みなさんのお力を借りて、僕の引っ越しはたった半日で無事完了した。
あとは部屋の中を落ち着かせるという、僕だけの作業を残すのみだ。
故郷から初めてこの街のあの部屋に越してきた日は荷物を入れて買い物に出たあとで、部屋に電灯がないことに気付いて慌てたっけ。
今回は、おかげさまで慌てることひとつなく、引き移ることができた。

ひと段落すると、ゆかりさんが引っ越しそばの支度ができたという。
今夜の小紫は臨時休業。
お客様のいないテーブルに、作業着の首にタオルをかけた元さんと、元さんの会社の若い社員さんが2人、長さん、少し前に合流した宮田先生がそろった。
ゆかりさんも何かと立ち働いていてくれたのに、いつの間にそばの支度まで…と恐縮しかかったが、
「ああ、これは長寿庵さんから届けてもらったの。」
と言う。
ちょっと、ホッとする。

本がびっしり入っていて、小さいくせにズシリと重い箱をグイグイと運んでくれた元さんのところの若い2人は、そばを2人分ずつペロリと平らげると、スッキリと挨拶して帰っていった。
「社長、お小遣いありがとうございます!」
と下げた頭を、慌てた様子の元さんにピシリとはたかれていたところを見ると、僕に代わって元さんが二人に心づけをしてくれていたらしい。

そわそわしていた宮田先生が、部屋を見たいと言うから案内すると、壁一面の本棚からあの遠野物語を目ざとく見つけ、店に持ってきた。
「この間、元さんに読書を邪魔されたからねぇ。」
と、旧知の友に再開したような顔をして、あっという間に本の中の住人になってしまった。

長さんは八百屋の店番を奥さんに任せて、ずいぶん早い時間から来てくれていた。
本以外はそれほど多くない僕の荷物が運び込まれる前からこちらの部屋にいてくれて、僕にあれこれと質問した。
「で、服はどんなふうにしまってるんだ?」
「押入れに箱のまま入れておくものはあるのか?」
「机の引き出しに入れるものは?」
「本はどんなふうに分類されてくる?」

聞かれるままに答えただけだったのだが、いざ箱が届き始めると、僕がまごまごするのを横目で笑いながら、長さんは次々にガムテープをはがしていく。
「え?全部箱がきてから開けるんじゃないんですか?」
「そんなことしていたら時間がもったいないし、動ける場所がなくなるじゃないか。」
返事の間にも手は動いているからすごい。
長さんは年季の入った八百屋の手で品物をてきぱきと仕分け、鮮やかな手際であるべき場所へと納めていく。
僕も慌てて手伝おうと、手近な箱に手を伸ばすと、
「おいおい、それはちょっと待ってろ。」
まるで長さんの荷物であるかのように叱られてしまった。

圧巻だったのは本棚の整理だ。
本を取り出す前に、他の荷物の段ボールはすべて開けられ、あるいは押入れの奥に積まれて、畳に上にはなくなっていた。
そうなってから、本の段ボールをずらりと並べて、ガムテープだけ次々にはがして、中を見えるようにした。
「この一番背の高い仕切りのところには、このあたりのが並ぶんだろうな。」
長さんは独り言をいって、一つ目の箱を引き寄せ、あぐらをかいた姿勢で本をスッスと並べる。
「よし。次は…」
軽々と立ち上がると、箱の間をぐるりと歩いて、ひと箱を選んで抱えてくる。
「穂高くん、これはこれでいいか?」
「あ、はい!」
「じゃ、並べて。次は…。」
あっという間に2段3段と埋まっていく。
全集本も分厚い専門書も、見事に並びきった。

「ここからは、このサイズだな。新書ってやつか?」
「そうです。」
「ずいぶんあるなぁ。」
「そうですね。ちょっと興味があるテーマでも、すぐ買ってしまうもので。」
「学生のくせに、よくそんな金があったなぁ。」
「意外とどうにかなるもんですよ。」
「で、この新書ってのはどう並べたい?」
「今まではテーマごとに並べていたんですよ。それでいいかな。」 
「テーマごと?ああ、だからこの箱の中にはいろんな色があるんだな。」
「色?」
「穂高くん、これからもそのテーマごとに読み返すのか?」
「いや、もうそういう読み方はしないかな。それに、どのテーマで何を読んだかは、大概頭に入ってますし。」
「だったら、出版社ごとに並べようよ。そのほうがキレイだ。」
「きれい?」
「ああ。本もインテリアだと思えばどうだい?色がそろっているほうが断然キレイだろ?」
僕が感心する間も長さんは手を止めず、新書が詰め込まれた箱を身の回りに寄せ集めると、出版社ごとに仕分けている。
それから首をかしげて考え考え、1社ずつ取り出しては、出版番号順に並べている。
「青の隣は、この白っぽいヤツかな。で、ん?この岩波新書ってやつは、同じ会社でも色が違うのがあるんだな。なら、白の隣は…オレンジにして、次が緑と。」
もはやほとんど独り言だ。
多分文庫本も同じ流れになるだろうと、僕が出版社ごと、シリーズごとに分類していると、
「おっ、気が利くねぇ。」
と褒められてしまった。

「よしっと。どうだい!」
両手を腰に当てて、自慢げに仁王立ちした長さんの視線の先には、本屋と見まごうばかりに並んだ本棚があった。
丁度部屋に入ってきた元さんも、
「おおっ、これはこれは。さすが八百屋の仕事だ。うまそうに並んだなぁ。」
と手を叩いている。
来てすぐの宮田先生が遠野物語をすぐに見つけられたのには、こんな理由があったのだ。

山ほどになっていた段ボールは、さっさと括られて元さんの軽トラックに積み込まれ、あれよあれよという間に姿を消したから、今、部屋の中は、今日越してきたとは思えないほどに片付いている。
最後のしあげにと、ゆかりさんが掃除機をかけ、丁寧に水拭きまでしてくれた。
7年使った布団は、実は処分してきた。
かなり汗臭かったし、安物だったからペチャンコになっていた。
新しい布団は、ゆかりさんからの頂き物だ。
インフルエンザでここに厄介になった時に借りたものだ。
軽くてふわふわで、とにかく心地よい布団なのだ。

引っ越しそばを終えて、いつもの酒宴になった。
僕は皆さんにどうしてもお礼を言いたくなった。
「今日は本当にありがとうございました。
皆さんのおかげで、無事こんなにきれいに引っ越すことができました。
僕は、本当は、仕事をしながらあの段ボール箱を片づけるのを想像するだけで倒れそうな気がしていたんです。
でも、あんなにきれいにしてもらって、何と言うか…。
僕がやっていたら、あんなにきれいな本棚にはなりませんでした。
本棚を融通してくれた元さん、並べてくれた長さん、それに蕎麦のことまで気にかけてくれたゆかりさんにも心から、ありがとうございます。」

僕が頭を下げると、ゆかりさんがコトコトと笑って言った。
「ここでは、これが当たり前なのよ。
蕎麦もそう。私がゆでてもいいのだけれど、こんな特別な日のお蕎麦だもの、おいしいと評判の長寿庵さんに作ってもらって、ありがとございますと感謝してお支払いしたら、長寿庵さんもうれしいし、私たちも美味しいでしょう?私たちはそれぞれに、自分にできる精一杯のことを身に着けて、それを人様のお役に立てる。
それでありがとうと言ったり言われたりしながら毎日を過ごしているの。
だからあなたも、いつか誰かのお役にたてることに気付いた時には、手を貸してあげてね。」
「はい。」
僕は心から頷いた。

「こんな大事なこと、学校では教えてくれないもんなぁ。」
いつの間にか本から顔を上げた宮田先生がふんわりと言う。
「ひとりでなんでもできなきゃいけない、失敗してはいけない、成長しなきゃいけないって、そればかりな気がするよ。それで疲れてしまっている人が、どれだけ多いか。」
それは僕にも覚えがある。
姉さんが大学進学で躓いたのも、そんな発想が原因だったのかもしれないと、今は思う。

「金も力も知恵も、自分で抱え込むのではなくて、誰かのために役立ててなんぼだな。」
元さんも頷く。
「それでよぉ、その『誰か』ってのが客だよな。」
長さんも言う。
「ええ、そうね。ま、先生の場合は客と呼ばずに患者さんというのでしょうけど。」
みながふふふと低く笑った。
「俺には学がないから難しいことは分からないけど、俺にとって最初の客は母ちゃんなんだよなぁ。」
「なんだって?」
元さんが身を乗り出した。
「いや、俺がさ、普段一番気遣っているのは母ちゃんなんだよなぁと思ったんだよ。
母ちゃんが働きやすいようにしてやるのが、結局店のためになって、いい店になれば客も喜んでくれるだろ?」
「ああ、なるほど、そういうことか。」

「それなら思い当たることがあるよ。」
と宮田先生も言う。
「看護師たちが気持ちよく働けるように、私だって一応気遣っているつもりだよ。
ドラマなんか見ていると、看護師に横柄な医者が出てくるけれど、ウチでは私より看護師の方が患者さんのことも病院のことにも詳しいからね。彼女たちは私の仕事ばかりか、健康や趣味のことまで気遣ってくれるくらいだから、どちらかというと気遣い負けしているけれどねぇ。」

僕にもだんだん分かってきた。
「つまり、身近な人が幸せで快適でいられるようにすることが、最初の仕事なんですね?」
確認するように尋ねると、皆が一斉に頷いた。
「そうだ、そういうことだなぁ。長さん、たまにはいいことを言う。考えてもみなかったが、確かにそうだ。」
「なんだかなぁ…。」
飲みかけのグラスを一気に乾すと、長さんが威勢よく言った。
「ママ、なんか母ちゃんに手土産にするものないかな。今日は長いこと一人で店番させちまったからな。」
「そうね、それなら…。」
ゆかりさんが人差し指をあごに当てて考え始めた時だ。

「あのっ!」
僕は席を飛び上がった。すっかり忘れていた。
「これを、奥さんに差し上げてください。」
カウンターの裏に隠しておいた紙袋をまとめて持ってきて、その一つを長さんに渡した。
「これは?」
「貴船屋の和菓子です。詰め合わせになってます。お口に合うかどうか。」
「貴船屋とは!なんと上品な!!」
「元さんと、宮田先生にも。それから、ゆかりさんにも。」
「まぁ!」
「おおっ。」
これほどウケるとは思わなかった。
恐るべし、貴船屋。
ルナソルの貴船オーナーに今度話してやろう。
どんな顔をするだろうか。

「じゃ、母ちゃん孝行に帰るよ。穂高くんの引っ越しを手伝っていたら、なんだか母ちゃんがうちに嫁に来た時のことを思い出しちまった。」
と長さんが立ち上がると、
「穂高くんも疲れたろうから、今夜は早寝しろ。」
と元さんも宮田先生も帰っていった。

後片付けを手伝って、店じまいすると、僕も休むことにした。
「おやすみなさい。」
「はい、おやすみ。いい夢を見てね。」
返事を聞いて眠るのは久しぶりだ。

僕は、今僕の周りにいる人たちを精一杯大事にして生きる。
うん、それがいい。それで、いい。
歴史に名を遺したり、誰かにすごく褒められたりはしないかもしれない。
でも、毎日小さなありがとうを積み重ねていけたら、それで幸せ。

そんなことを考えながら、満たされて眠りについた。
なのに、翌朝、僕は熱を出した。








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