「私の言葉には、棘がある。
その棘には毒がついてる。
そんなつもりは全然ないのに、私がふっともらした言葉が、誰かの胸に刺さって、傷つけてしまう。
毒にしびれた相手が言葉を途切れさせるから、あ、またやってしまったって分かるの。
私、誰も傷つけたくなんかないのに。」
プレートランチができるまで、ちょっと立て込んでいるからこれを飲んで待っていてと、オーナーが淹れてくれたコーヒーをブラックのまま楽しんでいると、カウンターに腰かけた僕の背後から、そんな声が聞こえた。
どうにも気になって、肩越しに小さく振り向く。
真後ろのテーブル席に向かい合わせに、女性がふたり座っていた。
声の主は、普段着としか表現のしようがない、質素な様子をしている。
化粧っ気もなく、よれてはいないけれど洗いざらしのグレーのTシャツにボーイフレンドデニム、使い込んだサンダル。
向かいの女性はこじゃれたワンピースにパンプスを履いている。
元から色白なのだろうが、綺麗に描かれた眉と、ライナーで縁取った時だけにできる見事なリップの仕上がり。
コーヒーを口に運んでも崩れていない様子から、念入りなメイクだとわかる。
足元のカゴに置かれた二人のバッグも見える。
Tシャツの人のは、何かの景品についていたようなエコバッグ。
ワンピースのほうのは、カゴによく似た作りでできた、でも幼くは見えない夏用のハンドバッグ。
そうだ、思い出した。
このワンピースの生地はリバティプリントというのだ。
この前、ゆかりさんに教わった。
小花柄の高価な生地。
反対側の肩越しにもう一度覗き見る。
Tシャツの方は60歳近く、ワンピースは40代前半というところか。
年の離れた友達らしい。
「認知症の方の居住棟に移ってから、私、考えてしまうのよ。
ご利用者様には、大きくわけて二通りいらっしゃるの。
片方は、お地蔵さまみたいに穏やかになって、いっそ無気力なくらい状況に適応しているというか、落ち着いているというか。
そういう方たちは徘徊しようと何か失敗しようと、何かしら思いやりが潜んでいるのね。
さっき食べたばかりなのに、ごはんはまだかい?っていうのも、しつこいけど悪意を感じないというか。
徘徊の理由をよくよく聞いてみると、子どもを迎えに行こうと思ったとか、お部屋のものを片っ端から壊すから何かと思ったら、ヨメに修理を頼まれたんだとかおっしゃる。
いえ、それ修理じゃなくて壊れてますよぉっていうのは通じないんだけどね。
そんなふうに言われると、こっちも笑顔になれるし、じゃ一緒にお迎えに行きましょうかって言うと、嬉しそうにされたりするわけ。
本当はその方にお子さんなんかないときもあるのよ。
奥様はとっくに亡くなっているとかね。
でも、いいの。
そんなのは平気。
私、プロだもの。」
どうやらTシャツのほうは、どこかの介護施設で働いているようだ。
僕はそれがどういう場所で、どんな仕事なのか想像もつかない。
でも、自分が誰で、相手が誰かもわからないようになった高齢者の相手をするだけでも大変なことだろうということくらいは分かる気がする。
さらに、おむつを取り替えたり、お風呂に入れたり、歩き回るのを追いかけたり…
浅い知識で考えるしかないが、「大変」の一言に尽きる。
自分にかまっていられない様子なのもわかる気がする。
僕はまた完全に背を向けて、彼女の声に耳を傾けた。
「でもね、そういう方はほんの一握りなの。
大概の方は、怒りとか不安とか、不信感とかでいっぱいなの。
大事な息子を奪った憎い嫁と間違われて、バカとか死ねとか言われるのは日常茶飯事。
夫の浮気相手の女と思って、枕だの湯呑だのを投げつけてくる人も珍しくない。
男性職員なら、浮気した夫と間違われて、あなたはひどいと泣いて殴られるなんてしょっちゅうなの。
私が一番恐ろしいと思ったのはね、私を娘と間違えているご利用者様なの。
普段から口が悪いと言うか、文句ばかりなのね。
誰に対してもきついことを言うの。
みんな担当を嫌がって、自然と年かさの私に回ってくる回数が増えて。
ホームに来るまで一緒に暮らしていたのは娘さんだったけど、私たちより年上だと思う。
送ってきてから、一度も訪ねてこないのよ。
でもね、それももっともなの。
その方ね、私をその娘さんと思って、毎日毎日、顔を見るたびに言うの。
『なんてグスなんだろう。それに器量が悪くて見ているだけで腹が立つ。お前はあのひどい父親に似て、気は利かないし、反省もしない。お前なんか産まなきゃよかった。なんでお前なんか産んでしまったんだろう。あの時堕しておけばよかった。お前の顔なんか見たくもない』って。」
Tシャツさんは、淡々と話す。
僕はその言葉に息が止まった。
そんなひどい言葉がこの世にあるのだろうか。
人違いと分かっていても、毎日毎日そんな言葉を言われたらたまらない。
「きっと、娘さんにも言っていたのね。
その父親っていうのに裏切られたのでしょう。
その方も、親御さんの愛情に恵まれなかったのかもしれない。
きっとつらい思いをしたのだとは思うのよ。
でもね、気の毒だとは思うけど、共感はできないの。
その悪態を聞いていると、いつからなのかなって、いつも思うの。
認知症が始まってからなら、まだいいなって。
だって、病気が言わせているんだって思えるでしょう?
でも、多分、きっとそうじゃない。
あの方は、娘さんが小さい時からずっとずっと、そう言い続けているんだと思う。
ひどいわよね。
最低最悪の呪いの言葉よ。
これ以上汚い呪いは存在しないくらい、ひどい言葉。」
生まれてきてくれてありがとう。
私の子どもになってくれて、ありがとう。
僕と姉さんの母さんは今はもう亡くなってしまったけれど、僕たちにそう書き残してくれた。
書き残さなくても、僕たちは母さんが本気でそう思っていることを肌身で知っていた。
疑ったこともないし、これからも疑うことはないだろう。
その当たり前の温度を知らない人がいる。
愛を囁いてほしいと願う口から、呪いの言葉がほとばしるのを止めようもなかった子供がいる。
これは、そういう話だ。
「私ね、時々恐ろしくなるの。
この人たちはどうして、こんなふうになっちゃったのかなって。
どこで道が分かれて、お地蔵さんみたいな人と、鬼みたいな人に分かれちゃうのかな。
私はどうなるのかなって。
そうするとね、私、本当に怖くなる。
だって、私の心の中、すごく冷酷なんだもの。
普通に話しているつもりの言葉に毒入りの棘が出てるくらい、冷酷なんだもの。
今はそれでもコントロールできるからまだいいの。
いつか、そのコントロールができなくなったら、私もあんなふうに呪いを吐きまくるのかと思うと、もう死んでしまいたくなるの。
それだけじゃないわ。
最近、その方のお世話をしているときに、『この口を封じてしまいたい』っていう衝動に駆られるの。
いっそ首を絞めてしまおうか、風呂の中に押し込んでしまおうかって思っている自分がいるの。
どうしようもなくイライラして、でも、我慢してる。
このままじゃ、私、いつか殺人犯になってしまうかもしれない。」
「いいえ、大丈夫。」
向かいで黙って話を聞いていた小花柄が、このとき初めて声を出した。
柔らかいのにきっぱりとした声だった。
「大丈夫。あなたは決してそんなことしないわ。」
「どうして分かるの?」
「あなたの言葉に棘があるとしたら、それはむかしむかし、あなたの柔らかくてあったかい心に棘を差し込んだ大人がいたからでしょう?
丁度その口汚い方と同じやり方で。」
「え。」
「忘れたの?話してくれたじゃない。
あなたのご両親のこと。
二人であなたを馬鹿にし続けたこと。
あなたの楽しみの何もかもを否定して、あなたの行動の何もかもに口を出して、あなたの10の成功を褒めることも喜ぶこともなく、たった一つの失敗を責めるだけだったこと。
あなたを捨て子だったと言い続けて傷つけたことも。
子どもの命など親のモノだといって、機嫌が悪いとすぐに殴る蹴るの暴力を受け続けたことも。
そうやって、毎日一本また一本と刺された棘が抜けずに残っているのよ。
あんまりたくさん刺さって、ヤマアラシみたいになっちゃっているから、時々抜けて、言葉と一緒に外に出てしまうのかもね。」
「ヤマアラシ!」
Tシャツさんはフフフと笑った。
「私、思うのだけど、怒りって、ちゃんと正しい怒りの対象に向けて返さなくてはならないのではないかしら。」
「正しい怒りの対象?」
「その口汚い方ね、本当は娘さんに向かって怒っているのではなくて、自分を裏切った夫とか、その方ご自身の親御さんとか、そういう人に対して怒りを感じていたのではないかしら。
でも、きっと、その怒りをちゃんと相手に伝える勇気がなくて、抑え込んでいい人を演じたりしてしまったんじゃないかしら。」
「なるほど。そうね、そうかもしれない。」
僕は小花柄の言うことに、心の耳をダンボのように広げて聞き入った。
「だから、心の中に棘が残っちゃうのよ。
後になって、関係ない人に投げ返されても迷惑なだけだし、拒絶されて当然よね。
というか、自分を大事にするには、そういう精神的テロリストは拒絶すべきよね。
親子だろうと、上司と部下だろうが、教師と生徒だろうが関係ない。
どちらも人間としては対等だもの。
棘を刺されたら、ちゃんと抜いて、投げ返さなくては。
それが『自分を大切にする』ってことじゃないかしらって、思うの。」
Tシャツさんの声が途切れた。
何かを考えているのかもしれない。
僕のカップは空になってしまった。
白いカップの内側に微かなコーヒー豆のかすが円を描いている。
「そうか、そういうことね。」
Tシャツさんの声がした。
「私の棘は私の両親が刺したもの。
それから、50年近くも両親のことを思い出すたびに、自分自身で刺さった棘をねじ込んで、余計に深手になったんだと思う。
今でも、血が流れるほどに痛い時があるもの。
今、あのご利用者様に対して感じる怒りは、あの方にではなくて、両親に向けて返すべき怒りなのだわ。」
「そうかもしれないわね。
それを知っているあなたは、決して道を誤るなんてないわ。
だって、あなたは…。」
「プロですもの。」
「そうよ。それに、あなたの心は冷酷なんかじゃないわ。
もしも冷たいとしたら、棘の毒が回って冷え切っているだけ。
本当のあなたの心はきれいな虹色で、ほっこり温かいの。
私、ちゃんと知ってる。」
僕はすっかり感動して、後ろの二人に拍手喝采したい気持ちに駆られた。
「あのご利用者様の娘さん、もう二度と来られないといいなって思ってたの。
今日もいらっしゃいませんようにって、毎日祈っていたくらい。
だってあんな醜い言葉、二度とお聞かせしたくないもの。
でも、完全に断ち切って、ホームを姥捨て山と思って捨てていらしたならいいのだけど、そういう自分を責めていたり、抜けない棘が刺さったままら、ぜひもう一度いらして、怒りを全部ぶつけていってほしいわ。
そんな日がきたら、私、娘さんの応援しちゃうわ。」
なるほど、プロはそういう考え方をするんだな、でも、あなた自身のことも大事にしてよねと、僕はTシャツさんにそっと言いたくなった。
「それにしても、私、いつあなたに両親の話なんかしたかしら。
嫌な話だから言わないようにしていたつもりだったんだけどな。」
「やだわ。私がお嫁に行く前に二人で伊豆の温泉に泊まりにいったの、覚えている?」
「もちろん。あの時?」
「そうよ。あなた、もうめちゃくちゃ酔っぱらって、一晩寝ないでしゃべったじゃない。」
「え?あの時酔っぱらっていたのはあなたじゃなかった?」
「うそぉ。」
「あなたもご両親こと、ずいぶんいろいろ言ってたわよ。」
「あら、やだわ。知らなかった。」
「もう、私たち、若いころからボケてたってことかしら〜!」
「そういえば、今度の誕生日でお互い50歳よね。
もう44年も友達ってことよ。
記念にどう?また旅行に行かない?」
「うふふ。いいけど、シフト、きついからなぁ。
50歳記念より、友達歴50周年記念にしない?」
「その時私たちは…56歳?うわ、信じられな〜い!!」
僕はびっくりして、用もないのに持っていたカップをガチャンとソーサーに落としてしまった。
両手で押さえて慌てて振り返ると、20歳違いに見える同い年の女性がそろって僕を見ていた。
「す、すいません。」
二人はそれぞれに微笑むと、視線を戻して世間話を始めた。
僕にもいつか、こんな風に信頼し合って、心の内をさらして話し合える友達ができるのだろうか。
もう一度、肩越しに振り返って二人を覗き見た。
眼の錯覚だろうか、そこには、女子高生みたいにキラキラした女性たちが楽しげに語り合っていた。

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コメント
コメント一覧 (4)
生きていた過程にもより・・・ですか?
それもありですかね(笑)
同い年でも20才くらい違って見えること、あります。
見た目は普段どう生きているかの鏡かと。
とはいえ、メイクアップでどうとでもなるご時世ですかね。
指摘されて気づくのですが、言う前に止めなくてはいけません。
何で、そんなことを言ってしまうのか?
単に、無神経なだけなのかもしれませんね。
でも、自分が「グサッ」とくることを言われると恨んだりして。
勝手なもんですねぇ。
「グサッ」ってやっちゃった!って、きっと誰にでもあるのですよね。
あの、自覚した瞬間の気持ちがイヤだから、言う前に止めたい。
人のこと全然傷つけないあの人この人も、やっちゃった〜ってあるのかな。
無意味に無神経になる人っていないと思います。
無神経になっていないと痛すぎる経験がきっとある。
ま、たまに毒を吸うくらいの方が、ワクチンになって心が強くなるのかも。