人は、結局ほかの人にはなれないって?
彼を怒らせてしまった僕は、心底反省していた。
懸命に謝った僕に、彼は話がしたいと言う。
どういうことだ?
ネチネチと嫌味を言う雰囲気ではないのだが、彼の真意が分からない。
彼の言葉の意味も分からず、 かといって問うこともできず、だまって彼の俯いた横顔を見るしかできない。


「俺は、フツーのサラリーマンなんだよな。
会社の商品抱えて、お得意様を回って、頭下げて、給料もらって、仲間と居酒屋に行って騒ぐのがちょっと幸せで、それだけのつまらない男だよ。
それが たまたま連れていかれた店で彼女に会って、一目惚れしちまった。
そもそもそれが間違いだったんだ。
彼女、ほんとは「さより」って名前なんだな。」

自嘲をこめて吐き捨てるように言う言葉を否定するのは簡単なはずだ。
でも、今は黙って聞く時。
なんだか、そんな気がして黙っていた。
彼の心の奥底から湧き出てくる自嘲は、僕をひどく悲しい気持ちにさせた。

「俺にはミオと名乗ってた。
っていうか、店に出るときの名前だな。
まったく、あきれちまう。
俺、これだけ惚れ込んでたのに、彼女の本名すら知らなかったんだ。」

さよりさんを見ていて、何か知らない世界の人のような気がしたのは、彼女が店で男を接待するような仕事をしている女性だったからなのだろうと、僕はようやく思い当たった。
自分が夜の酒の世界で働いていてそんな言い方をするのはおかしなものだが、ここには女性はゆかりさんしかいない。
ゆかりさんは、若さや色気を商売道具にはしていない。
そう言ったら、ゆかりさんは嫌な顔をするのだろうか。

「ミオは魅力的な子だったよ。
明るくて、屈託なくて、ちょっととぼけたところがあって、少しも気取ってない。
女の子がいる店になんかめったに行かない俺が緊張していても、バカにしたりもしなかったな。
一緒に話しているだけで無性に楽しくなって、最高の気分さ。

支払いの金額を聞いても、高いと思わなかった。
また来るよって約束したのを守りたくて、次の週にはまた出かけてたんだ。
ところが、その時の彼女は、元気がない。
この前はあんなに明るかったのにどうしたかと心配になるだろ?
でも、絶対に理由は言わないんだ。
俺は彼女に元気を出してほしくて、あれこれしゃべって。
そのうち、彼女がだんだん笑い出してね、こう言うんだよ。
『今夜のお客様があなたでよかったわ。他の方ならどうなっていたか…』
その時ね、俺は特別な客になれたんだと思ってね。
それからはもう、通いづめに通ったんだよ。

でも、安い店じゃない。
貯金もだんだん減ってくるし、客として通うだけではもう嫌でね。
店にいるときの彼女を観察していると、ド派手なスーツで男が見ても顔のいいヤツが何人も常連客になっているんだよ。
バッグだの指輪だの、プレゼントをしているのも見た。
それで、俺も負けてはいられないと、なけなしの貯金をはたいてホストみたいなスーツ買ってさ、プレゼントも贈ったよ。
彼女、ものすごく喜んでくれるんだ。
その様子を見ていたら、貯金が減ったことなんか気にもならない。
だけど、返されたものもある。
今になって気付いたんだけど、現金で買ったものは受け取ってもらえたけど、ローンを組んで買ったものは受け取ってもらえなかったんだなぁ。
自分の普段着とかほかの飲みに使う金とか、そういうのは節約したけど、結局食うための金に困るようなことにはならなかった。
それって、彼女の気遣いだったんだと、今ならわかるよ。
彼女は、自分のために俺が借金を背負うようなことにはならないように、気遣ってくれていたんだなぁ。」

人のお惚気は聞いてやらねばならない。
特にこの店は、そうしてこの場面では、ただただ聞くしかない。
つまり、さよりさんは、敏腕のホステスなのだ。
たった一言で客を夢中にさせ、常連を潰さないように上手に搾り取り…
でも、そんなことは決して言えない。

「俺は彼女に交際を申し込んだ。
結婚してくれとも言った。
でも、なんだかんだとはぐらかされるばかりでね。
俺だって分かってたよ。
彼女にそんなつもりはないってことくらいさ。
けれど、諦めきれなくて、どうしても、彼女じゃなきゃダメだと…。

半年だ。
半年粘った。
映画だの食事だのに誘えば、店の外でも会ってくれるようになってたんだ。
どんなに暗い顔で現れたときでも、俺と話していると笑顔になってくれた。
あと一押しだと思ったんだ。
だけど、こんな女じゃあなたに悪いの一点張りで、どうにもならない。
いっそ無理矢理…とも思ったけど、スキだらけに見えるのに、つけ入れないんだ。
だから、夕べとうとう、懇願したわけだ。
俺に一生をくれなんて言わない。一晩だけでいいから…ただ一晩でいいから、俺のものになってくれって!」

まさか、そんなことだったとは!!!
夕べ、僕が浮気者の遊び人と見た男は、真面目すぎるほど真面目で、純朴と言っていいほど素直な心を持ったジェントルマンだったのだ。

「ミオには夕べあの後、きっぱりフラれたよ。
あなたにあんなことを言わせたのは私のせい、もう私に関わってはダメってね。
店にも来ないでってキッパリしたもんだった。
俺を傷つけるような言葉はひとつも使わずに、きれいさっぱり切られたよ。
見事なもんだ。

最初からミオにとって俺は、大勢いる客のひとりにすぎなくて、ホステスとして当然の仕事をしていただけなんだよな。
ミオから見たら、カッコつけて粋がった服着たり、無理してプレゼントしたりしている俺なんか、どれほどお笑い草だったことか!
王子様の服を着た召し使いみたいなもんだ。
けど、仕事だから、笑い者になんかせず、付き合ってくれていたんだろ。
それを、勝手な思い込みで守ってやりたいだの、俺だけに特別な好意があるんじゃないかだの、勘違いした俺が悪いんだ。
あんたのことをとやかく言える立場じゃないんだよ。」

深い深いため息をついて話を終えた彼に、ゆかりさんがそっと言った。
「お客様、『トキグスリ』というものがございますよ。」
「トキグスリ?」
彼はそれまでずっとうつむいていた顔を上げて、ゆかりさんを見た。
「時間の時に薬と書いて時薬です。
今はお心が痛むでしょうけれど、時間が薬になってくれます。」
「ああ、なるほど。そうだと、いいんだけどね。」
彼は寂しく笑った。

「ああ、すっかり吐き出したら恥ずかしくなってきたよ。
ママさん、今夜はこんな話をしに来たのではなくて、夕べのお勘定を払いに来たんです。」
「まぁ、なんてこと!」
ゆかりさんは心底驚いたように目を丸くしている。
「今夜の分と合わせて、言ってください。いくらですか?」
「とんでも…いえ、お客様、夕べのご注文がなんだったか、伝票を捨ててしまってもうわかりませんし、今夜の分は、私からのお近づきの印ということで。」
「それでは、あなた方に迷惑をかけてしまう。」
「でしたら、こちらの不躾な男の給料から天引きしておきますから、どうかご心配なく。」
「はい、もう、そうしてください!」

僕のせいで彼の夢は途絶えたのだから、それくらい当然だ。
「でも、その代わり…。」
「その代わり?」
「その代わり、きっとまたいらしてください。」
「ここは彼女の行きつけなんだろ?顔を合わせるのはちょっと…。」
「でしたら!」
僕は、急いで名刺を取り出し、彼に押し付けるように渡した。
「お電話ください。そうしたら、さよりさんが来ていないのを確かめてからお越しいただけますから!」
彼は来るとも来ないとも言わずに、店を出ていった。

カラリンコロン。
カウベルが鳴り終わって気付く。
彼が話している間、とうとう誰も客が来なかった。
「今夜はもう閉めましょうか。」
ゆかりさんに言われて、店の外に出た。
夜気はやっぱりちょっと冷たいが、上気した首筋には心地よかった。
営業中の札を裏返そうとして、すでに「閉店」になっていることに気付き、手が止まった。
「…あっ、元さんたちか!」






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