梅雨が明けた。
故郷に比べると年中まとわりつくような湿気を感じる東京では、夏の日差しが強まるほど「暑い」よりも「蒸し暑い」と思う時間が増える。
ゆかりさんが北海道へ旅行に行ってしまい、小紫は一足早い夏休み。
僕はこの5日間をどう使おうかと考えているうちに当日を迎えてしまい、自分の手際の悪さに苦笑いしながら、さしあたり、窓と玄関を全開にして、せっせと掃除機をかけた。
それから、シーツと枕カバー、タオルケットにバスタオル、お風呂マットとトイレマットも洗おうかと、洗濯三昧のうちに半日が終わってしまった。
うちにはタオルケットを干すような場所はない。
そんな時には使うといいわと、ゆかりさんが言ってくれていたのを思い出し、僕は洗い立てでずっしり重たいタオルケットとシーツを洗濯カゴに山盛りにして、小紫の隣にある、ゆかりさんの家に向かった。
小さな庭に、物干しがある。
今は何も干してないので、2本ある洗濯竿の片方にタオルケットを、もう片方にシーツをびしりと伸ばして干す。
家では、いくつかに折りたたんで吊るすしかないのに比べると、これはもう贅沢としか言いようがない。
この庭には、うまい具合に陽が差す。
今日は風も日差しも申し分ない。
夕方とりこみに来れば、今夜は陽だまりの香りに包まれて眠ることができるだろう。
洗濯カゴを縁側の隅に置かせてもらうと、僕はそのまま、出かけたくなった。
とはいえ、遠出がしたいわけではない。
夏休みなのは自分だけで、世間一般はただの平日と思えば、友達を誘いだすのも難しい。
おなじみの元さんや長さんだって、いまは仕事の時間だ。
それに、どういう加減か、今日は一人でもよい気がする。
では、ひとりでどこへ行こうか、映画?美術館?買い物?
どれも違う気がする。
差しあたり駅へ向かう道を歩く。
改めてこうしてみると、普段気付かないでいたけれど、ずいぶんと静かな街だ。
いや、違う。
街とは本来、どこもこんなふうに静かなのだろう。
渋谷や新宿や、日本の中にいくつもないような街を基準にするよりも、こういうごく普通の街のほうを基準にするのが妥当というものだ。
他愛ないことを考えていたら、ふと、頭にひとつの風景が浮かんだ。
そうだ、これだ。
あそこへ行こう。
僕は駅から電車に乗り、病院へ向かうルートをたどることにした。
家からさほど時間がかかるわけではない。
病院に行くのと同じ駅を降り、病院とは逆の出口から街へ出る。
病院がある方はかなりにぎやかに開けていて人も多いが、反対側は駅に近いあたりにこそ店も集まっているが、それもすぐに途切れて、閑静な住宅街が広がる。
道はゆるやかな坂になり、次第に勾配を増していく。
初夏の日差しを浴びながら坂を上るうち、僕はぐっしょりを汗をかいた。
一般の人は、いったい何歳くらいから、坂を上りながら、自分の体重を感じるようになるのだろう。
さほど体力に恵まれた子供でもなかった僕でも、小中学生の頃は、きつい坂を上って息を切らせることはあっても、体とは存外重たいものなのだなどと感じたことはなかった気がする。
僕がそのことに初めて気づいたのは18歳の夏、この坂から振り向くと、家並みの向こうにそびえたっているあの巨大な病院で過ごした2か月ほどの後、退院の日に、姉さんとこの坂を歩いた時だった。
きっかけは、こうだ。
「姉さん、病院にいない時間、どこで何をしているの?」
退院間近になったある日、僕は何気なく姉さんに尋ねた。
「いろいろ。なんで?」
「別に理由はないけど、最近はそんなに病院にいてもらうわけでもなくなっただろ?
毎日掃除するほど広い家に住んでるわけでもないし、何しているのかなぁと思って。」
「あ、なるほどね。」
姉さんはすぐに納得すると、なぜかちょっと照れ笑いを浮かべた。
「え?何?」
「ああ、何でもない、何でもない。
実は、先月からバイトしてるんだ。」
「バイト?そうなんだ!」
「うん。でも、あんたの医療費が足りないとかじゃないよ。
せっかく東京に来たんだし、何か、あっちにいたらできないことをしてみようかなぁと思って。」
「ふうん。で、何のバイト?」
「喫茶店のね、ウエイトレス。」
「ウエイトレス?」
僕は姉さんがあの服…ええっと、なんていうんだっけ?…そうそう、メイド服!あれを着て働いている姿を想像してしまった。
それでさっき、赤面したのか?
「まさか、メイド喫茶とかいう、あれじゃないだろうな?」
「はぁ?!あんた、何想像しているの?」
姉さんは、抗がん剤の副作用ですっかり髪がなくなっている僕の頭を遠慮なくピシャリと叩いた。
「なんだよ、痛えなぁ!」
「そんないかがわしい仕事をすると思う?」
「いかがわしいかどうか、知らないよ。行ったことないし。」
「違うわよ。すぐそこの、普通のコーヒー専門店よ。」
「へぇ。そうなんだ。」
「うん。あのさ、母さんの日記の最後になんて書いてあったか覚えてる?」
姉さんに尋ねられて、僕はすぐに思い出した。
「うん。覚えてる。もう一度、コーヒーが飲みたかったなって。」
「そうそう。あたしね、あれがずっと気になってたのよ。
うちにはインスタントコーヒーしかなかったでしょ?
だから、母さんがいう『コーヒーが飲みたかった』って、きっとレギュラーコーヒーだよねって、話したことあったよね。」
「ああ、そうだったね。」
「それで、こっちに来てから、買い物のついでとか、美術館に行ったときとか、あっちこっちのコーヒーショップに入ってみたのよ。」
「ふーん。うまかったか?」
「それがねぇ…。気軽なコーヒーショップのコーヒーって、美味しいけど、なにかこう、砂糖を飲んでいるみたいに甘くて、母さんがあれを好きだったとは思えなかった。」
「確かにそうだね。母さん、別に甘いものがすごく好きってわけではなかったと思う。」
「嫌いじゃなかったけどね。で、喫茶店で、砂糖とかミルクとか入れないコーヒーを飲んでみようと思ってね、これもあちこち、行ってみたの。」
でも、それほど違いがあるわけでもなく、姉さんも最初からコーヒーが好きだったのでもなかったから、母さんがコーヒーの何が好きだったのか、よくわからなかったらしい。
「でもね、あの店…今、バイトしているところね…そこで飲んだコーヒーが、ほんとに美味しかったの。」
「何が違うの?」
「うーん、一口では言えない。でも、確かに美味しいコーヒーってあるんだよ。」
「そうなのか。」
「あたしね、時々そこでコーヒー飲むうちに、コーヒーの奥深さに引き込まれたんだ。
もっと知りたいと思っていたら、丁度バイトの募集をしているって聞いたの。
病院からも近いし、ブラブラしているのも性に合わないしね。」
それじゃ、退院したら連れて行ってよと僕が言った。
いいよと答えた姉さんは約束通り、退院のその足で、僕をその店に案内してくれ、すっと奥に引っ込むと、真っ白い七分袖のワイシャツに黒くて長いエプロンを腰骨で締めた、ダンディな姿で再登場した。
「うわっ!」
僕は驚いてしまった。
姉さんって、案外美人だったんだなと思ったのはこの時だ。
実はメイド服だって似合うのかもしれないと、余計な考えが頭をかすめたけれど、姉さんには言わなかった。
「そう、君が葉月ちゃんの弟くんか。退院おめでとう。」
どこか癇に障る男が、ここのオーナーだった。
アイドルみたいな顔をした、30そこそこの男だ。
そいつが差し出してくれたアイスコーヒーを、退院してすぐの重たい体を引きずるように坂を上ってきた僕は、すごい勢いで飲んだ。
ミルクだのガムシロだのを入れるのはすっかり忘れていた。
「うまーい!」
それは、本当に美味しかった。
姉さんの顔がパッと輝くように笑った。
「でしょ?」
僕はドキリとした。
姉さんは、コーヒーの魔法にかかっていたのだ。
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コメント
コメント一覧 (4)
でも、コーヒーを飲むようになったら、喫茶店も候補に入ります。
あの香りを満喫するには、禁煙にしてもらわないといけません。
意外と言われますが、3番目は手芸屋さんなんですよ。
布や毛糸に囲まれていると安心するんです。
しかし、なぜこんな仕事に??
穂高はメイド服フェチなんですよ、きっと(笑)
メイド服フェチ…
知らないふりしてるけど、実はフェチの裏返しってありそうですね。
確かに禁煙は大切。
たばこふかしながらコーヒー飲んでいる人には至福のひと時かもしれないけど、
煙が苦手な隣人には残念の一言に尽きますものね。
本屋さんは分かる気がするけど、手芸屋さんは意外でした。
それでは、ユザワヤなんて、幸せの殿堂ですね。
今度ブログでぜひ、手作り品をご紹介ください…でも、お忙しいですね。
喫茶店でバイトしたこともあります。
お姉さんのアルバイトがウエイトレスって、
とても、意外でした。(笑)
くろこ姫さんがバイトなさった時は、やっぱりメイド服ふうのウエイトレス衣裳だったのでしょうか?
子どものころ、私自身があの服を着た綺麗なお姉様方にあこがれました。
都会で女の子の健全なアルバイトといえば。。。
あれ?何が主流なんでしょう?
あ、マクドマルドかな??