
さっき少年の後ろから入ってきた男性客が隣の席で何かを注文している。
姉さんの後で雇われた、年かさの店員が聞き取ってメモをとる姿を僕は呆然と眺めた。

オーナーは、アイスコーヒーを4つトレイに載せて戻ってきた。
ホットは丁寧に淹れるから時間がかかる。
アイスは先に作って保存してあるから、グラスに注ぐだけでよいのだ。

「もう一度聞かせて。どうして君がこの少年を育てようと?」
この冷静沈着なオーナーでも、この顛末には慌てているらしい。
僕よりも、姉さんよりも先にアイスコーヒーをごくりと飲むと、すぐに問いかけた。

「この子の母親は私が農園に行って間もなく、この子を産んだの。
まだ15だった。
苦しい初産で、命を落とした。」

衝撃的な話だった。
けれども、聞き知ってはいたのだ。
国によっては、12や13で嫁ぎ、出産することも少なくないと。
この日本だって、100年遡れば、それが常識だったはずだ。

「それから、父親がこの子を育てたの。
日本とは少し違うやり方かもしれないけど、愛情いっぱいに育てた。
農園で働くみんなが家族のようなものなの。
だから、私も一緒に彼の成長を見守ってきたの。

先月のことよ。
この子の父親は農園の仕事でシティに出かけて、事件に巻き込まれたの。
強盗殺人だった。
グアテマラは拳銃を持ってもいい国なの。
シティは首都だけれど、治安がとても悪い。
分かってはいたのだけれど、まさか自分の身の回りであんなことが起きるなんて思っていなかったわ。」

姉さんはマルコ少年の頬を撫でる。
少年はこの話が分かっているのかいないのか、表情を変えずに姉さんを見上げている。

「突然父親を失って、呆然としているこの子を毎晩抱いて寝たの。
この子の両親は流れ者だったらしいの。
母親の方は農園の誰かの娘だと思っていたのだけど、事件の後で、そうじゃないと知ったわ。
二人とも、どこから来たのか、誰にも何も言っていなかったのよ。
だから、この子は身寄りを完全に失ってしまったの。

そうして、私も考えたの。
私はいつまでここにいるのか、何をしたいのか、何をしたくなかったのか。
これからどうやって生きていくか。
そんなことをいろいろとね。」

なんだか分かる気がする。
身近な人の死は、誰もを哲学者にする。
生きるとは?幸せとは?と問わずにはいられない。
僕は、僕自身のために、それを問い続けてきた。
いや、問うことを禁じて、今を生きてきたと言った方がいいかもしれない。

「サトル。
あなたに謝らなくてはならないわ。」
姉さんは言葉を切って、グラスに手を伸ばした。
小さな水滴が付き始めた細長いグラスが、すっかり日に焼けた姉さんの手の中に半分隠れている。

「私が日本を離れたのは、恋に破れたからじゃないの。
本当は、あなたを失うのを見るのが怖かったの。」

僕は息が止まった。
姉さんが言っている意味をちゃんと理解しなきゃ。
そう意識すればするほど、頭がガンガンと音を立てて混乱した。
僕がいたから、姉さんはここにいられなかったということか?

「私にとってあなたは、最後の家族よ。
それが、重い病気にかかって、治ったとはいえ、いつ再発するか分からないなんて言われて、私は怖くて怖くてしかたがなかったの。
あなたのそばにいて、あなたの支えにならなければとも思った。
でも、そうやってあなたにのめり込んで失ったらと想像すると、ショックの大きさが恐ろしくてどうしようもなかった。
それで、まだあなたが病院にいるうちから仕事を探して、気を逸らしたの。
だけど、仕事をしていても、ダメだった。
今度は、あなたを失ったときに、どうしてもっと近くにいてやらなかったんだろうと後悔する自分を想像して、苦しくて、苦しくて。
私には、あなたのそばにいることも、いないこともできなかったの。

そんな私を救ってくれたのは、母さんだった。
ある朝、母さんの夢を見たの。
おいしそうにコーヒーを飲んでた。
ルナソルでバイトをしたのも、母さんがコーヒーを好きだって知らなかったことがきっかけだったけど、この夢の中でも母さんはあの笑顔でコーヒーを飲んでいて、言ったの。
『不思議ね。コーヒー豆って日本ではできないのよね。どこでどんなふうにできているのか、見てみたかったわ』って。

その夢は、私に日本を離れる口実を作ってくれたの。
できるだけ遠くて、開発途上の国で、連絡なんかとれないところを選んだ。
そこでせめて5年、暮らそうと思った。」

僕には姉さんが5年といった意味が分かっていた。
僕の病気は5年再発しなければ、完治といっていいらしい。
姉さんはそのことを言っているに違いない。

「まずは5年。
サトルは大学院に行ったから、院を終えたところで5年経ったのだけど、念をいれてあと1年。
それでもサトルはやっぱり元気で、仕事も始めたというし、本当はもう、向こうにいる理由がなくなっていたの。
そんな時に、マルコのお父さんのことが起きた。
私、帰ろうと思った。
マルコと一緒に、サトルのいるこの日本へ。
そうして、マルコに、昼でも夜でもショルダーバッグがどこにかかっているかなんて気にもかけずに歩けるこの国で、この子を成長させてあげたいと、心から思ったの。

サトル、ひどい姉さんだったわ。
ほんとうにごめんなさい。」

僕こそごめん。
姉さんの気持ちなんか、全然分かっていなかった。
ただの自由人だと思ってた。

言葉にならない僕の気持ちは、ちゃんと姉さんに伝わったらしい。
姉さんは、微笑んで僕を見つめている。
今度は僕が、姉さんの思いを丸ごと受け止める番だ。
僕は本気でそう思った。







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