姉さんに連れられて、初めてルナソルを訪れた日は、長い入院を終えた日とあって、長居はできなかった。
姉さんも、バイトスタイルを僕に見せようと着替えてくれたものの、その日はバイトを入れていなくて、僕が黄緑色のカップで美味すぎるコーヒーを飲んでいる間に再び普段着に戻って、家に帰ったのだ。

あれから、いろいろなことがあって、ルナソルには何度も足を運んでいる。
でも、小紫で働き始めてからは一度も行っていなかった。
不意に行きたいところ、遠くなくて、ひとりでいても快適な居場所。
数か月思い出さなかったのが不思議だった。

半月前にインフルエンザにかかったとき、病院へはタクシーで往復したので、電車でやってきて、病院と反対側に歩くのは、社会人になって初めてのことになる。
なんだか、ヘンな気分だ。
まっすぐに差し込んでくる太陽は、歩き出した僕をたちまち汗まみれにする。
わずか10分の道のりなのに、この徒歩の時間が、あの店のコーヒーの味を上げているんじゃないだろうかと思う。

今日はやたらと昔のことを思い出しながらやってきた。
初めて来たあの日から、もう6年ほどになるのか。
僕は今日も生きていて、こうしてこのドアを開ける。
汗ばんだ手で茶色のドアを押すと、カラリンとカウベルが鳴り、エアコンが効いた冷たい空気が僕を包んだ。

「やあ、いらっしゃい。ずいぶん久しぶりだね。」
オーナーは、いつもの気安さで僕を迎えた。
もうすぐ40歳になるくらいだろうに、相変わらずのいい男っぷりだ。
よくもまぁ、どこかの事務所から引き抜きに来なかったものだと思う。
若いだけの(おや、失礼)頃よりも、年齢を重ねた厚みが、彼の存在感を一層増しているように見える。
「一応、社会人になったもんで、ちょっと忙しくて。」
「そうか。おめでとう。」

この店は、いつ来ても空気がきれいな気がする。
「きょうはカウンターでいいかい?少し話もしたいし、顔も見ていたいし。」
「見せるような顔じゃないっすよ。」
憎まれ口をききながらも、僕は促されるままにカウンター席に腰かけた。

「今日も繁盛ですね。」
店内は、平日の昼下がりのわりには、やはりよく客が入っている。
「今はコーヒーブームだからね。」
「今は?この店は6年前からブームだったと思いますけど。」
「実は最近、ランチを始めてねぇ。それがよかったらしい。」
「うわ。それは都合がいいな。僕、昼飯まだなんですよ。」
「よし。じゃ、味わってみてくれないか。」
「お願いします。」
「ただし、ワンプレートランチ1品だけだから、何も選べない。」
「いまどき、かえって新鮮ですね。シェフのおすすめランチって感じで。」
「そのかわり、野菜はすべて有機野菜。米や小麦粉にもこだわっている。」
「へぇ。オーナーらしいや。」

ふんと小鼻を膨らませて喜ぶと、オーナーは引っ込んでいった。
姉さんがバイトを辞めてから、この店は男性店員を雇った。
見ると、見覚えのある彼のほかに、もうひとり、オーナーよりも少し年上に見える男性が動き回っている。
どちらもイケメンぞろいだ。
「まったく、ホストカフェかよ。」
独り言で突っ込むには丁度いい具合だ。

汗ばんだ手をきれいに洗いたくて、手洗いに立つ。
ドアの周りにひとつのモノも置いていない、スッキリした様子。
ドアを開けると、汚れはもちろん、乱れたところがひとつもない。
わざとらしく置かれた掃除点検表もない。
不快な臭いも、芳香剤もない。
シンクも便器も、真っ白に光らんばかりだ。
トイレットペーパーホルダーが、以前から面白い形をしている。
床から棒が生えていて、90度に曲がった先端にペーパーがかけてある。
その先端が彫刻になっている。
ペーパーから両手をそろえて今にも飛び込もうとしている、長いウェーブの髪の、半裸の女性の肩から先。
僕は初めてこれを見たとき、恥ずかしながら小さな期待を込めてペーパーをはずし、全身を確認した。
すると、なんと、人魚だったのだ!!!!
あの時の人知れない気恥ずかしさは昨日のことのようだ。
後で聞いたところによると、オーナーがコーヒーの買い付けに出かけたどこかの国で見つけた杖なのだそうだ。
これはいつか、何かに使えるとひらめき、迷わず買ったのだと言う。

手を洗ったあと、水滴をぬぐったペーパータオルでシンクの周りにとんだ水滴を当たり前のようにぬぐいながら、前回ここで手を洗ったときの自分は、こんなことが習慣になっているとは思いもしなかったと気付いた。

席にもどって、改めて店内を見回す。
喫茶店というと、来た客にうまい飲み物を出すのが仕事だと、以前の僕は思っていた。
もちろん、それに間違いはない。
けれども、同じような仕事を自分もしてみると、それは、仕上げの一点のようなものだった。
その一点を描くまでに、従業員が何に心血を注ぎ、どう準備をしているのかなどまったく知らなかったし、知るもなにも、そんな時間や努力の存在に気付いてすらいなかった。

この、みごとな石のゆか。
これをこの状態で何年も保つことの大変さは、毎日床掃除をしてみてはじめて知ったことだ。
使っていると、毎日同じように掃除していても、なぜかヨゴレというかクスミというか、そういうものがついていく。
それを見越して、ある時はこの方法で、またある時は別の方法で、掃き、洗い、磨いていく。
そういう努力なしに、きれいな床は保てない。

店内の空気にしてもそうだ。
きっとカウンターの下には、大きな空気清浄機が隠されているに違いない。
けれども、お金をかけて機械を置いただけでは、どうしてもこの清浄な空気は保てない。
壁や柱、棚の上、いろいろなところに自然とたまっていく埃を、やっぱり毎日丁寧に取り除いていく。
淹れたてのコーヒーは香ばしいが、淹れた後のコーヒーかすは悪臭の元になりかねない。
だから、それが客の鼻に届く前に、さっと片づけるのが大切なのだ。
それはつまり、コーヒーをそこここにこぼさないことでもある。
こぼれたら拭けばいい、なんて言っていては、いつか澱んでいく。
見た目に美しいだけではない、本物の技量が必要なのだ。

顔見知りの店員が、今、手洗いに入ろうとして、黒くて長いエプロンを外し、白いワイシャツの袖をぐいっとまくったところだ。
こういう心遣いも、この店では当たり前の文化なのだろう。
客に飲み物を供する服装でトイレには入らない。
間違っても袖口が汚れないよう気を遣う。
きっと、手洗いの中で手を洗い、出てきたらまた肘まで洗い直すに違いない。
そんなところは誰も見ていないかもしれない。
でも、絶対にゆるがせにしない配慮。

客は、何も知らないけれど、そういう一切合財を肌で感じて店を選ぶ。
うわべだけ飾っても、味だけ求めても、客はいつか気付いてしまう。
そういう意味では、お客様は本当に神様みたいなものだと、僕は思う。
サービス業ってすごいよな。
ルナソルか。
朝から晩まで一日中頑張っているのは店の人たちなんだよな。
いま、そんな見えなかったものが見えるようになって、なんだか少し大人になれたような気がする。
子どもと社会人の違いとか、学生と働くことの違いは、そんなところに隠されているのかもしれない。

「はい、お待たせしました。今日のランチはガーリックトーストに4種のキノコのディップを添えて、それから、シンプルな鶏肉のソテーとベビーリーフの山盛りサラダで。」
大きなプレートは真っ白で、添えられたフォークが光っている。
あまりにも美味そうで、僕はごくりと音をたてて生唾を飲み込んだ。






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