僕を乗せた列車が故郷を離れるにつれ、僕の心が落ち着いたかというととんでもない。
次に止まった駅ではそのまま降りてしまおうかと思ったし、どんどん離れていくと思いが極まった時には、できることなら窓を開けて、飛び降りてしまおうかとさえ思った。

でも、東京駅に着いて、大きな荷物を人にぶつけて謝り謝り顔を上げた一瞬、目が回るほどの人混みを見て、僕の郷愁は吹き飛んだ。
代わりに、足の裏から全身を隈なく熱い思いが駆け巡った。
僕は、これからここで生きていくんだ。
なにくそ、始める前からくじけてたまるか!

すでに何度か足を運んでいた部屋へは迷わずたどり着いた。
玄関に電気とガスがつながったと知らせるビニール入りの札が下がってた他には何一つない部屋でも、 僕は一国一城の主になったと思えば、ひどく満足だった。
気付けば、電話がない。
流行りの携帯電話は、持つ必要がなかったから持ってない。
母さんに連絡すると約束したけど、夜になってから公衆電話に行こうと決めて、早速買い物に行くことにした。

雨戸がないから、カーテンが必要だった。
それに、ハンガーやタオルや、入浴グッズ。
近くにコインランドリーを見つけてあったから、バイト代がたまるまでは洗濯機は見送り。
その代わり、茶碗や箸やコップ類は、あまり値札にこだわらず、気に入ったものを選んだ。
こんな買い物が、これほど楽しいとは思ってもみなかった。

両手いっぱいの荷物をいったん部屋に置いてから、大変なことに気付いた。
布団が、ない。
僕にとって安眠は、何にも代えがたいものなのだ。
慌てて駅前の商店街を歩きまわり、布団屋を探した。 
年中立てたままらしい『大安売り』の色あせたのぼりがあるその店は、でも、品ぞろえはけっこう豊かで、僕は迷いに迷って羊毛敷布団とマイヤー毛布と、人生初の羽根布団を買った。

後で無料で届けるからという言葉にありがたく甘えて、僕は満足感だけを手に店を出た。
いつの間にか、3月の空は真っ暗で、故郷に比べればずっと温かな風が吹いている。
僕は商店街を戻りながら、帰ったら米を炊こうと、惣菜だけをちょっと買って家に戻った。

ところが、だった。
家に入り、玄関の明かりをつける。
オレンジ色の薄暗い明かりが、小さな「靴脱ぎ場」を照らす。
次の一手で、全てがつながった部屋の明かりをつけたつもりが、部屋の中は暗いままだ。
「あれ?」
おもちゃみたいに小さな台所の明かりはつく。
白い30cmほどの蛍光灯が、ジジーツと音をたてて灯った。
もう一度、部屋の電気のスイッチと思われるところをパチパチ切り替える。
「あれ?なんでつかないんだろう。」
故障かと見上げたところで気が付いた。
「あっ!照明器具がついてないんじゃないか!」

僕は買ってきた惣菜を放り出して、再び商店街に飛び出した。
今日は生まれて初めての買い物がなんと多いことか。
まごまごしていると、布団屋さんが来てしまうと思いつつ、明かり選びは楽しくて、思いのほかに時間がかかった。
値段とデザインと明るさと。
僕が選んだのは、なんとリモコンスイッチがついた、天井にくっついているような形のものだ。
これならば、布団に入ってから本を読み、起き上がることなく明かりを消せるではないか。

大きな段ボールを抱えて帰り、なかば手探りでなんとか取り付ける。
電気屋さんが貸してくれた足台は、明日返しに行こう。
ぱっと白い明かりがつく。
「うぉぉっ。」
一人で歓声を上げる。
これは、明るい。
実家の古い蛍光灯とはけた違いの明るさだった。

段ボールを片づけているところへ布団屋がさっき買ったものを届けてくれた。
布団もシーツも、枕も毛布も掛け布団も新品だ。
タグがついているものは切り離し、部屋のど真ん中に敷いてみる。
リモコンを握り締めて、モゾモゾと布団に入ってみる。
どこもかしこも、新品の香りがする。
ピッピッピッ!
明かりも確かに消せる。
「こりゃいいなぁ。」

起きてご飯を炊くつもりだったのに、僕はそのまま寝入ってしまった。
目が覚めたのは翌朝十分に明るくなってからだった。
「うわ!」
飛び起きた僕は、自分の腹が減りすぎていることをすぐに思い出した。
母さんが持たせてくれた炊飯器を引き出し、鞄に詰め込んだ故郷の米も抱えて台所に立つ。
「あ、母さんに電話するの忘れたなぁ。」
まだ寒い季節で、夕べ買った惣菜が傷んだ様子はない。
「今日は鍋とフライパンと冷蔵庫、見てこようか。」
冷蔵庫は、昨日のうちにリサイクルショップで格安のものをみつけていた。
ついでに、テーブルとイスと、こたつもほしい。
もちろん、テレビも。

米が炊き上がるまでの香りが、なぜか懐かしい。
翌日も、僕は買い物に追われて、母さんに電話するのをすっかり忘れてしまった。
まあ、電話一本、ないからといって母さんが慌てるとは思えない。
電話がないのは元気な証拠と苦笑いしているだろう。

結局、固定電話を引くつもりが、考え抜いて、携帯電話ひとつにすることに決めて、購入したのは、僕が東京に来て5日目のことだった。
あさっては入学式。
明日には母さんがやってくる約束だ。
だから一生懸命、部屋を整えたのだ。

買ったばかりのケータイで、最初にかけた電話は実家だった。
なんだかドキドキする。
しばらく鳴らした後、ガチャッと音がして、はい、と重い声が聞こえた。
「あ、母さん?僕、僕。ケータイ買ったん…」
「あんた、何やってるの!」
いきなり怒鳴られた。
姉さんだった。
「何って…。」
「母さん、死んじゃったのよ!あんた、連絡先も分からなくて、どれだけ、どれだけ!」
電話の向こうで姉さんがわっと泣き出した。

今、なんて言った?
母さんが、どうしたって??








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