さよりさんが小紫をまた訪れたのは、それから3日後のことだった。
僕が余計な口をはさんで二人を破局に導いた翌日、別人のようにシュンとしてやってきた彼とは違って、さよりさんはやたらと明るく登場した。

「ママ!コーヒーちょうだい!今日もよく働いたぁ!!」
「はいはい。」
今日も仕事帰りなのだろう。
小紫も店じまいにしようかという深夜で、外はもうタクシーもめったに通らない。

「ついでに、ちょっとお腹空いちゃってるの。何かある?」
「あるけど、こんな時間だから、重たいものはいやでしょう?
待っててね、野菜スープでもこしらえるから。」
「んー。ありがと。これだからここを離れられないのよねぇ。」
さよりさんは満足そうにうなずいている。

コーヒーカップをカウンターに置いて、奥のキッチンへゆかりさんが行ってしまうと、店にはさよりさんと僕だけになった。
さよりさんは、平気な顔をしている。
でも、僕のほうは、はっきり言って気まずい。
今夜、僕はもう用なしだろうし、ちょっと挨拶をして帰ろうと思った。

ゆかりさんに言われて、僕は一生懸命考えた。
職業に貴賤はないというけれど、人にも貴賤はないかもしれないけれど、人の行いには、やっぱりいいこととよくないことがあるのではないか。
そうして、何をいいと思い、何をよくないと思うかが、僕という人間を作るのではないか。
うまく言葉にならないのだけど、そんなような感じの結論にたどりついた。

そして僕は、さよりさんが彼にしたことが、やっぱりいいことには思えなかった。
「あの、僕、今夜はこれで…。」
「あのさ。」
僕の言葉を無視して、さよりさんは話しかけてきた。
酔いに目の縁を赤くしているけれど、瞳がまっすぐに僕を見ていた。
僕は、その場に画鋲でとめられたように動けなくなった。

「なんでしょう。」
「こないだ、悪かったわね。」
まさか、そんなふうに言われるとは想像だにしていなかったので、僕はたじろいでしまった。
「いえ、僕のほうこそ、勝手なことをしてしまいました。すみませんでした。」
「彼とは別れたから。」
「…。」

僕は言いかけた言葉を飲んだ。
さよりさんは、彼が翌日ここへ来たことを知っているのだろうか。
仮に知っていたとしても、彼がここで語ったことを、この場で口走るわけにはいかない。
けれども、僕のどこか深いところで、彼がどれほど真剣だったか、せめて彼の代わりに分からせてやりたい、責めつけて、悪かったと言わせてやりたいという気持ちが沸々とたぎっている。

「穂高くんだっけ?」
年下のくせして、「くん」だと?
僕はカチンときたが、酔っぱらいの言うことにいちいち目くじらを立てていてはいけない。
「この世界、まだ浅いんでしょ?あたしは18の時からだから、もうね、けっこうなもんなの。」
5年か、6年か…そうなのか。
さよりさんはそのまま、問わず語りに話し続けた。

「毎日いろんな人が来てさぁ。
なんていうの?人間の本性っていうか、欲とかエゴとか見栄とか、そういうものを見続けてきてさ…。
でも、あたしも、生きていかなきゃならないじゃない?」
生存競争のためには、何をしてもいいことにはならないだろうに!
僕はやっぱり、この人がしたことを許せないらしい。

「お店にはね、ノルマがあるのよ。
月々のノルマを達成できないと、とんでもないことさせられるの。
それはどうしても嫌だから、ちゃんと頑張るしかないじゃない。
そうやってさぁ、毎日頑張ってたら、ある時気付いた。
あたし、もう、まともな人生歩けないんだなぁって。」

どういうことだろう。
「とんでもないこと」がどういうことかは、なんとなく想像できる。
いや、世間知らずの自分のことだ、本当はもっと何かすごいことかもしれないが。
けれども、まともな人生を歩けないってどういうことだ?
さよりさんは、カウンターに片肘をついて、指先で髪を撫でながら、もう片方の手で時折カップを持ち上げる。

「だって、仮によ。
好きな男ができたとするじゃない?
なんとかかわいい女を演じて、うまく結婚にこぎつけるとするでしょ?
でも、結婚式にやってくるあたしの友達はみんなキャバ嬢なわけ!
そりゃ、そういう場に顔を出さないのは暗黙の掟だからさ、現実にはそうはならないよ。
けど、昔の友達呼んだってみんな知ってるもん、あたしのこと。
そうしたら、会場でヒソヒソ言われるわけよ、知ってる?純白のウエディングドレスなんか着てるけど、あの人の中身は男の垢にまみれて真っ黒よーとかってさ!

それでもいいとかいう男がいたとしても、いつまで信用してくれると思う?
恋なんてね、いつかは冷めるものなのよ。
そしたら、長い現実が待ってる。
あたしの過去は過去、消えないんだからね。
そしたらさ、旦那はあたしがちょっと出かけただけで、以前の客と会ってやしないかって疑うんじゃないかしら?
子供ができて、参観日に、並んだママ友の間からも、あの人キャバ嬢だったのよーって声がしたりしてさ。
子供、肩身狭いわー。やってらんない。」

「そんなこと、わからないじゃないですか。」
彼女の言うことがあまりにネガティブだったから、僕は心にもなくフォローする言葉を吐いてしまった。
「わかるのよ。」
「どうして?試してみたとでも?」
「試して?違うわ。」
「じゃ、やっぱり思い過ごしってこともあるでしょう。」
「試す間もなく経験したからね。」
「え?」
「母さんがね、そういう仕事だったから。娘としてね…。」

なんということか!
彼女の告白の重みと同じ勢いで、僕は自分の薄さに打たれた。
「父さんが交通事故で死んだあと、母さん、どうしようもなかったんだね。
生まれたてのあたしを預けて、夜働くしかなかったんだろうねぇ。
物心ついたころには、入れ替わり立ち代わり、違う男が家にいたんだ。
けっこう長く続いた人もいたけど、結局揉めて、いなくなる。
その繰り返しだったんだぁ。」

後は言われなくても分かる気がした。
そんな母親のうわさが、幼い彼女を傷つけるような出来事が、繰り返し起きたのだろう。
まるで夕べのドラマのあらすじを語るような口調で軽々と話すけど、そんな生易しい経験ではなかったろうということくらいは、僕にでも理解できた。

「中にはさ、けっこう真面目で、いい人もいてさ。
ああ、あたしにも、やっとお父さんができるのかなぁって思ったこともあったんだよ。
けど、そういう人に限って、母さんから別れちゃうんだ。
意味わからなくてさ、あたし、反発して、家飛び出して、でも、結局母さんと同じことしてるんだから、笑えるよね。」

いや、笑えない。

「今なら、あんときの母さんの気持ち、よく分かるよ。
相手が真面目でいい人だと、申し訳なくなっちゃうんだよね。
目が覚めれば、もっと純でかわいい、あなただけって女がすぐに見つかるだろうからさ、こんなすれっからしに捕まっちまうのはもったいないって、好きだからこそ、身を引きたくなるんだね。」

僕は今、何かとんでもないことを聞いた気がする。

「はい、お待たせしました。」
丁度その時、奥からゆかりさんが、お椀のような形をした陶器をトレイに乗せて持ってきた。
「うわ、おいしそ。何これ?」
「缶詰だけどね、クラムチャウダーにしてみたわ。」
さよりさんはトレイが置かれるなり、スプーンを手にした。
「いい香りぃ!あれ?この丸いのは何?」
「ニョッキよ。」
「ニョッキ?」
「ジャガイモ団子と思えばいいわ。小腹の足しになるから、ゆっくり召し上がれ。」
「いっただっきまーす!」

さっきまでの深刻な会話がまるでなかったように、給食前の小学生みたいな挨拶をして、彼女はスープを味わい始めた。
「美味しいわぁ。こんな料理上手な女性を妻にしたら、男はそれだけで幸せね!」
さよりさんは、自分の言葉をかみしめるように手を止め、ポロリとつぶやいた。
「ほんとは、仕事抜きで、ちょっと好きだったな、彼のこと。」

僕の頭に、初めてさよりさんと会った夜の様子がブワッと蘇った。
彼女は、明らかに何かを悩んでいた。
ゆかりさんが言ったのではなかったか、あなたがそんな顔をする時は決まって、男のことよね、と。

「あの…。」
「ああ、忘れてた!」
彼女はスプーンを置くと、バッグの中をごそごそして、細長い箱を取り出した。
「はい、これ、穂高くんにあげる。」
「僕に?何ですか?」
「あたしね、男と別れると、そいつからもらったものぜ〜んぶ売っちゃうの。
だから、今、けっこうお金持ちなんだぁ。」
「受け取れませんよ、そんな…。」
「あ、いま、そんなものって言おうとしたでしょ!?」

さよりさんはまたスプーンを持ち、心底おいしそうな顔をしながらニョッキを食べている。
「いいから、開けてみて。」
断り方が分からず、僕はしかたなしに包装紙を解いて、箱を開けた。
中には、いつか銀座のデパートで見かけて気に入ったけど、高くて買えなかった腕時計が入っていた。
どうして知っているのだろう?僕がこれにあこがれていたことを!

「うわ、これ!」
「ま、あなたの薄給じゃ手が出ないでしょうけど、あたしにはおもちゃみたいなもんだから、飴玉もらったくらいの気持ちで受け取って。
お礼だからさ、あの時の。」
「お礼?」
「ありがと。あたしのこと、普通の女の子みたいに扱ってくれて。」

横目でゆかりさんを盗み見ると、小さく頷いている。
「あ、ありがとうございます。」
「んふふ。やった、これで共犯者よ〜。」

片頬で微笑みながらニョッキを口に運んださよりさんの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。







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