実は…と言いよどむなんて、何か告白話が始まるに違いない。
僕は、二人連れのどちらが何を言うのか、声を聴き分けたくてしかたがない。
布巾を手にして立ち上がると、さっき磨き上げたグラスを、音をたてないように棚に戻し、新たなグラスを取り出して…本当はこのグラスにも、一点の曇りもないのだけど…磨くことにした。
「春は、まだ遠いな。」
「唐突だな。実は…の続きはどうした?」
何か言いたいことがあるのは、黒髪の方のようだ。
舘ひろしみたいな風貌をしている。
男から見ても男前、ということだ。よし、こっちは舘さんと呼ぼう。
で、同じくらいの歳に見えるのに、すっかり白髪になっているほうが聞き役だ。
こちらは…そうだ、岩城滉一と言ったっけ。あんな感じ。
こっちは岩城さんだな。
つまり、二人はどことなく似ている。そうして、かなりイケている。
「最近思うんだが、人間というのは、先の楽しみがないと、今を生きる気力がなくなるものなんだな。」
舘さんが、しみじみと言う。
「俺、子どものころから桜が好きでさ。ほら、学生のころ、毎年お前たちと花見に行ったじゃないか。」
「ああ、行ったなぁ。」
岩城さんが、眼を細めた。
「あれがさ、けっこう楽しかったわけよ。」
「そうか。そうだな、楽しかったな。次の日の商談を気にしないでいられたしな。」
「いや、まぁ、そうだな。」
話が逸れかけたと思ったのだろうか、舘さんは言葉を切って、ゆっくりとグラスを傾けた。
「今を生きるって言うだろ?
過去はもう変えられないし、未来はまだ来ていないし、あるのは今だけだって。」
「ああ、言うな。」
「で、なるほどそのとおりだと思って、今に生きてみようと思ったわけだ。
過去にとらわれず、未来に期待せず、今に集中する。」
「寺で説法でも聞いてるようだ。」
「雑念を捨てろってな。そうだよなぁ。」
「で、やってみたのか?」
「ああ。今日が懸命に生きられたらそれでいいじゃないかってな。」
「ほう。それで?」
「数日はそれでよかった。
今に集中するっていいなぁと思ったんだが…。
でもなぁ、だんだん、なんでそんな風に生きるのか、分からなくなったんだよ。」
「ほう。」
「人が元気に生き生きと生きるには、未来が必要なんだと気付いた。」
「…。」
「次の家族旅行は北海道にしようかとか、もう一度あの店の焼き肉を食いに行こうとか、シェーバーの替え刃を今日こそ買うぞとか、去年は墓参りに行けなかったから今年こそとか、自分がしたいことを自由に思い浮かべて、それを楽しみに今日を過ごす。別に、できるかどうかは問題じゃない。できるに越したことはないが、できなくても、未来への期待は、今日のエネルギーになるんだよなぁ。」
「ああ、そういうことか。なるほど、それはあるなぁ。」
「だろ?」
「今日を懸命に生きたとして、その褒美というか、成果というか、そういうものを受け取る未来がなくっちゃ、頑張れないな。そういうことか?」
「…ああ、そういうことだな。」
分かるような、分からないような話だ。
この二人は、なぜこんな話をしているのだろう。
グラスはもう磨きようもない。
僕はあまり意味がないのだが、コーヒーカップを磨き始めた。
「それでな、また気付いたんだ。
今日は今日だけど、過去の、いつかあの日の未来でもあるんだなぁって。」
「うん?」
「去年の年末だったか、俺、ふと思ったんだよ。お前とずっとちゃんと話していないなぁ、今度飲みに行くかって。」
「そうだったのか。」
「つまり、今日は、その日の俺の未来なんだな。したかった望みが叶ったわけだ。」
「そうか。別に俺と飲むなんて、もっと気軽に考えてくれていいんだぞ。」
「ふふふ。そうもいくまい。怖い嫁さんに、そろそろ父親の非行に手厳しくなってきた娘御がいるんだもんなぁ。」
「おいおい、ずいぶんな言いようだな。」
「お前がいつも言っていることじゃないか。」
「ははは。否定できないところが苦しい。」
「ウチだってそうだよ。」
「お子さんは確か…。」
「男だ。今年小学校に上がったばかりなんだ。」
「そうだったな。」
「遅くにできた一人っ子で、妻は猫っ可愛がりしているよ。あれじゃ甘やかし過ぎでろくな大人になれないと思うんだが、俺の口出しする余地は1ミリもないほどで、見ていないと危なっかしくて。」
「とかなんとか言いながら、マイホームパパになったわけだ。」
「お互いにな。」
「自分の欲求だけが自分の希望じゃない。」
「ああ。」
「家族の役に立っているって自覚も、常に失いたくないんだ。それも強い希望だな。」
「お前、どうしたんだ。何かあったんだろう。」
とうとう、岩城さんが体を向き直らせて問いただした。
舘さんは、それでもまだ言いあぐねている。
それでも観念したのか、一息ついてから、ぽつりと言った。
「俺なぁ、未来が当たり前でなくなったんだ。」
「え?」
「命のゴールテープが、見えちまったんだ。突然に。」
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コメント
コメント一覧 (2)
私も、美味しいものを食べるとか、芸術品を見るとか、小さな目標を設定して生きています。
達成できた喜びは、意外に大きいんですよ。
でも、替え刃は買わないから(笑)
命のゴールテープとは、寿命のことですね。
うまいこと言うなあと、思わず頷きました。
小さな楽しみは大きなエネルギー源ですね。
己を振り返っても、年々エコになりつつありますが、やっぱり先の楽しみは大事です。
替え刃が出てきたのには理由があります。
名古屋女子マラソンを見ていて、最近はデジタル化されて、もうゴールテープを切らないんだと気付きました。
シマッタ。