そのお客様は、疲れた顔で小紫に入ってきた。
初めての方だった。
40代ほどに見えるその男性は黒いポロシャツにかなり履きこんだデニムと、元は白だったスニーカーといういでたち。
背負ったリュックはサイズ相応に膨らんで、何やら詰めてあるようだ。
街使いするデザインではなく、多分登山用なのだろう。
開店して間もなくのことで、まだ19時前だった。
4月になってから、歓送迎会の流れのお客様でにぎわうようになっていたけれど、こんな時間の一人客は珍しい。
ゆかりさんも奥から顔を出し、いらっしゃいませと声をかけた。
カウンター席の方を気にしているようなので、こちらでいかがですかとスツールを引くと、はいと答えてリュックを下ろしながら歩みを進め、ひょいと腰かけた。
「なにになさいますか」
問いかけながら気付く。
どこか、日差しの強いところへ行ってきた帰りなのだろう。
お顔が陽に焼けているのだ。
特に頬の高いところが赤くなっている。
「ものすごく冷えたビールが飲みたいなぁ」
「では、生で」
「いや、瓶がいい。小さめのサイズがあれば、なおいい」
「でしたら、こちらのピルスナーなどいかがでしょう。最近ご注文がなかったので、キンキンに冷え切っています」
「おお!それそれ」
ドイツ生まれのラーデベルガーをお勧めしたら、お気に召したらしい。
おしぼりとお通しを置いてすぐ、こちらもキンキンに冷やした細いグラスを添えてお出しする。
目の前でグラスに注ぐと、シュワシュワと音を立てて泡が立つ。
それを嬉しそうに眺めていると思ったら、喉を鳴らして一息に飲み干した。
「あーーーー、うまいっ!」
瓶に残っていた分は、ご自身で注いで飲み干してしまった。
「ビールはこの最初の1杯か2杯が最高に美味いんだよなぁ」
いや、実はさっき沖縄から帰ってきてねと、お客様は問わず語りに話し始めた。
修学旅行の引率だったとか。
つまり、この方は学校の先生なのだ。
僕の修学旅行は中学も高校も秋だった。
4月にって珍しいのではないかと思い、聞いてみた。
すると、旅行代金節約のために4月に設定したのだという。
「そんなに違うんですか?」
「大違いですよ」
「沖縄へ2泊3日なんて、新聞とかに39000円くらいで行けそうなプランがよく載ってるじゃないですか」
「あれは個人旅行だから安いんだ」
「修学旅行と違うんですか?」
「まったく違うんだよ。同じことをしてもこちらは10万くらいかかる」
「どうして?!」
「団体旅行料金というのは設定が別らしいんだな。それが法律なのか業界ルールなのかは知らないけど」
「そうなんですか」
「まぁ、大人数でいろいろと配慮もしてもらうからね、しかたがないこともあるんだろうけど」
「それで、秋と今ではどのくらいの差が?」
「4月中旬と下旬なら軽く1万円くらい。5月以降はハイシーズンだから、秋まで3〜4万円変わるかな」
「そ、そんなに!」
「最近は修学旅行どころか毎日の暮らしが苦しい家庭も増えているからね」
「それで…」
「でも、経験させてやりたいじゃないか。
空港を一歩出ただけで全身で感じる気温と湿度、青い海、普段は聞けない言葉、味、悲惨な歴史から学べる教訓…」
「みなさん、楽しまれたでしょうね。お疲れさまでした」
「ははは!楽しみすぎてハメをはずすのが必ずいるんだなぁ」
先生はそれ以上は言わず、うまそうにお通しの小鉢をつついている。
「ビール一本飲んだら帰るつもりだったのだけど、なんだか物足りないな」
奥からゆかりさんが出てきた。
「では、あと一杯だけ召し上がっては?」
「そうだね。何にしよう」
「もし、ご興味がおありでしたら…」
ゆかりさんが奥の冷蔵庫から350mlの缶ビールを持ってきた。
「あ、これは!」
「はい、沖縄のオリジナルビールといえばこのオリオンビールです。
もしかしたら、お仕事中では見ることはあっても飲めなかったのではないかと…」
「そうなんだよ。夜は先生たちだけ集まって酒盛り!なんてことが許されていた時代はもう30年前に終わっているからね」
「よく冷えていますよ」
「では、それを」
「グラスを替えましょうね」
「いいですよ、これで」
「いいえ。オリオンビールはこういうオシャレなグラスには合いません」
「あははは!なるほどね」
小腹が空いているから、何か腹にたまるつまみをと言われて、ゆかりさんはポーク玉子とやらを作った。
「これは?」
僕も聞きたかった。
「スパムという缶詰をご存じですか?」
「ええ。米軍が沖縄にいるせいで、沖縄の味になったみたいだね」
「あのスパムを細切りにして、炒り卵の中に入れるだけです。あとは適度に塩コショウ、ケチャップを添えてできあがり!」
「簡単だね。それなら僕でも作れる」
「美味しかったらお試しください」
「どれ…おっ、この塩味、疲れた体に沁みるねぇ」
「ビールにもなかなか合いますよ」
先生は沖縄で見たおもしろい風景の話をしながら、今度はゆっくりとオリオンビールを飲んだ。
ゆかりさんと聞きながらこちらも笑ってしまうような面白さがある。
でも、生徒さんのことは何も話さない。
僕は知っている。これは、守秘義務ってやつだ。
店にいらしてから30分ほどだろうか。
「ごちそうさま」
先生は爽やかに立ち上がった。
リュックを抱えて歩き出そうとして、ふと、立ち止まった。
「そうだ、これを差し上げましょう」
スツールにリュックを置くと、ジッパーを開けてごそごそと箱を取り出し、ゆかりさんに渡した。
沖縄土産の袋に、四角い箱が入っている。
「まぁ!嬉しいですが、いただくほどのことは何も…」
「いえね、僕は一人暮らしでね。
集団行動に疲れて、さっさと帰ってビールでも飲むかと思っていたのだけど、どうも今日はそういう気になれなくて、ふらりと入ってきたんですよ。
そしたら、思いがけず楽しませてもらった」
「それはありがとうございます。そのお言葉だけで」
「でも、それ、持っていたくないところもあってね」
「どうかなさったのですか?」
「お土産にあげたい人があったのだけど、渡しそびれた」
「では、ぜひその方に。今日でなくてもよいのでは?」
「ほかの人からもらっていたようだからね」
詳しく聞くこともない。
いろいろあって、小紫にたどり着いてくださったのだろう。
「では、ありがたくいただきます」
先生は、足取り軽く帰っていった。
まだ次のお客様には間がありそうで、僕らはその包みを開けてみることにした。
中にはシーサーが一匹。
きれいに彩られていて、怖くはなく、かえってかわいいほどの顔で笑っている。
「ああ、素焼きに絵付けをなさったのね。」
きっと、生徒さんの体験学習に付き合って作ったのだろう。
その手作りを渡したい誰かがいた。
だけど、他の誰かから、多分同じように手作りの何かを受け取っている姿を見てしまった。
手作りってやはりどこか特別だ。
思いがこもっている。
その、渡したかった相手に向ける先生の密かで微かな思いが。
きっと、残念だったよな。
「ここでいいかしら」
ゆかりさんは、カウンターの脇にそっと笑顔のシーサーを置いた。
極彩色の置物は、カウンターに南国の花を添えたようだ。
「いいですねぇ。僕も行ってみたくなったなぁ」
「穂高の修学旅行は?」
「東京でした。ディズニーランドですよ」
「あらま!」
その日のお客様はそれほど多くなくて、小紫は日付が変わる前に店じまいにした。
いつものように片づけをする。
カウンターを丁寧に拭き清めていたのはゆかりさんだ。
「あっ!」
という声の次に、ガチャン!と何かが割れる音がした。
「大丈夫ですか?」
テーブル席を拭いていた僕は飛び上がり、駆け寄った。
「大丈夫だけど、せっかくいただいたシーサーを割ってしまったわ…」
ゆかりさんがそんなことをするなんて信じられない。
僕ならいざ知らず…
「袖が触れただけだったんだけど…」
シーサーは固い床に落ちて、粉々に砕けてしまっている。
大きな破片を集め、あとは掃除機で吸い取ることにする。
「ああ、申し訳ないことをしてしまったわ」
ゆかりさんは珍しく、すっかり落ち込んでしまった。
「ほら、身代わりになってくれたんですよ、きっと」
「身代わり?」
「そう。思いを込めて作ったものだから、ゆかりさんの身に降りかかる悪いことを、代わりに受けてくれたんじゃないですか?
だから、ありがとうって思いましょうよ」
「そうかしら。
そうね、落ちるようなぶつかり方をしたわけでもないのに、こんなに砕けてしまうなんて、余程のことよね」
破片を入れた紙袋を両手で捧げ持ったゆかりさんが奥へ入るのを見送って、僕は店の外に出た。
看板の電源を切って、札をClosedにし、ドアに鍵をかけた時だった。
ギュィーン、ドッカーン!
ガッシャーン!
バリバリメリメリ…
とてつもない爆音と衝撃で、僕は吹き飛び、床に倒れ込んだ。
「なに?」
ゆかりさんの声が悲鳴に変わった。
「キャーッ!」
僕は全身が震え、腰が抜けてしまって動けない。
「穂高、穂高!」
ゆかりさんが駆け寄ってきて、抱きしめてくれなかったら、気を失っていたのではないかと思うほど驚いていた。
事態が理解できるまでどれくらいかかったのだろう。
僕がさっき鍵を閉めたドアが外れて傾き、車の頭が店にめり込んでいる。
脇の窓は割れ落ちている。
すさまじい物音を聞きつけたご近所さんたちが出てきたらしく、人の声もする。
僕は交通事故だと分かっても声が出ず、ひたすら震え続けていた。
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コメント
コメント一覧 (4)
禍の前の前章ですか?
大丈夫かな?心配です。
新しい展開に向かおうとしています。
大丈夫でしょうか^0^
雨季に入りますからね。
9時台の航空機も取りやすいです。
問題は秋。
10月、11月という便利な時期は、航空機のみで片道28000円かかります。
1月、2月も大差ありません。
ついでに、九州方面も大差ないです。
新幹線だと半額程度になりますけどね。
私の学校では、4月の沖縄修学旅行で固定するようです。
交通事故って、いつどこで誰に起きてもおかしくないと思います。
高齢の父がいつ免許を返上するのか心配ですよ。
毎日無事を祈っています。
さすが〜!詳しくていらっしゃいますね〜〜〜!!
北陸新幹線ができたので、活用できないものかと考えます。
八景島シーパラダイスにジンベエザメが来てしまい、美ら海の魅力も強調しにくくなりました。
なにより、借り上げバスの値上がりと言ったら!
そのうち、誰も使わなくなっちゃうんじゃないかしらと思いますねぇ。
友人の母上が運転自慢で、子どもたちの心配をよそに運転を続けていたら、ある日家の前の田んぼ(道路より1mも下!)に滑落したのだそうで、それを機に免許を取り上げたそうです。
生きがいを奪ってはいけないと思うものの、命あってこそですものね。