「俺には3つ下の弟がいるんだが…そうか、お前には紹介したことがあったか。
弟が生まれた後、おふくろがおかしくなったんだ。
マタニティーブルーっていうんだろうなぁ。
当時はそんな言葉、なかっただろうがなぁ。

弟が生まれたのを境に…というのは、後になって親父に聞いた。
俺の記憶にあるおふくろというのは、怒ってばかりいて、すぐに金切り声をあげる、恐ろしい存在でしかない。
『どうしてそんなことするのっ』『なにやっているのっ』『何度言えばわかるのっ』って調子で、何をしてもしなくても叱られた。
どうしていいか、分からなかったなぁ。
バシッとたたかれたり、押入れに突っ込まれたり、外に放り出されて鍵をかけられて家に入れなかったり。
そんなこともしょっちゅうだった。

黙って本を読んでいるとか、勉強しているとか、そういう時だけ平和だった。
とにかく、叱られる理由がわからないからなぁ。
いつ、何が降って湧くか、足元をすくっていくか、びくびくしながら勉強しているフリをしていたなぁ。

おれが中学に入るころにはそれほどでもなくなった気がするから、子どもが成長して、それなりに気持ちのゆとりができたか、ブルーから回復したかしたんだろう。
おふくろはそれでいいけど、子どもは大変だよ。
俺たち兄弟は、すっかりいじけちまった。
でも、自覚がなかったんだよ。

今から思えば、あの時に身に沁み込んだんだろうなぁ。
俺はダメなやつだ。俺は人に受け入れられない。
叱られないためにどうするかを考えることに一生懸命で、自分がどうしたいとか、何が好きとか、そういうことが分からなくなった。
それでも、母親ってきうのは嫌いになれないものだよ。
その分、母親を幸せにできない自分が嫌いになったんだなぁ。

思い出してみたら、心の中で四六時中「それじゃだめだ、そんなことを言ったりしたりしたら馬鹿にされる」と独り言を言っている自分がどうやって出来上がったか、なんだか分かった気がしたわけだ。
でも、あの母親も今では普通に愚痴っぽくて心配性な年寄りだ。
いまさら、「人に愛される自信がなくなったのはあなたのせいです」と言ったところで、何の解決にもならん。
時間制限がある俺にとって、大事なのは「なぜ」ではなくて「どうする」だからなぁ。

俺は一歩進んでみようと思った。
このまま家族を身勝手に抱え込んで死を待つわけにはいかない。
ならば、彼らに…俺の大切な人々に、後をゆだねようと思ったんだ。
俺がダメでも、彼らが引き継いでくれたら、それでいいと思った。

俺はまた会社に行き始めた。
それで、気力・体力が許す限り、周りの人間に俺が知っていること、学んだコツ、役立ちそうな知識を伝え始めた。
でもなぁ、これがまた、うまくいかない。
俺は苛立ってなぁ。
奴らの呑み込みの悪さには呆れちまうし、こんなトロトロしていたら時間切れになっちまう。
俺が今していることは無駄なのか?と思ったら、もうはち切れそうでなぁ。
けど、はち切れそうなのは俺より、周囲だったんだな。

そりゃそうだ。
突然、理由も知らされずに、あれも学べ、これも覚えろと言われたら、誰だって戸惑う。
でも、部下だからな。
文句も言えない、言わせる気もない。
これじゃだめだよなぁ。

俺はまた落ち込んだ。
いっそ、このまま自分で終わりにしてしまおうかと考えたのもその頃だ。
俺の残りの人生に意味なんかないってなぁ。

驚かないで聞いてくれ。
俺は、自殺を企てた。
どこでどう死ぬかを決めたんだ。
人様に迷惑は絶対にかけたくない。
そういう心配のない場所と方法…。

決めたらちょっとスッキリした。
それで、最後にやりたいことをやってから実行しようと思ってなぁ。
やりたいことと言っても、大したことはない。
遺書を書くとか、人に見られたくないものを処分するとかだ。
とはいえ小市民のすること、処分するにしても賞味期限が切れたカップスープだの、ベタついたのど飴だの、穴が開きそうなのに気に入っていていて捨てられなかった靴下だの、そんなしょうもないものばかりなんだ。

涙がにじんだよ。
情けなくてなぁ。
俺と同じ立場になる人は、きっと少なくないはずだろう?
その人たちみんなが自殺するとは思えない。
みんな俺と同じように動揺するに違いないが、だからといって不幸だとは限らないと思うんだ。
その人たちと俺と、いったい何が違うのだろうと思った。
子どもの頃の愛され方か?
だとしたら、ひどくはないか?
子どもの頃の悲しい体験は、子ども自身には何の責任もない。
子どもの力ではどうしようもないことばかりだ。
それが原因で一生どうしようもない不幸を背負うなんて、おかしいじゃないか。
きっと、何かあると思った。
俺がまだ気づいていない、何か他の考え方ややり方が。

俺は周りを見回した。
周囲の脅威から身を守るためではなく、周りにある素晴らしい秘密を見つけるためにね。
驚いたよ。
世界が、美しくてなぁ。」






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