6人のご婦人方の会合はその後、日ごろの話に花を咲かせて散会となった。
例の通りならば、ご婦人方が再びやってくるのはひと月後だろう。
僕とゆかりさんは思いがけない宿題を出され、それぞれに「死ぬまでにしたい10のこと」を考えることになった。
ゆかりさんはお客様を見送ると、複雑な表情で僕を見る。
わかっている。
「死ぬまでに」なんて、死病を患って数年しかたっていない僕には重たい話題と心配しているのだろう。

「大丈夫ですよ。」
「それならいいけど、私がお客様の言葉を断ってはいけないと教えたから我慢しているなら、今回はお断りしてもいいのよ。」
「大丈夫です。それに、あの一番ご高齢に見えた方のお話、僕はなんだか感激しました。」
「お年の割にはほんとうにしっかりとなさっていて、驚いたわね。」
「僕は戦争のことなんか何も知らないし、周りの人から聞く機会もなかったから、すごく勉強になると思いました。語り部ですね。」
「確かにね。」
「面白い話題だと思うんです。僕も考えてみます、どうしてもやりたいことを!」

そんな話をしていた何日か後で、久しぶりにさよりさんがやってきた。
夜の蝶である彼女は、例によっておぼつかない足取りで深夜ふわりと現れた。
相変わらずどこか崩れた印象は否めないが、綺麗な女性だ。

「ママー、コーヒーちょうだい。」
彼女はいつものスツールに陣取るや否や、そう言った。
「はいはい。しばらく見なかったわね。元気にしていたの?」
「元気元気。どっかのボーヤが私の収入源を退治しちゃったから、自分で真面目にコツコツ働いてたのよぉ。」
「そ、その節は大変失礼をいたしました〜。」
僕は半ば冗談と知りつつ、彼女が足を組んで座った脇に立って平身低頭する。
彼女の「いい人」に文句を言い、二人を別れさせてしまった元凶は確かに僕だし。
今日もさよりさんから、甘く切ないような薫りがそっと漂う。
以前よりも香水が薄くなったのはなぜだろうと、僕はふと思った。

「冗談よ、穂高くん。でもね、真面目に働いていたのはホント。」
「それまでだって、さよりちゃんは真面目に働いていたでしょ?」
「うん、まぁね。でも、ボーヤの一件があってから、あたしね、ちょっと考え方が変わったんだぁ。」
ひどく酔って見えるし、話し方は眠そうで酔っぱらいそのものだけれど、彼女の話はいつも乱れない。
どこかスッと筋が通っている。
姿勢は崩れていて、今日も左ひじをテーブルにつけて頬杖をついている。
お店に出ている時には一筋も乱さないのであろう長い黒髪は、頬杖の先の指で時折かき回されるから、次第に寝起きのように乱れていく。
時には長い足を隠すには短すぎるスカートや、眼を引き付けずにはおかないキラキラした襟元、深く切り込んだ胸元は、無防備の域を超えてしまう。
おいおいと思うのだが、それはきっと、彼女が心底くつろいでいる証拠なのだろう。
そう思うと、湯上りに裸のまま家の中を歩き回る姉さんを見慣れていて本当によかったと思えてくる。
そうでなかったら、僕はこの場に平然と立っていられなかっただろう。

ゆかりさんは、さよりさんの考えがどう変わったのかなんて問いかけて、答えを急かしたりしない。
あの、たまらなく美味いコーヒーを差し出すと、黙って静かに微笑んでいる。
今日もほかに客はないから、僕もゆかりさんも彼女にかかりきりだ。
ゆかりさんの目くばせに従って、僕はさよりさんの隣のスツールに腰かけた。
ママはそっと僕の前にもコーヒーを置いてくれた。

「あたしね、正直言うと、お客様のことをどこかバカにしてたんだよね。
こんなとこに来て、女の子にいやらしいこと言ったり王様みたいに振舞ったりしてバカじゃないの?って。
見栄はって高いボトル入れてさぁ、外で買ったら半値だよって分かってるんでしょ。
そんなバカが自分からやってくるんだから、いいようにお金巻き上げたって構わないって感じ?
獲物よ、つまり。」
なんだか、情景が見えるようだ。

「でもね、こないだボーヤに真剣に心配されちゃったじゃない?
あれから、ふと違う考え方もできるかなって思うようになった。
お客様は世の中にゴマンとあるお店の中からわざわざこの店を選んで、貴重な時間とお金を使ってくれているんだなぁ、ありがたいなぁって。」
「そう、そうよね!」
ゆかりさんが嬉しそうに合いの手を入れる。
「そうしたら、せっかくあたしを選んで来てくれたんだから、楽しんでほしいなぁとか、気持ちよくお帰りいただきたいなぁとか思うようになったんだよね。
前は、他の子の客でもいいからどこで食い込んで、アフターにつなげて、気に入られて貢いでもらうには…自分の収入源にするにはどうしたらいいかで血眼になってたんだけど、そういうの、まぁいいかと思えてきたんだぁ。
そしたらね、突然変わったの。」
「変わった?」
「そう。変わった。どういうわけだか指名が増えたの。
でね、指名してくださるお客様のお話にもっと乗れるように、いろいろ調べてみたりし始めたら、明るい時間の過ごし方が変わっちゃった。
無暗にアフター行くより、早く帰ってちゃんと寝て、明日は図書館行ってみようなんて思うようになっちゃったんだもの。」
「あらあら、さよりちゃんが図書館?」
「ちょっとママ、失礼じゃない?ふふふ。
それでね、アフターもたまにしか行かなくなっちゃったの。
そうしたらビックリ。
肌がね、荒れなくなった!」
「深酒の寝不足に厚化粧だから、荒れても当然ですよ。」
僕が余計なことを言うから、さよりさんに耳を引っ張られる。
「いててて!」

「でも、穂高くんの言う通り。化粧のノリがよくなったら、お客様にも喜ばれちゃう。
たまにアフターに行くと、珍しいからと喜ばれて、おねだりしないでもお小遣いいただいちゃったり。
そしたら、なんだか前は嫌々働いていたなぁって気がして。
ってことは、今は、ちょっと楽しく働いてるって感じ?」
「そうだったのね。だからここへも現れなかったのね。納得したわ。」
ゆかりさんが心底嬉しそうだ。
しっとりとした声がツヤを帯びている。

「で、今日は早寝しなくていいの?」
「うん…ちょっと、相談…っていうか、聞いてほしいことがあって。」
「私に?」
「そう。あ、笑ってくれていいから。」
「それはお話を聞いてからね。」
「うーん、あのね…」
言いかけて、さよりさんは息を詰めた。
両手でバサバサと髪を掻き乱すと、そのままテーブルにつっぷして、右の人差し指でまだ手をつけていないコーヒーカップの縁をそっと撫でると、つややかな唇の端に笑みを浮かべて言った。
「やっぱり、いいや。」
「それ、さよりちゃんの悪い癖。」
「え?」
「ここではね、さよりちゃんは何を言ってもいいのよ。
いつもそう言っているでしょう?
さよりちゃんが話したいと思ったことで、言わなくていいことなんて何もないのよ。」
「ああ、そうだった。また忘れちゃった。だから来たのにね。」

きっと、この二人の間では、こんなやり取りが何度となく繰り返されてきたのだろう。
さよりさんは自分のことをあまり大事にしない。
いろんな意味で。

「あのね、ママ。あたしね、仕事辞めようかなって思って。」
「仕事を?」
「うん。」
「やっと楽しくなったのに?」
「そうなの。」
「ほかにしたいことでも?」
「うふふ。やっぱりママは鋭いなぁ。
そうなの。
でも、無理かなとも思うんだ。」
「でも、やってみたいんでしょ?」
「うん。」

僕は、どんな仕事をしたいんですかと尋ねたくてうずうずする。
でも、ゆかりさんは相変わらず先を急がせず、さよりさんが自分から話し出すのを待っている。
こんな僕にでも分かってきた。
人は、胸の底にある、肝になる言葉を口にするためには、掘り起こし、ゆっくりと持ち上げて外に出す準備をする時間が必要なのだ。
本気で語ろうとすることほど、そういう時間がかかる。
ぺらぺらと語られる言葉が軽く聞こえるのは、元々浅いところにあった、浅い思いだからかもしれない。
それが分かっているから、ゆかりさんはああやって、静かに待てるのだ。

「あたしね、普通のOLさんになりたい。
もしかしたら、あたしにもできるかなって。
やってみたいなーって。
どうかな?
やっぱりあたしじゃムリかなぁ。」

「できるわ!」
「できます!」
ゆかりさんと僕の言葉がシンクロして、さよりさんを笑わせた。






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