店に車が飛び込んでくるなど、誰が考えるだろう。
僕とゆかりさんはただひたすら驚いているだけだったが、誰かが通報したらしく、じきに警察や救急車が来て、あたりは大騒ぎになった。
救急車はなぜか消防車と一緒に来たから、小紫は火事を出したと勘違いしたご近所さんが避難する騒ぎもあったのだと後になって耳にした。

事故を起こした車を運転していた人は骨折など重傷を負ったが命に別状なかった。
奇跡に思える。
それほどに、小紫は壊れてしまった。
眠れない夜が明けて、僕とゆかりさんは恐る恐る外に出てみた。

突っ込んできた車は実況見分を朝からするとのことで、まだそのままになっている。
ドアがはずれ、窓ガラスが割れ落ちたことはわかっていたが、大事にしてきた看板がタイヤの下で粉々になっているのを見て、ゆかりさんは涙ぐんでいる。

「…でも、穂高に怪我がなくて本当によかったわ」
「ああ、そういえば…」
僕は、沖縄帰りのお客様にいただいたシーサーのことを思い出していた。
「あのシーサーが僕の身代わりになってくれたのかもしれないなぁなんて思うんです」
「ええ、きっとそうね。本当によかった。だって、ほんの1分、いえ30秒長く外にいたら、あなたがあの看板みたいになっていたに違いないのよ!」

僕は、事故の直後は驚きのあまりに腰を抜かして震えていたが、次第に驚きが冷めて、落ち着きを取り戻した。
ゆかりさんは逆だった。
僕が無事だとわかると、だんだん落ち着きをなくし、事故の様子がはっきりするにつれ、いつもの穏やかさをすっかり忘れて取り乱している。
こんなゆかりさんは見たことがなかったから、内心目を見張る思いだった。

ゆかりさんを一番不安にさせたのが、店のことではなく、僕の「無事」だった。
だってあと一歩遅かったら…と、何十回言われただろう。
僕が怪我を負うことが、それほどまでに大きな痛手になるのかと、改めてゆかりさんの思いやり深さに打たれた。
大事にしてきた店がこんなことになってしまったのに、そのことは一言も言わないのだ。

「おい、大丈夫か!」
聞きなれた声は元さんだ。
「すまなかったなぁ、何も知らなくて。
今仕事に行こうとして外に出たら、近所の人がここに車が突っ込んだと話していてなぁ。
飛んで来てみたら、なんてこった、こりゃ!」
「私たちはご覧のとおり大丈夫。
朝からごめんなさいね、心配かけて」
ゆかりさんがちょっとだけ「ママ」の顔に戻った。

それからの数日は大変だった。
実況見分とやらが終わるのには思いのほか時間がかかった。
それに、僕は人生で初めて事情聴取というのを受けた。
一番近い目撃者なので、警察署まで御足労願えませんかという。
それって犯人が聞かれるものじゃないんですかと尋ねたら、制服の警察官は、いえ関係者の皆さんからお話を伺っていますと、刑事ドラマみたいなことを本当に言った。

根掘り葉掘り聞かれるものだ。
僕がゆかりさんの息子ではないとわかると、ではなぜここに住んでいるのか、どういった経緯で働き始めたのかなどと聞いてくる。
そんなの、知らない車が店に飛び込んできたことと関係ないじゃないかと言いたくもなるが、相手が警察官だと思うと、なぜが言えなかった。
別に僕には疚しいことなど何一つないのに!

様々なことについて、それは何時ですか?確かですか?と何回聞かれただろう。
聞かれているうちに、自分の記憶に自信がなくなっていく。
そもそも、分刻みで時計を見ながら動いているわけではないのだ。
しかも、一番近い目撃者と言われても、扉を閉めたら車が突っ込んできたに過ぎない。
他に見聞きしたことは何もないのだ!!

どちらかというと気が長い方だと思って生きてきたが、そうでもないかもしれないと思うほど、この事情聴取には時間がかかった。
くわえて、僕を苛立たせたことがもう一つある。
「調書を取りますので、いいですね?」と言われてどうぞと答えると、警察官は僕の言い分をいちいちパソコンに入力し始めたのだ。
それが、遅いのなんの!
しかも、これで終わりです、こちらが調書です、内容を読んで間違いがなければ…と言うので読んだら、内容に間違いはなかったけれど、漢字は変換ミスだらけではないか!

少し迷ったけれど、僕が認めたサインが残ると思うと嫌だったので、ここのこの字が違いますと指摘し続け、まるで国語の先生が漢字テストを採点しているみたいなことになってしまった。
さっきまで、どちらかと言えば居丈高だった警察官が、不愉快そうに唇を引き結んで漢字を直している姿に、彼も人間なんだなぁなどとおかしなことを考えているうちに、イライラが消えていたから、まぁ、よかった。


事故車が片づけられ、店の入り口と窓にはとりあえずブルーシートが張られた。
僕が警察に出向いている間に、ゆかりさんはご近所の方の手伝いもあったとかで、飛び散ったガラスや使えなくなった看板をすっかり片づけていた。

事故の3日後になって、ようやく2人とも心の波が引き潮になったらしかった。
「あのー、ゆかりさん」
「なに?」
「朝からすいません、僕、久しぶりに本気で腹が減りました」
「あら、穂高も?実は私もなのよ!」

食事を抜いていたわけではないのだけど、食べている気がしていなかったことにやっと気が付いた。
あれから店はずっと閉めたままだから、夜は早く寝るし、朝はいつも通りだしで、健康的な暮らしのはずなのに、心が体に向いていなかったのだろう。

さあできたわよと呼ばれてテーブルにつくと、その日の朝飯は料亭にでも来たかのような豪華さだった。
「体に失礼なことをしちゃったみたいだから、ちゃんと美味しいものをいただいて、労わらないとね」
ゆかりさん独特の発想だなと、心地よく聞きながら、いただきますと手を合わせた。

こうして笑い合いながらのんびり食べるのはいつものことなのに、特に美味しく感じる。
「このだし巻玉子、絶品ですねぇ!」
などと言いながら、丁度良く腹が満たされたところで、ゆかりさんが言い出した。

「あのね、お店をちょっとまとめて改装しようかと思うのよ」
「え?」
「壊れたところを修理するだけじゃなくて、ちょっとね」
ゆかりさんがいたずらっぽく微笑む。
「そんなこと、していいんですか?」
「していいって?」
「よくわからないけど、事故で壊れたんだから、保険がきくっていうか、賠償金はもらえると思うけど、それって元に戻すための費用ですよね?でも、それ以上の費用は出ないんじゃないですか?」
「それはそうかもしれないし、違うかもしれない」
「違うかも?」
「だって、あの運転手さんが保険に入っていたかどうかもまだわからないわけでしょ?逆に考えれば、こうして営業ができなくなっている間の補償を求めることもできるかもしれないってことよね?」
「まぁ、確かに…」
「分からないことの答えが出るのをただ待っているのも、時間の無駄のような気がするの。
だったら、好きにしましょうって思ったのね」
「はあ」
僕にはゆかりさんが大胆過ぎるように思える。

僕の気持ちが顔に出ていたのだろうか。
ゆかりさんは化粧っ気のない顔を僕に近づけて、ねえ穂高、と呼びかけた。
「はい」
「穂高は、幸せでいたい?」
「そりゃそうですよ。違う人なんていませんよ」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってますよ、当然」
「じゃ、どうしたら幸せでいられると思う?」
「え?」
いきなりそんな哲学的なことを聞かれても答えられない。
どうしたら幸せでいられるかなんて、人類普遍の問題ではないか。

「何かを手に入れる?何かを成し遂げる?もしもそれが条件なら、赤ちゃんや子どもたち、お年寄りはみんな不幸でいるしかないってことになっちゃうわね?」
「うん、確かにそうだなぁ」
「最低限の幸せって言ったらいいかしら。
何かものすごいことをしなくても、ただ生きているだけで幸せという状態の裏にあるものは何かと考えてみたことある?」
「いや、ありません…」
「間違っているかもしれないけれどね、私は今日まで生きてきて、いろいろな方に出会って、思うことがあるのよ。
それはね、幸せでいたければ、幸せな考え方をしたほうがいいってこと」
「幸せな考え方?」
「ええ。
悲しい時や苦しい時に、無理矢理前向きの考えを持てということではないから、誤解しないでね。
感じることと、考えることは違う。
穂高にはその2つを区別できる?」
「できる…気がします。」

「それなら、私が言いたいのは、感じることではなくて、考えることの方なの。
感じることは、何をどうしたって、勝手に感じてしまうから、誤魔化さずにそのまま受け止めたほうがいいと思うわ。
辛い、苦しい、寂しい、恥ずかしい、怖い、悲しい、不安だ、そういうものも、うれしい、たのしい、安心だ、みたいなものも全部ね。
でも、考えるって、自分で選べるような気がするのよね」
「例えば?」
「例えば、昔の嫌なことを何度も思い出しては人を責めてしまうとか、自分を責めてしまうとか。
人の欠点ばかりが目について、非難してばかりいるとか。
出来事を全部人のせいにして、愚痴や悪口ばかり言い続けるとか。
そういうことを頭の中でやっている時って、幸せかしら?」
「いやー、幸せなはずないですよ!
だって、そんなときって、自分はいつも被害者だーってベースがあるじゃないですか。
幸せな被害者なんて、いないんじゃないかなぁ」

「でしょう?私もそう思うのよ。
だとしたら、口や表情に出さなくても、頭の中で愚痴や悪口や非難や、そんな不幸なことを考え続けながら幸せでいたいと思うこと自体、矛盾していると思って。
幸せでいたかったら、幸せなことを考えてないと。
というよりも、幸せなことを考え続けていたら、何もしていなくても、持っていなくても、幸せなんじゃないかしら?」
「おおお!」
ゆかりさんの言いたいことが、僕にもようやく理解できた。

「今回の事故も、ぼんやりしていると、不幸な考えの種になってしまいそうな気がするの。
ご近所の方も心配したり、お気の毒ねなんて言ってくれたりするでしょう?
思いやりからだとは分かっているけど、そのままハイハイと聞いていたら、本当に被害者になってしまうわ。
私、それは嫌だなぁって、夕べしみじみ考えたの。
幸い、あの運転手さんも命に別状はないことだし、悪い人ではないでしょうから、いずれできることで償ってくれるでしょう。
被害を受けたことは、それで帳消しにして、私はね、この降ってわいたような『働けない時間』を、やりたかったけどまだできていないことをする時間にしようと決めたの。」

「へぇぇぇ!」
僕は心底感心してしまった。
メッチャすごい人に出会ってしまったんだ。
こんな考え方、こうして言われなければ一生気付かなかったと思う。

「ドアと窓を直すだけではすぐ終わっちゃうから、もうちょっと盛大に手をいれてもらって、時間稼ぎをね!?」
なんとまぁ。
真面目なんだか、イカレてるんだか。
とにかく、すごいおばちゃんだ!!

「そういうわけで、私、今夜から尼寺に行くわね。」
「はぁ???」






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