みんなで花見にでかけたのがついこの間のことのように思われるのに、あと何日かで梅雨という季節になっていた。
気付けば、小紫で働き始めてもう3か月になる。
なんだ、まだたったの3か月かと思う一方、もうずっと前から通い続けているような感覚もある。
自分は自分の居場所をちゃんとつかんだのだと実感する。

僕はこの、だんだんと空気が湿気を帯びていく季節が苦手だ。
これを「ベタベタ」ではなく「うるおう」と捉えれば、ここまで不快ではないだろうにと思ってはみるけれど、どうしても「ああ、今日もうるおっているなぁ」とは考えられない。
こめかみの少し上あたりが痛む。
なんとなく食欲も出なくなり、疲れやすくなるのだ。

雨の日は家にいて、窓から雨の筋を眺めていたい。
実は台風などは嫌いではないのだから、わがままだ。
荒れ狂う雨風を見ているのはドキドキワクワクする。
夏の夕立の頃、空一面の黒雲の中を稲妻が無暗に走り回る姿を見上げるのは大好きと言っていい。
だが、外に出て歩けと言われると、とたんにテンションが下がる。

濡れたズボンの裾、ぐっしょりした靴下、なかなか乾かない靴の中…。
それが毎日のように続くのだ。
ああ、梅雨は嫌だ。

そんなことを考えながらぼんやりしていたら、玄関のチャイムが鳴った。
お届け物ですという声がするので、ハンコを握ってドアを開けた。
立っていたのは宅配の制服ではなく、郵便局の人だった。
角が折れた一抱えの段ボール箱を受け取って部屋に戻りながら、差出人を確認する。

姉さんだ。

遠くグアテマラからやってきてくたびれた段ボールを開けたとたんに、コーヒーが強く香った。
手紙、読んでくれたのかな。
それとも、行き違った?
相変わらず筆不精の姉さんは、荷物にメモ書き一枚添えていない。
それでも、懐かしい宛名の文字を見て、僕はどこか温かな気持ちに満たされた。
姉さんは、僕に残された唯一の家族だから。

姉さんは、一言でいえば自由人だ。
ほとんど理解不能なほどの自由を謳歌している。
5歳年上という年齢差は大人と子どもの違いがあると思っていい。
中学や高校の時は、同級生からあれこれ卑猥なことを言われたものだ。
では僕自身はどうだったかというと、姉さんを女だと思ったことは、残念ながらほとんどない。

3人家族で暮らした2DKの狭い家を、湯上りの姉さんは平気ではだかでいる。
「おい、バスタオルくらい巻けよ!」
僕が目のやり場に困っていうと、
「だって、暑いんだも〜ん!」
微妙なお年頃の弟をからかうつもりは微塵もなくて、本気で暑いらしい。
「だからってさ、それはないだろうが。ちょっとは気を遣え!」
「なんであんたに気を使わなきゃならないの?」
もう!と言ってトイレに…ほかに場所がないから…逃げ込むのは、いつも僕の方だった。

一方で、頭のいいことといったら、驚くばかりだった。
大して努力している風ではなかったし、父親がいない家だから母を助けるためと、中学の時から新聞配達をしているような孝行娘で、勉学に集中していたかというと、どうもそうとは思えない。
それでも、成績は常によくて、のちに僕が必死の努力で入った進学校にポンと入学した。
その高校でもバイト三昧のくせに成績を伸ばし続けた。

このころになると、僕の記憶もハッキリする。
母と娘というのは微妙なものだなぁと感じるようになっていた。
あれほど仲の良かった姉さんと母さんが、何かと言い争うことが増えた。
姉さんが高3になってすぐ、僕は中2だった。
そうだ、あれは丁度今くらい、梅雨の少し前のことだ。

僕の目の前で諍いをするようなことは決してなかったが、夜になると…その頃は僕がひとりで奥の三畳間にいて、ふすまを隔てて居間のテーブルを片づけて、母さんと姉さんが布団を敷いていた…ボソボソと言い合う声が次第に大きくなり、時に激しい言葉を戦わせる。

それが、姉さんの進学についてだと分かったのは、ことが起きてからだった。
姉さんが高校にちゃんと通わなくなったのだ。
姉さんの担任が家庭訪問に来た時、僕はたまたま熱を出して学校を休み、ふすまの向こうで寝ていた。
「すみません、こんなところで。」
母さんの声の後、初めて聞くオジサンの声がこう言った。
「今、どこで何をしているのでしょう。
もう1か月も登校していません。
あれほど優秀な生徒の身に何があったのかと思うと…あの面談の時のことがきっかけではと思うと、気が気ではなくて。」

母さんの声が答えた。
「家には帰ってきています。
でも、学校のことを言うとすぐにケンカになるものですから。」
「きっかけは、やはり進学のことですか?」
「そうだろうと思います。けど、よくわかりません。
なぜ大学に行って好きな勉強をしていいという話が学校に行かないことにつながるのか、さっぱり…。」
高熱でぼんやりした僕の頭にも、今我が家に起きていることの大変さがしみ込んできた。

しばらく母さんと話し込んだあと、
「類まれな才能です。
彼女がこうなりたいと願えば、その願いは確実に形になるでしょう。
どうか、自分を大事にするように伝えてください。」
姉さんの担任は、そんなようなことを言ってから帰って行った。
姉さん、高校行ってないんだ…。
僕は自分のことでもないのに、ひどく動揺した。

その日、母さんは遅れて仕事に行き、入れ違うように姉さんが帰ってきた。
「どう?熱、下がった?」
家に入るなり、ふすまを開けて姉さんは僕の枕もとに座った。
「わからないけど、大丈夫だよ。いつものことだから。」
「プリン買ってきたよ。食べる?」
「うん。食べようかな。」
「昼は?」
「あんまり食欲なかったから、後にするって言って、まだ食べてない。」
だからダメなのよとひとしきり叱られた。
姉さんが買ってきてくれたプリンはどこにでも売っているものだけど、特大サイズで、トロトロに甘くて、うまかった。

「じゃ、もう少し眠ったらいいわ。晩ご飯は食べるのよ。約束。」
「うん。」
姉さんは静かにふすまを閉めた。
僕の部屋は、薄暗くなった。

「ねえ。」
「ん?何?」
「姉さん、高校行ってないの?」
僕はふすまを隔てたまま、姉さんに尋ねた。
「なんで?」
「さっき、先生が来たから。」
「そっか。」
「行ってないの?」
「うん。行かないことにした。」
「どうして?いじめられたの?」

ふふふ、と笑って、姉さんは否定した。
「そんなんじゃないよ。」
「じゃ、どうして?」
「…期待が重たいから…かな。」
「え?どういう意味?」

しばらく答えがなかったので、僕はそれ以上聞くのをあきらめた。
と、姉さんの深いため息が聞こえて、続けてぼそぼそと声がした。
「母さん、頑張ってるじゃない?
ひとりであたしたち二人を育ててさ。
楽じゃないのは分かってる。
だから、あたしも助けてきたつもり。
でも、それって、自分でそうしたいから、してきたんだよね。

勉強も学校も好きだよ。
知らないことがわかったり、できないことができたりするのは面白いと思う。
だけど、どこで何を勉強するのかとか、将来何をするかとか、そういうことは自分で決めたいの。」
「勝手に決められたの?」
「うーん、なんていうか…。」
姉さんは中学生の僕に分かるように、言葉を選んでいるようだった。

「東大に行けるから頑張れとは言われた。」
「すごい!」
「それがね、困っちゃう。」
「なんでさ?」
「あたしがね、東大行ってこういうことを学びたいって思うならいいのよ。
でも、あたし、進学することに全然興味がないのね。
東大行くと言ったら、今度はどうなる?
医者になれ、弁護士になれって期待されてさ…。」
「でも、まだ受けると決めたわけでも、受かったわけでもないのに。」
「そうなんだよね。
期待されちゃうとさ、応えなきゃって思うのよ。
で、その期待を裏切ったらどうしようって怖くなる。
やりたくもないけど、母さんが喜ぶならやろうかなとかね。
うちの娘は東大生なんですよぉって、嬉しそうに自慢している母さんを思い浮かべて、これで親孝行できたなぁなんて思ったりしてる自分を想像して、これだけ世話をかけてるわけだから、そうすべきだなぁと思ったりさ。
けどさぁ、しんどい。
逆にがっかりさせるところを想像すると、すごく怖い。」
「姉さん…。」
「それにさ、あたし、別に偉くなりたいとも思わないし、やりがいのある職業が欲しいとも思ってないんだよね。」
「変なの!」
「だってさ、幸せな人生に、そういうのって必ずいるわけじゃないと思うんだ。
大切な家族がいて、みんなで毎日笑ってて、時々けんかして、でも絶対仲直りできてさ。
それだけで幸せじゃない?」
「うん、それは、そうだね。」
「東大出て、そういう毎日を重視する文化っていうか、そういう気持ちを失わずにいられるのかなぁって。」
「行ってみないとわからないだろ?」
「ふん。生意気。」
「ごめん。」
「とにかく、好きなようにさせてもらうことにしたから。」

姉さんはそういうと、流しの水をジャッと出して、キュッと止めると、喉を鳴らして水を飲んだ。
僕はそのまま眠りに落ちたのだった。
今になってあの時のことを思い出すと、僕がもう少し大人で、姉さんに、いいから大学行けよと言ってやれればよかったのにと悔やむのだ。







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