「そうかな、あたしでもOLさんになれるかな?」
さよりさんはちょっと照れくさそうな顔になる。
滑らかな白い頬が先ほどまでよりも桃色に染まって、ますます綺麗に見える。

「あのね、昼間本屋とか図書館とか行って、常連さん好みの話題を調べてみたりしているうちに、世間にはいろんな人がいるんだなって気付いたの。」
「いろんな人?」
「そう。特にね、お昼時に、こう、制服着て、お財布とスマホだけ持ってご飯食べに来ているOLさんたちとすれ違ったりする時にね、ちょっと新発見っていうか、びっくりしたの。
ケラケラ笑いながらごはん食べたり歩いたりしているのを見てね、ああ、こうやって働いている人もいるんだなぁって。
もちろん、いることくらい知ってたわよ。
でも、自分とは関係ない世界のことだと思ってた。
もう最初っから、あたしにはできっこないって。
けど、こういうのもいいなぁって。 
ほんとにできないのかなぁって。
あたしさぁ、母親もこっちの世界の人だったし、他の世界を見ようとしてなかったのかもしれないなぁって。」

「ねえ、さよりちゃん。」
ゆかりさんがしっとりと呼びかけた。
その温かく包み込むような声、これを聞きたくてこの小紫にやってくる客がなんと多いことか。

「さよりちゃんのお母さんは、残念ながらいい親ではなかったわ。
ごめんなさいね、不愉快よね、他人からこんな言われ方したら。」
「ううん。ママならいい。本当のことだし。」
「ありがと。
親が親だと言えるにはね、子どもにしてあげなきゃならないことがあるのよ。」
「してあげなきゃならないこと?」
「ええ。生物学的には産めば親になれるけど、子どもを幸せにする親になるには、しなければならないことがある。」
「それってどんなことですか?」
さよりさん以上に興味を示す僕に、ゆかりさんは目を見開いて見せてから、やっぱりさよりさんに向かって語りかけた。

「子どもがね、自分はいつでも守られていると感じていること。
安心、安全で、自分は守られる価値ある存在なんだなって感じられるってことね。

それから、子どもが大人みたいに気を使わなくていいこと。
子どもらしく、怒っても泣いてもわがまま言っても、一度はちゃんと受け止めてもらえるってことね。
そういう時間を過ごすから、人は安心して心を開けるようになるの。

安心感とか信頼感とか受け止めてもらえる自信とか、そういうものがあって初めて、社会の中で生き抜くためのルールを教えること…つまり、しつけが成り立つの。
しつけというのも、親の大切な役割ね。
もっとも、しつけといえば暴力を振るってもかまわないと勘違いしている人もいるけれどね。
そういう人もよく見れば、親自身の不満や不安を子どもにぶつけているだけなのよね。
ま、理由がなんであれ、子どもを傷つける大人がいい親になるはずないわね。」

「だとしたら…。」
さよりさんは冷めかけたコーヒーをようやく口に運んでからつぶやいた。
「あたし、いい親から受け取れるものをほとんど何ももらってないかも。」
「多分、ね。」
「そうなんですか?」
僕は思わず問いかける。

「うん。
前にも話したかもしれないけど、あたしの父親はあたしが生まれると同時に事故で死んじゃったのね。
で、母親は水商売をして、いろんな男がうちに出入りしたわけ。
母親は酔っているか眠いか、男といちゃついてるか喧嘩してるか。
あたしがいるかどうかなんて気付いてなかったんじゃない?ってくらいだったから、安心だとか安全だとか、感じたことない気がする。」
「……。」

「油断していると理由の分からないことで殴られるし、怒鳴られるし。
でも、気を張って様子をうかがっていても、全然わからないんだもん、なんで殴られるのか。
いつもお腹空いてて、でもお腹空いたっていうと意地汚いって怒鳴られてさ。
腹が減るのはみんな同じでしょ?
でも、あたしはお腹空いたって言っちゃいけなかったんだぁ。」
「ひ…ひどすぎる。」
僕の目が潤んでしまう。

「母親と一緒に暮らした男たちにいたずらされたとかはないけど、殴られたり汚い言葉で罵られるのはしょっちゅうだったし、それに、母親と絡み合っているのは何度も見てる。
あれ、最低よ。
ほんと、最低。
子供心なんて吹き飛んじゃうくらい。
どうせガキだし、意味わからないだろうくらいにしか思ってないんだろうね。
まさか子どもが一生その光景を覚えていて吐き気を感じてるなんて思いもしない。
バカだよね、そういう大人。
ほんと、死ねばいいんだよ!」

さよりさんの激しい言葉に、僕の心臓は波打った。
すがるようにゆかりさんを見ると、彼女は僕と真逆に、にこにことさよりさんを見つめている。
「憎い?腹が立つ?」
「もう、めちゃくちゃ腹が立つっ!」
「それでいいのよ。
隠さずに怒っていい。怒る方がいいの。

役割を果たせない親は、子どもに憎まれ恨まれて当然なの。
だって、安心も安全も信頼も教わり損ねた子どもは、ほんとうに生きにくい人生を送らなくちゃならなくなるからね。
多くの子どもはね、それでも親に嫌われたくなくて、いい子だねって褒められたくて、悪いのは親じゃない、自分の方なんだって思ってしまって、ますます自分を傷つけるのよ。

でも、それは違う。
子どもに安心して子供らしく過ごせる時間を与えるのは親の責任なの。
責任を果たせなかった親が責任を問われるのは当然のこと。
あなたは何も悪くない。」
「……そう言ってもらうと、ホッとする。」
「何回でも言ってあげる。あなたは、悪くない。」
さよりさんはコクコクと髪を揺らして頷いた。

「けど、いつまでも親に植え付けられた不安とか不快感とか不信感とか罪悪感とか自信のなさとか、そんなものに支配されて生きる必要もないわよね。」
「支配…。」
「そうよ。支配されているのと同じでしょ?
親の役割はね、血がつながっていなくても果たせるものなのよ。」
「そうなの?」
「そうよ。それに、ふたりいなくてもいいの。」
「そうなんですか?!」
飛び上がったのは僕だ。

「そうよ。親の役割を果たすのはなかなか大変なこと。
大人だってみんな完璧じゃないし、うまくいかない部分もあるから、大人が複数いて、役割分担がしてあったり、ひとりだめでももうひとりが果たせるようにしておけば安心よね。
でも、両親そろってなきゃいい親になれないということはないの。」
「そうか。そうですね。僕は母さんしかいないけど、不満に思ったことなかったもんなぁ。」
「あなたの場合はお姉さんも親代わりだったのでしょう。」
「確かに!」
「その分、お姉さんはどうだったのかしらね。
幼い時から、背負うには重たい責任を背負っている気持ちがどこかにあったかも…。」
思い当たることが多すぎて、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

「さよりちゃんは本当に辛くて不安で怖かったのよね。
お父さんが亡くなって、お母さんもご自分のことで必死で、あなたを見る余裕がなかったのね。
本当はあなたをかばって守ってくれなくてはならないお母さんが、守るどころか手をあげるんだもの。」
「ほかの大人も、誰も助けてくれなかった…。」
半ば身を起こしたさよりさんの目から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ち、あごを伝ってポタリポタリとむき出しになった太ももを濡らしている。

「親の役割はね、実は『自分』でも果たせるのよ。
今あなたはもうあの頃の子どもじゃないの。
強くなったわ。
いろいろな経験をしたと思うけど、全部乗り越えたでしょう?
だからね、これからは、小さいころにあなたが感じたことと、今実際のあなたが感じてもいいこととの違いをちゃんと認識して、今のあなたを生きてほしいのよ。」
「今の私?」
「そうよ。こんなにきれいで、かわいらしい女性はそうたくさんはいないわ。
今のあなたなら、望むことはなんでもできる。
そのための努力もきっとやり遂げると思うの。

『できない』『似合わない』『無理』『笑われる』…
そういうのは全部、あなたが子どものころ、無責任な大人があなたに押し付けた、間違った認識よ。
いつまでも無条件に従う必要があると思う?」
「ないない!従ってるつもりもなかったけど、あるならやめる!」
「でしょう?なら、やってみたいことはやってごらんなさい。
心の温かい母親のようにあなた自身を信じて、応援して、やってみたらどうかしらね?
いい、さよりちゃん。
ここまで気付いたら、これから先の人生の質がどうなるかは、あなた自身の責任よ!
私たちも応援するから。ね?」

「もう!ママと話しているといつも自分が知らない自分を発見しちゃうわ。」
さよりさんは泣き笑いしている。

「ねぇ穂高くん。」
「はい。」
「あたしね、ここに来るのが好きになったのは、ママがね、『はいはい』って言ってくれるからなの。」
「え?」
「あたしが変な時間に来て、『コーヒー』って言うでしょ?ほかの店だと、お酒じゃなくていいんですかとか、コーヒーはちょっととか言うの。
まぁ当たり前と言えばそうなんだけどね。
眠れなくなりますよ、なんてのはいい方で、他の店に行ってくれとか、コンビニで買えばいいだろうとか言われることもあってね。
そりゃそうだとは分かってるのよ。
でも、たまたま入った小紫は違ったの。
『はいはい』って、コーヒーが出てきた。
おにぎりって言えばおにぎりが、お水って言えばお水が出てくるの。
できないことを頼んでも、ほんとは無理を言っているのはこっちなのに、ママは『ごめんなさい』って言うの。
あたしね、ここに来ると、自分がとっても大切にされているんだなって分かる。
それがね、すごーくうれしくて、心地よくて、離れられなくなっちゃったんだぁ。
今やっとわかったよ。
あたし、子どものころから『はいはい』って受け入れてもらったことなかったんだなぁって。
だから、すっごく求めてたんだなぁ。
無条件に受け入れてもらえて、ああ大事にされてるなって感じることを。」

そうして、ぐずりとテーブルに突っ伏していた背中を起こし、両手で長い髪を整え、乱れた服を引っ張ってから言った。
「よし!あたし、お昼の仕事、やってみようっと。
あたし、ひとりじゃないもん。
応援してくれる人も、あんなとんでもない子ども時代を乗り越えた力もあるんだもん!
ね、穂高くん。」
「はい!応援します!!」

やばい。
一瞬、息が止まるかと思った。
こんなに美しい人、見たことないや。






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