僕が小紫に来てから、2度目の桜が咲いた。
正月にゆかりさんの家に引っ越してきて、いきなり高熱を出して心配をかけた僕だが、そんな出来事が嘘のようにすっかりこの暮らしに馴染み、今ではずっと昔からここにいたかのような気安さだ。
すぐそばに自分以外の誰かがいる暮らしは、思っていた以上に僕を安心させるようだ。
自分ではない誰かが立てる音が聞こえる、それだけで、肩の力が抜ける自分がいる。
本当は寂しかったのだろうか。
ひとり自分のペースで好きに暮らすのが大好きなのだと思っていた。
今でもそれは変わりない。
ゆかりさんは、僕のすることに口出ししたり、踏み込んできたりは決してしない。
だから、一緒に暮らしていても、ひとりでいるのと大差ない自由を僕は満喫している。
思えば贅沢な話だ。
昨年、宮田医院の庭で花見をした、あれをもう一度と思っていたら、今年も当然のように計画が進んだ。
小紫恒例の花見と言えば、ある朝、早起きをして、元さんの車でちょっと離れた場所の桜を見る。
夕方戻って、宮田医院の庭で夜桜見物の始まりだ。
ゆかりさんは殊更に早く起きて、夜のごちそうを仕込む。
今年は、ごちそうに花を添える酒にもこだわったようだ。
昼間の花見は、今年も山梨に行くのだと言う。
身延山と聞いても、僕には知識がなくて、どういういわれの場所なのか分からない。
でも、あえて調べはしなかった。
知らないからこそ心動かす何かに出会えることもある。
行き当たりばったりの楽しみを、僕は今年も期待することにした。
まだ暗いうちに元さんのどこかペンキ臭い車に乗り合わせる。
僕は今年も途中でうとうとと眠ってしまい、揺り起こされたらもうどこかの駐車場に着いていた。
「おい、穂高。いいかげん、免許取れや。」
「はぁ、すみません。」
「カクテルより先に運転覚えろ。その方が人様のお役にも立てるってもんだ。」
「はぁ、ほんとにまったくすみません。」
「それより、行きましょう!」
身延山というから、山登りをして桜を見るのかと思ったら、久遠寺という寺のことだった。
辺りには見物客がすでに来ているが、歩くのに困るほどの混雑ではない。
「ほら、あれよ。見て!」
ゆかりさんのはしゃいだ声で、指差す方向を見上げて、僕は息を飲んだ。
門の脇に、薄いピンクの滝のように枝を風に揺らしている、巨大なしだれ桜が立っていたのだ。
「おおっ」
「これは、これは。」
宮田先生も八百屋の長さんも、息を飲んで見上げている。
「話には聞いていたが、見たのは初めてだ。いやぁ、見事なもんだなぁ。」
元さんも額をこすりながら感嘆の声を上げる。
「もっと近くに行けるのかしら。」
ゆかりさんの言葉は独り言で、周りがついてくるかどうかなど、もはや眼中にないらしい。
すたすたと歩き出す後ろから、僕らは慌てて従った。
門をくぐると、さらに大きな桜の木が僕らを出迎えてくれた。
「まぁぁ!」
樹齢400年と言われる木が2本もある。
長い枝は地面に着くほどで、それが満開の花をつけているのだから、美しいと言うくらいでは言葉が足りない気がするほどなのだ。
「すごいですねぇ。」
ありきたりの表現しか見つからないから、僕は黙って花を見上げた。
糸を引くようなそよぎ、ゆらぎに見とれていると、枝垂桜は「糸桜」ともいうのだという会話が聞こえてきた。
ああ、なんだか「糸」の方が似合うなぁ。
そんなことを考えながら、今日この日にこの場に来られた幸せを、神様仏様に感謝したい気持ちが湧きあがってきた。
参拝を済ませて、もう一度糸桜の下に立ってみる。
僕は小紫に来てから、自分の考え方や感じ方が、大きく変わってきたと感じている。
去年の僕は、見事な桜を見て、綺麗だ美しいと思うだけだった。
今年だって綺麗だなぁと思っているけれど、その先が、もう少し加わったのだ。
人生に起きる出来事は、良いことも悪いことも、きっとランダムに、場当たり的にやってくるのだと思う。
因果応報というけれど、それはすごく小さな単位でのことで、大きな目で見れば、因果応報なんて、頭のいい人の理屈だと思うのだ。
親孝行な人が悪い病気にかからないわけでもないし、人のために身を粉にして働いてさえいれば事故に遭わないというわけでもない。
逆に、悪さをしながら逃げおおせる人もいるのだろうし、子どもを虐待した親がみなみすぼらしい暮らしをすると決まっているわけでもない。
因果応報が本当なら、そんな理不尽なことが起きるはずがないではないか。
まして天災に巻き込まれた人々のことを思うと、因果応報では人生の機微を説明できないと思う。
生まれて間もなくひどい災害にあって命を落とした子どもと、災害が起きた直後に生まれた子どもとの差はどこにあるというのだろうか。
どんな生き方をしていたら、地震や洪水を避けられる?
そんな方法は、きっと、ない。
人生は、ランダムにやってくる様々なできごとに、自分でどんな理由をつけるのか、そういうものなのではないかと最近思うようになった。
「自由」という言葉の文字をよく見てみる。
「自分で理由をつける」と書くことに気付く。
同じ事故でも、不運と思うか変化のチャンスと思うかは、人によって違う。
同じ悲しい経験でも、打ちひしがれたままで生きるか、それをバネに立ち上がるかは、人によって違う。
そうしてきっと、自由であるということは、どういう意味付けが正解で、どれが間違いということもない。
ただ、自分にとって快適か、そうでないかはあるだろう。
幸せになりたかったら、快適な意味づけを選べばいいのだ。
小紫にはいろいろな人が訪れる。
その人たちが、人生の一端をぽろりとこぼしていく。
それに耳を傾けていると、同じように見える人の毎日には、思いがけないほど多様な出来事が起きているのだとわかる。
そうして、似たような出来事であっても、人によって反応が違う。
その反応が、その人を満足させもするし、不安にもさせるようなのだ。
それと、もう一つ。
小紫に来る前の僕は、家族と本さえあれば幸せだった。
家と図書館とゼミ室があればよかった。
教育実習で女子学生にだまされたように、僕は人が苦手だった。
人は分からない。
ともすれば、僕を利用したり馬鹿にしたりしているのだとしか思えない。
そんな思いに煩わされるのは本当に嫌だった。
きっと、そうやって閉じて生きるのも一つの選択なのだと、今は思う。
けれども、それではランダムにやってくるはずの出来事が、起きにくいのだなと思う。
外に出て、人に会い、場所を替えているうちに、人は様々な体験をする。
その体験が、人に何かを感じさせる。
感じるから、幸せも味わえるのだ。
この、目の前に咲き誇る糸桜もそうだ。
家にいて本を読んでいるのも楽しいが、元さんたちに連れられてでもここへ足を運ばなかったら、僕は今のこの胸の中を通り過ぎる思考や感慨を味わうことがなかった。
味わってみると、これを知らない自分が残念に思える。
ムリはしなくていい。
ガマンもいらない。
でも、できることでいいから、やってみるのは大切なのだ。
「僕は、ほんと、ついてるなぁ。」
僕の独り言を、いつの間にか周りに集まってみたみんなに聞かれてしまった。
「おう。そのツキを俺らにも分けろよなぁ。」
「不死身の穂高君だからねぇ。」
珍しく、宮田先生も軽口を言う。
「さ、お昼にしましょうか。今年はなにをいただきましょう。」
僕らは地元の美味しい店を探すために、聖地ともいえる心地よい境内を後にした。
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コメント
コメント一覧 (2)
普通の桜とは違いますね。
両手を広げて包み込むように見えます。
樹齢400年ではなおさらでしょう。
ついてるという幸福感は大事です。
何をやってもうまくいきそうで、モチベーションが上がりますもの。
旅行中でしょうか。
お気をつけて!
戸隠の評判のお蕎麦屋さんに並びながらのお返事です。
垂れ桜は風に揺れる風情がなんとも言えませんね。
来年は是非、お花見計画のなかに入れてあげてください。
最初の三連休はのんびり旅行を楽しんでいます。
明日は仕事なんて信じられないわ!