そういえば、昼間の仕事に変わると決意して帰ろうと、立ち上がりかけたさよりさんに向けて、ゆかりさんがヘンなことを言った。

「まずはね、自分からよ。
本当は無条件にもらって当たり前のものをもらい損ねた人たちは、自分で自分にたくさんの贈り物をしなくては何も始まらないのよ。
慈しみ深い母親が赤ちゃんを育てるときのように自分を愛して、信じて、大事にするのよ。
最初はそれすら、きっとうまくいかないわ。
自分を大事にするってことの意味がきっとあなたを不安にさせてしまう。
それでもいいから、続けてね。
あなたはまだ若いから、きっと追いつくわ。
追いついた時にはね、あなたはまわりにいる、いろんな人たちを無条件に愛せるようになっているはず。
それはステキな世界よ。
あなたを脅かす人も、ゆがめる人もいない。
誰もがいとおしいと感じられるの。
そうして、ますます、そんな自分を好きになれる。

けれど、今すぐに、あなたを苦しめた人を愛そうなんて思ってはダメよ。
そもそもできないし、できる必要もない。
子どもを苦しめる親は少なくないけれど、そんな親を大事にできる子供がたくさんいるのも事実。
でもね、振り返ってみると、その人たちって必ず、どこかで『自分は親に愛された』という認識と『親は自分を愛していると分かるだけの行動をとった』という事実が釣り合っているのよ。
それなしには始まらないの。

今から親にしてもらったことを増やすのはできない相談かもしれない。
ならば、親からもらい損ねた贈り物の部屋の隙間に、自分で素敵なものを詰めればいい。
さよりちゃん、まずはそこからよ。」

今夜のゆかりさんは、いつになく饒舌だ。
おっとりとした彼女の口調とは少し違って、何かに憑かれたように早口に話す。
勢いに押されたように座り直したさよりさんだったが、クックッと笑いながら細くて長い足をスツールから下ろすと、顔にかかった髪を盛大に掻き上げて言った。
「んー、なんだかよくわからない。」

すると、ゆかりさんは何かに気付いたように目を丸くして、それからいつもの微笑みを浮かべた。
「いいのいいの。おしゃべりが過ぎたわね。」
「わかんないけど、ありがと。」
「ええ、ええ。」
「わかんないけど、自分でやりたいって思ったことを、思った通りにやってみていいってことだよね?」
「そうよ!それでちゃんと分かってる。」
「ふーん、よかったぁ。
じゃ、帰るわ。
穂高くん、またねー。」
さよりさんはわざわざ僕の名前を呼んだ。
「はい、お待ちしています。」
「ほんと?じゃ連絡するねー。」
「ありがとうございました!」


さよりさんの「またねー」は、また小紫に来てくれるという話だと思ったのだが、違っていた。
さよりさんから早朝の電話でたたき起こされたのは、わずか2日後だった。
そういえば、連絡先をくれと言われて、渡したことがあったっけ。
「穂高くん?おっはよーっ!あたしー。わかる?」
わかるけど、ちょっと腹が立つほど元気がいい。
「やめてください、僕、さっき寝たばっかりですよぉ。知ってるでしょ?」
「やめてくださいって、だから、やめてきたわよ。」
「はぁ?」
「起きろ、こら。辞めてきたってば。だから、今日付き合って。」
「ほぉ?」
「お店、辞めたの。今日から職探しよ。
穂高くん、就職に苦労した話、前にしてくれたじゃないの。
そういうベテランに付き合ってもらったら、いい仕事が探せそうな気がするんだもん。」
「あー、そういうことですか。はいはい。お付き合いしますよ、今度。」
電話を切って寝ようとする僕に、機械の奥から突き抜けるような声で彼女は叫ぶ。
「今度じゃなーい!」

店でなじみだった客には社長さんもたくさんいて、その気になれば雇ってもらえるはずと言いながら、そうするのは潔くないと思ったらしいさよりさんは、僕に職探しの方法を尋ねてきた。
履歴書を持って、ハローワークに行くのだという僕の話を真剣に聞いたらしい。
「もういいでしょ?眠いですよぉ。」
「ダメ。2時間寝たら起きて。いい?集合は…。」
結局彼女のいいなりに約束させられた。

ハローワークに行くのは初めてだというさよりさんは、白のカッターシャツに細いデニムといういでたちで待ち合わせ場所に先に来て、僕を待っていた。
文字にすれば一般的な服装なのだろうけど、彼女の場合はこれまでの経歴が透けて見えるほど、ド派手に決まっている。
服装というのは、色が普通でも、デザイン次第でこうなるんだなぁと驚いた。
夜の蝶が昼の服になっても、きれいな体のラインがくっきりと強調され、開けすぎた胸元のボタンやキラキラしたままの長い爪の先から、変装前の姿が覗いてしまっている。

真面目を絵にかいたような窓口の男は、やたらとさよりさんを…いや、あれは絶対さよりさんの「体を」だ…観察してから、ぶっきら棒を装った声で「ご希望の職種は?」と聞いた。
「OLさん!」
小学生が将来の夢を尋ねられた時のような声を張り上げたゆかりさんが、足を組み直す。
「さよりさん、脚、下ろして。」
「へ?なんでよ?」
「態度がでかくみえますから。こういうところでは謙虚に!」
「ケンキョってなに?あ、けーさつに捕まることだぁ。あはは。」
保護者役の僕には、ひやひやの連続だ。

「事務職がご希望…と。資格はなにかお持ちですか?」
「資格?ないなぁ。」
「運転免許は?」
「運転なんて、運転手さんの仕事でしょ?」
どこの姫かと突っ込みたくなるような返事をしても、さよりさんは平気でいる。
「職歴は…はぁ、接客業ですか。」
さよりさんが提示した履歴書を見ながらエンピツで何事かチェックを入れている。
「うん。だからね、人当たりはいいと思うんだよねぇ。」
「さよりさん、タメ口はダメです。ちゃんと敬語使って。」
僕は再びさよりさんの耳元でささやく。
「ケイゴ?穂高くんがあたしの警護してくれてるじゃない?」
「そういうオヤジギャグはもういいですから!」
「あら、そう?あはは。」
もう!

「待遇面のご希望は?」
「OLさんができるなら、なんでもいいかな。
給料もこだわらないよ。高けりゃまぁ、嬉しいけどさ、貯金はけっこうあるしぃ。
あ!」
「はい?」
「でもさ、一個だけ条件があるっていうか。」
「うかがいます。」
「男ばっかの職場がいいかなぁ。」
「はぁ?」
「だってさ、女が多いと、何かと面倒じゃん。
女は怖いよぉ。知ってる?おにーさん。」
おにーさんと呼ばれた窓口の男性は、最初は肉感的な彼女に興味津々だったけれど、今では最短時間で「処理」しようと決めたようで、無駄口に反応せず、てきぱきと端末を探っている。

キラリとその横顔が輝くと、プリントアウトをサクッと提示して言った。
「ありました。
初めていらしてヒットするなんて、運がいいですよ。
どうなさいますか、行ってみますか?」
その求人票を僕と同時に覗き込んださよりさんは即答した。
「行きます!」
よし、敬語が使えたじゃないか!

会話を交わす人すべてが、店一番の上得意と思うようにという僕のアドバイスを守って無事に面接を終えた彼女は、100社アウトを食らった僕とは違って、一発合格した。

さよりさんがその会社で働き始めて2週間。
ちまたはすっかり秋を深め、日によっては冬を感じるほどになった。
道端のイチョウがこれでもかと黄色い葉を落とし、道は踏みしだかれた三角で埋め尽くされている。
どうしても見に来てと、何度も誘いの電話をよこしてうるさいさよりさんに負けて、僕は彼女の職場を覗きに行くことにした。

その会社は、小紫から歩いて行けるほどの距離にある。
駅の方ではなく、住宅街の奥へと向かう。
とはいえ、幅広の道路沿いに進んで、住宅が切れたその奥に、大きな門と、大きな倉庫、ひっきりなしに出入りする車が見える。
「何言ってんの!さっさといってらっしゃい!」
「遅かったじゃない!次の準備はできてるよっ!」

どこに声をかけたものやらと門の外から様子をうかがう間もなく、門の脇にある小さな建物から、聞き知った高い声が響いてきた。
「いやー、さよりちゃんには敵わない。」
「でもさぁ、あの子が来てから、仕事に張りができたねぇ。」
そんなことを言いながら扉を開けて出てきた男たちは、大笑いしながらトラックの方へと向かう。

僕はその人たちに軽く会釈して、扉に向かった。
男たちは去りながらも、微妙に怪訝な顔をしている。
そっと引き開けると、姿が見える前に声が飛んできた。
「今度あんな雑な仕事したら許さないからねっ。お客様にご迷惑かけたんだから、反省しろ、反省っ!」
カウンターの向こうで仁王立ちしたさよりさんの前で、若い男がうなだれている。
「わかったら、さっさと行っておいで。気を付ければいいんだからさ。」
「はい…。すみませんでした。」
「ったく、いまどきの若い子はっ!」

ほうほうのていで逃げ出してきた彼は、僕とすれ違いざま、確かに言った。
「おかしいなぁ、俺の方が絶対年上なんだけど。それに、あっちのほうが確実に新人だし。。。。」
だろ?
わかるよ。僕もまったく同じ立場だ。

「さよりさん!」
「ああ、穂高くん!」
嬉しそうにカウンターを飛び出してくる彼女を見て、あとふたり待っていた男たちがじろじろと僕を見つめてくる。
「来てくれたのね、ありがとー。あたし、嬉しいわぁ。」
あのさ、店の客じゃないんだから、腕にすがりつくのはちょっとどうかと…。
だけど、なんだか、ちょっと誇らしいような気持ちになるのはなんだろう。

「あんたたち、何じろじろ見てんのよ。さっさと書類を置いて、次行っといで!無事に帰ってくるの、待ってるからね!」
「おうっ!」

「ねぇ、これがさよりさんの言ってたOLさんの仕事?」
「それがさぁ…」
彼女は僕を応接ソファーに誘いながらつややかな唇を尖らせた。
この会社の作業服と思われる上着に、タイトなピンクのスカートという組み合わせが、妙に艶めかしい。
「最初はあっちの事務所に行ったんだけど、計算遅いし、字は間違えるし、使えないからってその日のうちにここに配属替えになったのよぉ。」
「配属ねぇ。何が仕事なの?」
「ウチさぁ、運送会社じゃない?運転手さんがいっぱいいるのね。で、配達してきた伝票を受け取って、残り時間見て、次にどこへ行ってもらうか考えて、新しい伝票渡す仕事。」
「へぇ。」
「それがさぁ、自分でも意外なんだけど、楽しいし褒められるし、男ばっかで気楽だし、もう最高!」
「あ、そう。」
「あたし、もはやここのマドンアよぉ。こういうOLもありでしょ?」

夜の蝶から昼のマドンナへ。
さよりさんの転職は、思いも寄らない形で大成功したようだ。
がんばれよと、心の中で偉そうにつぶやいて、彼女が淹れてくれた熱すぎる緑茶をすすりながら、僕はしばらく彼女にハッパをかけられて嬉しそうに笑っている男たちを見ていた。




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