僕の熱は、思うほど早くには下がらなかった。
ゆかりさんは、僕のへたった体によいものをと、心をこめて美食を作ってくれる。
美食といっても、贅沢な食材を使った珍しい料理ということではない。
本当に美味な料理、ということだ。

1年ほども身近で過ごして、僕はゆかりさんの暮らしを大概理解しているつもりになっていた。
でも、それはとんでもない思い上がりだったと気づいた。
ゆかりさんの暮らしは、そんなに単純なものではなかったのだ。

まず、朝寝坊をあまりしない。
睡眠時間が何時間であろうと、明るくなる頃には起き出す。
そうして、外へ出て行く。
何かと思ったら、小紫と隣り合わせに建っているこの家の裏側が畑になっているのだ。
ゆかりさんはまず畑に出て、野菜の世話をするわけだ。
「有機野菜って知っている?」
「ええ、言葉くらいは。」
「無農薬とか減農薬とか、いろいろ言うようになったけど、この畑は農薬も使わないし、化学肥料も使わないの。種や苗も量販店で買ってきたのではなくて、心ある農家の方に分けてもらっているのよ。」

体にいいのだろうなぁと思う程度で、僕にはその気遣いの意味がよく分からなかった。
けれども、一緒に食事をするたびにそんな話題を聞いているうちに、これは大変なことなのではないかと思えるようになった。

「農薬って、雑草が生えないようにしたり、虫がつかないようにしたりするためにはとても便利なものなのね。だって、農家の人手は限られているし、きれいな形や色でたくさん作らなければ売れないのだから、できるだけ効率よく進めたいと思うのは当然だわ。でもね、ちょっと考えてみれば分かると思うの。色や形がそろっていることが大切か、草も虫も殺すような薬がかかっているってことが大切か。」
「うーん、育てたい野菜には害がないから、農薬って売れるんですよね?
それに、国には厳しい安全基準があるはずだし、農薬を作る技術だって向上してますよね。
神経質にならなくてもいいんじゃないかなぁ。」
「そうねぇ。確かにねぇ。じゃぁ、実験してみましょうか。」

その日の夜、ゆかりさんは模様のついてないガラスのコップをふたつと、なにやらの小さなボトルをテーブルに並べた。
「そうして、はい、これが今日スーパーで買ってきたチンゲンサイ。」
「はあ。」
「じゃ、穂高。だるいかもしれないけど、畑からチンゲンサイを二株、取ってきてくれる?」
「はい。」
チンゲンサイには旬がないのだろうか、ゆかりさんの畑では、小ぶりなチンゲンサイが一列育っているのだ。

「はい、とってきました。」
「じゃぁ、見ていてね。こうして葉には水をかけないようにして泥だけ落として・・・。」
「このボトルは?」
「それはね、残留農薬を落とせる洗剤みたいなものと思えばいいわ。」
「へぇ!」
「コップに水を入れるでしょう?で、これをたらして・・・と。かき混ぜてみて。」
「・・・何も起きませんね。」
「じゃ、今度はこっち。スーパーの方は?」
「・・・あれ?水が黄色くなりましたよ!!何だこれ?」
「それが残留農薬ね。」
「うわぁ。」
「じゃ、次の実験。」

ゆかりさんはチンゲンサイをごま油でざっくりと炒めると、塩コショウだけして2皿差し出した。
「はい、できた。テイスティングをどうぞ。こっちが畑ので、こっちがスーパーのね。」
僕はそれほど味がわかるわけではないけれど、この2皿は明らかに違っていた。
「こっちのほうが美味しいですね。しゃきしゃきしていて。こっちは別に、普通だな。」
「それが、どちらのチンゲンサイか分かる?」
「畑のほうですよね。」
「そうなのよ。でもね・・・。」

ゆかりさんは手を伸ばして、先ほどコップの中で黄色い液体を出した、スーパーのチンゲンサイを取り出して、流水で丁寧に洗った。
しっかりと水をふき取り、ざくざくと切って、先ほどと同じように炒める。
「さ、どう?」

驚いたことに、同じスーパーのチンゲンサイのはずなのに、味が変わっている。
「うまいです!」
「そういうことなの。」

僕は考え込んでしまった。
「でも、農薬のせいとは言い切れないですよね。水につけている時間の長さとか、洗い方とか、条件が違っていたから。」
「そのとおり。でも、大切なのは、そこじゃないわ。」
「え?」
「あなたは同じようなチンゲンサイを食べてみたけれど、あるものは美味しいと感じ、あるものはそれほど美味しいと感じなかった。」
「ええ、まあ。」
「体も心も喜ばせたいと思ったら、十分に労わりたいと考えたら、一番美味しいと感じるものを提供するのが近道だと思わない?」
「あ!なるほど。」

「あなたの体には、そういう意味での『美味しい』を、たくさんプレゼントしたいの。あなただけではないわ。私にも、小紫のお客様にも!」
ああ、だからこの店の料理はなにもかも美味いのか。

「お食事はね、五感でいただくものなのよ。今は味の話をしたけれど、色も、盛り付けも、香りも、舌触り歯ごたえも、全部そろって『美味しい』が出来上がっているの。そう考えると、料理をする者にはできることがたくさんあるってことになるでしょう。それが私には楽しくて、大きなやりがいって言うか・・・あら。」

突然黙ってしまったゆかりさんに驚くと、彼女は静かに言い足した。
「私としたことが、病人相手におしゃべりしすぎたわ。」






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