尼寺に行くわねと、ゆかりさんは宣言して、いそいそと出かけてしまった。
店に残った僕は、急転直下の展開について行けず、ぼけっとするばかりだ。
車が飛び込んできて店をぶっ壊すなんて想像もしていなかったし、店がぶっ壊れたからといって、ゆかりさんが以前からの念願を叶えるチャンスだと言い出すなんて思いもしなかったのだから、心の準備ができていなくてもしかたがないじゃないか。

自由な人だなぁ、ゆかりさんは。

半ばあきれる思いでいたが、前の仕事を終わらせて日が落ちる頃にやってきた元さんの話を聞いて、ちょっとだけ納得した。
店の改修は、もう何年も前からの懸案だったと言うのだ。

元さんはすでに、改修案の設計図を持っていた。
費用のことも計画済みらしい。
改修計画が止まっていたのは、なんと僕を雇ったからだとも聞かされ、眼を丸くした。
仕事を始めてすぐに休業ではかわいそうと思ってくれたということだろうか。
一緒に働いてみれば、僕は病弱で世間知らずで、きっと放り出せなかったんだろう。
心底優しい人だからな。

僕は落ち込みかけた。
なんて迷惑をかけちゃったんだろう。
本当はもっと早く、綺麗な店にしたかったのだろうに。
僕のために犠牲を払わせてしまった…と思ったからだ。

「それはちょっと違うんじゃないかな?」
元さんは僕の気持ちを察したように、顔を覗き込みながら言った。
「そうでしょうか。なんだか負担をかけたなぁって気がします。
もっと自立した男を雇っていれば、計画通りに進められたんじゃないですか?」
「計画通りに進んでいたらどうなっていたと思う?」
「は?」
「直して1年もたたずに車が飛び込んできて、再修理ってわけだ。」
「あ…。」
「君が出会ったいろんな客たちとの出会いもなかった。」
「それは…。」
「あの人はそういう大事なものを当たり前に大事にできる人なんだよ。」
「はい。」
「すまないとか、迷惑をかけたとか思うのは、かえってあの人に失礼なんじゃないかねぇ。」
「……。」
「改修中は念願だった寺での暮らしを体験したいというのも、前から言っていたことなんだよ。」
「そうなんですか?」
「ああ。憧れていた尼さんがいるんだそうだ。」
「憧れ、ですか?」
「奔放に生きて、それを小説にしたり講演したりしているんだとか言っていたかな。」
「小説?それって…。」
「俺は関心ないから知らんがね。有名人なのか?」
「もしも僕が思うのと同じ人なら、かなりの有名人です。」
「そうか。いかにもあの人らしいなぁ。何歳になっても夢を捨てないってのはなかなかできることじゃないよ。」
「そうですね。」
「ところで、ここは無人になるから管理を頼むとも言われているが、君はどうするんだ?」
「ああ、そのことですけど…。」

そうなのだ。
僕はゆかりさんに約束させられた。
1か月ほど、ゆかりさんが尼寺へ行っている間、僕にも何か、非日常のことをしろというのだ。
学校と本と、ときどき病院、そこそこのアルバイトだけで暮らしてきたような僕には、この小紫での毎日そのものが非日常だった。
だから、改めて非日常のことをしろと言われても、何も浮かんでこない。
「本当はやりたかったけど、できていないことにチャレンジよ。」

やりたいことが決まっている人は簡単にそんなことを言うけれど、僕にはそんな雲をつかむようなことを考えさせられるのが苦痛だ。
「ママに『穂高がぐずぐずしていたら家から追い出して』って頼まれているからなぁ。
今夜くらいは大目に見てやるけど、明日はでかけろよ。
カギはもう預かっているからさ。」

元さんは壊れたところを一通りチェックすると、ひと月後に会おうと言って帰って行ってしまった。

おいおい、どうするんだよ、僕。
やりたかったけど、できていないことってなんだ?

僕は部屋に戻り、布団に寝転んで思いを巡らせてみた。
子どものころを思い出してみる。
母さんがいて、姉さんがいて、あの懐かしい小さな部屋が浮かんでくる。

どこかへ行きたいと思ったことも、誰かに会いたいと思ったこともない小さな自分がそこにいた。
大人になったら何になりたいと思ったのだっけ?
思い出せない。
同級生たちのように、野球選手だの弁護士だのと考えたことはなかった。

病気をしたときに、医者になりたいと思ったことがちょっとだけあったっけ。
でも、たちまちそんな気持ちは消えた。
自分には数学や理科の才能がなさすぎた。

母さんに楽させたいと思ったことはある。
どうやったら楽をさせられるのか、思いつく前に母さんは死んでしまったけど。

「うーん。」
声に出して唸ってみた。
思いつかない。

そのまましばらくウトウトと眠ったらしい。
不意に目が覚めて、と同時に浮かんだことがあった。
「そうだ。グァテマラの姉さんに会いに行ってみようか。」

ふううと大きなため息が出た。
僕の胸から外に出ようとしていた思いはこれだったらしい。
「パスポート、切れてないかな?」
僕は机の引き出しをガサゴソと探し始めた。




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