確かに姉さんが言う通り、このままグズグズと泣き続ける姿を見て、母さんが喜ぶとは思えない。
でも、僕は姉さんほどに割り切ることができなかった。
悲しいときに悲しむ以外、何ができる?
僕の肩を揺さぶる姉さんの手を、僕は振り払った。
自分でも、乱暴だったと思うほど強く。

女は強い。
こんな時にこそ、その強さは発揮されるのだ。
そんなふうに思ったのはずっと後になってのことだが、僕が頼りなく泣くからこそ、姉さんはその時不意に強くなった、というか、強くならざるを得なかったのだと思う。

「ねえ。」
「何?」
「この日記ね、母さん、あたしたちがこうして読むって思っていたのかな?」
「へ?日記なんて、人に読まれたくないものだろ?
読まれていいなら目の前で書いてただろうし。
こうやって隠してたってことは、僕たちには読まれたくなかったんじゃないかな。」
「そうだよね。日記って普通、身近な人にこそ読まれたくない。
どうしてかというと、自分の本音を書くからだよね。」
それって、母さんもきっと、一緒だよね?」

姉さんが何を言いたいのか、その時の僕にはよくわからなかった。
責めるでもない、叱るでもない、淡々とした声なのに、力があった。
ああいうのを…ああ、そうだ。威厳と言うのだろう。

「ほら、ここにも。こっちにも。」
「何だよ?」
「母さんの日記には、あたしたちがいっぱい出てくる。」
「うん。それが?」
「どのページを読んでも、あたしたちが傷つくようなことが書いてない。」
「確かにね。」
「それだけじゃないよ。会社の人とか、近所の人とか、ひとつも嫌な言葉がないよね?」
「うん。」
「それって、すごいと思わない?」
「そうかな?」
「すごいよ。母さんの本音には愛があふれてる。」
「普通だよ。それが母さんだろ?」
「だよね。あたしたちはそれが普通だと思ってた。
でも、よく考えてみて。
何も考えず、思ったことを語って、その言葉のどれもが人を傷つけることなく、愛を伝える。
それってすごくない?
もっと身勝手なことを考えていたり、人の嫌な面が見えてイライラしたりするものじゃないかな?
本音を書く日記には、そういうのが溢れている方が自然っていうか、普通だと思う。 
こんなふうに、あったかい気持ちが本音だなんて、あたしにはできない。」
「……。」
「あたしたち、実はすごい人に育ててもらったんじゃないかな?」
「……うん。」

ようやく、姉さんが言いたいことがわかりかけてきた。
「あたしたちはもう、人生のお手本を見ていたんだよ。
だとしたら、あとは自分の人生でそこにたどり着けるように、やってみるしかないんじゃないかな?
母さんが生きていたらやりたかったこと、あたしたちが代わって引き継ごうよ。」

母さんが生きていたらやりたかったこと。
そう言われて、僕も気持ちが未来に向いた。
母さん、入学式に来たかったんだよな。
ん?
入学式??
「姉さん。」
「ん?」
「大学の入学式、終わっちまった!」
「え?そうなの?」
「そう。母さんの葬式の日が入学式だったんだ。忘れてた。」
「しかたないわよ。」
「僕もう、大学通えないのかな?」
「何言ってんの!?」

姉さんが勢いよく立ち上がった。
「あんた、明日、東京にもどりなさい。
あたしも一緒に行ったげる。」
「え?なんだよ、急に。」
「あたしが一緒に行って、大変なことがあったんですって大学の人に話すよ。
そしたら、入学させないなんて言わないよ。
こういうのは忌引きって言って、休みのうちに入らないんだ。
それに、大学はまだ、まともな授業は始まってないと思うよ。」
大学を嫌がって、試験すら受けなかった姉さんのくせに、大学の仕組みにけっこう詳しい。

「そうなの?」
「うん。今は、科目登録の期間だと思う。」
「登録?」
「何も知らないんだね。
大学は高校と違って、必修だけで時間割が埋まるなんてこと、ないんだよ。
自分で取りたい科目を選んで組み合わせるんだ。」
「そうなのか。」
「そういうガイダンスもあったはずだけど、しょーがない。」
「別に、明日でなくても…。」
「ダメ。あんたをそんなふうにぐずぐずさせておいたら、あたしが母さんに顔向けできない!」
「姉さん…。」
「さ、あたし、買い物行ってくる。ちょっと汗臭いけど…ま、いいや。
あんたはお風呂掃除して、先にさっぱりしておきなさいね。
晩ご飯はしっかり食べるわよ!」

こぶしを握って立ち上がった姉さんは、自分の机の上に母さんの写真と位牌を立てておいたところへ、花柄のかわいい日記帳をそっと置いた。
「母さん、今まで通り、応援しててね。」

僕は強くて優しい女性たちに囲まれて、本当に運のよい、幸せな少年だったのだ。








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