その人が誰なのか、一目では分からなかった。
昨日とはあまりにも雰囲気が違っていたからだ。
昨夜は派手で上等なスーツを着ていたのだが、目の前の彼は、くたびれた鼠色のビジネススーツで、筋肉質の胸元をこれ見よがしに開けていたのが嘘のように、地味で特徴のないよれた紺色のネクタイを下げている。
履き古した革靴のつま先には無数の傷がついていて、黒い下から革本来の茶色が見て取れるほどだ。
それでも忘れるはずのない顔であったから、僕はすぐに飛んでいき、最敬礼で迎えた。
「夕べは申し訳ありませんでした!」
もしかしたら怒鳴られるか、殴られるか、蹴られるか…
僕は頭を下げたまま身を固めていた。
今、一番会いたくない人だった。
しかし、彼は一言も発することなく僕の脇を通ると、黙ってカウンターのスツールに腰かけた。
僕は頭を上げて、体ごと振り向いた。
僕が初めてこの店に入った時に座らせてもらったあの場所だ。
ゆかりさんが静かに話しかける。
彼はつぶやくように何か答えたが、また口を噤んでしまった。
僕はどうしたらいいか分からず、その場でまごまごするしかない。
何かあったのだろうと雰囲気を察した常連さんたちが僕を呼ぶ。
僕は溺れる者がワラにすがりつくような心地で、常連さんの席に近づいた。
「はい。」
「何かやらかしたのか?」
「いえ…あの…はい。」
「ありゃ、相当こじれてるね。」
「人目があるから堪えてやったって感じに見えた。」
「あの…やっぱりそうでしょうか…。」
「穂高くんはどこかヌケてるからなぁ。」
「そ、そうでしょうか?」
「ま、客に絞られるのも給料のうちと思って、逃げるんじゃないぞ。」
元さんが社長の威厳をこめて言う。
「そうそう。成功してほめられるだけが成長の糧ではありませんからね。
失敗から学ぶことの方が身につくものです。」
宮田先生は注射をいやがる子供をなだめるような声で諭す。
「明日、慰めに来てやっから。ま、がんばれや。」
八百屋の長さんが腰を上げると、全員が席を立ってしまう。
「ま、待ってくださいよぉ。」
「情けない声だねぇ。」
元さんが笑いながら「じゃ、ママ、今夜はお開きだ。」
と高らかに宣言し、どやどやと帰ってしまったではないか。
カラリンコロン。
ドアが閉まり、カウベルが鳴り終わると、店内に静寂が訪れた。
彼は黙ってグラスを傾けている。
水割り、だろうか。
昨夜のように銘柄を指定したりはしなかったらしい。
今日の様子を見れば、彼は30歳くらいに見え、ということは、僕とそれほど大きく歳は違わないのだろう。
しかし、この風貌の違いはなんだろうか。
ツヤのあるジェルで作ったイカした髪型も今夜は影をひそめて、少しかさついた、無造作で真面目そうな髪がのっそりと頭に乗っているだけだ。
「あの、改めてお詫びします。
夕べは差し出たことをしてしまい、大変失礼をいたしました。
申し訳ありませんでした。
さぞかし怒っておられますよね…。」
僕は彼の斜め後ろに立ち、改めて頭を下げた。
下げた頭の上から、彼の言葉が冷たく重く降ってきた。
「どうして、謝るんですか。」
「どうしてって…。お客様を怒らせてしまいましたし…。」
「客が怒ったら、自分が正しいと思っていても謝るんですか。」
言葉は質問の形をしているが、口調は独り言のように聞こえる。
これに答えてよいものかどうか、掟破りの反省を重ねたばかりの身には図りかね、ゆかりさんを覗き見た。
すると、ゆかりさんは話してあげなさいと目で言っている。
ならば、思うことを正直に伝えてみよう。
願わくば、伝えたいと思うことがそのままの意図で伝わりますように!
「あの時、僕は、お客様がさよりさんを浮気相手にしようとしているのだと決めつけていました。
それも、お話を盗み聞きして、一晩限りの遊び相手にしようと目論んでいるのだと思い込んだんです。
さよりさんは、この店の大切なお客様です。
だから、幸せでいてほしいです。
それが、一夜限りと平然と割り切った遊び相手にされるなんて、とんでもないと思ったんです。」
自分の声が、最後のほうは消え入るようになっていることを自覚できた。
でも、彼は返事ひとつせず、黙っている。
僕は勇気を奮って先を続けることにした。
「でも、それは僕の間違いでした。
よく考えれば、お客様が浮気なのか本気なのかを僕は知りません。
さよりさんがあなたをどう思っているかも知りません。
そもそも、お二人がどういうご関係なのかも、全く知らないのです。
なのに僕は自分の狭い料簡で、あなたのことを悪い男だと決めつけました。
それだけでも、僕はあなたにお詫びをせねばなりません。」
彼は黙ったまま、手にしたグラスの大きな氷をカランと揺らした。
グラスについた水滴で、指先が濡れているのが見える。
「それだけではありません。
そもそも、お二人の間のことは、お二人の問題で、僕のような部外者が口を出すことではなかったんです。
だって、仮に、あなたが本当に悪い人で、さよりさんを食い物にしようとしていたのだとしても…
いえ、仮に、例えばの話ですよ。
仮にそうだったとしても、さよりさんは一言も、僕に助けを求めたわけではないんです。
それは、自分の力でどうにかできるということですよね?
僕は勝手に助けに入った気になっていたけれど、それって見方を変えたら、さよりさんには自分の身を守る力もない愚かで無力な人だと言っているのと同じだと気付いたんです。
だから、ぼくはさよりさんにもお詫びをしなくてはなりません。
ものすごく、失礼なことをしてしまいました。
それに、幸せの形は人それぞれです。
誰かの一夜の相手になることが幸せだと言うのなら、それに他人がどうこう言えるものではありません。
それを勝手に不幸と決めつけたのは、僕の間違いだったと気付きました。
だいたい、言葉というのは文脈があって、その中で意味を持つものです。
文学をやってきて、そんなことは重々分かっていたはずなのに、あなたの言葉ひとつを切り取って勝手な解釈をしてしまった、それだけで十分失敗です。
とにかく、そういうわけです。
何もかも、ごめんなさい!」
最後は、叱られた子供のような謝り方になってしまった。
頼む、何か言ってくれ!
僕の思いが届いたのかどうか分からないが、少しの間があった後、彼が小さく笑った気がした。
驚いて頭を上げると、彼がこちらを見ていた。
「こっちへ、座りませんか。」
「へ?」
「俺の話も聞いてもらいたいから。」
ゆかりさんを盗み見る。
小さく頷いている。
「で、では…。」
「ママさん、この人にも同じものを。俺にも、もう一杯。」
ゆかりさんがグラスをふたつカウンターに置き、少し立ち位置をずらして暗がりに下がると、彼は俯いたままボソリと言った。
「人は、自分以外の者にはなれないもんだね…。」

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コメント
コメント一覧 (2)
こんな展開になるとは思いませんでした。
だいぶ、しおれた様子ですね。
というより、こちらが本当の彼なのかもしれません。
ところで、出張お疲れさまでした。
蒸しショウガをお気に召していただけたようで何よりです。
私は始めてから3カ月ですが、体温には反映されていないかも。
ひとまず、活動の原動力になればいいかな〜くらいに考えています。
人はみかけによらぬもの。
「人は見た目が9割」という本を読んだこともありましたけどね〜。
ますますしおたれた展開になりますので、お楽しみに!
蒸しショウガを教えてくださって、本当にありがとうございます。
三日坊主の私がコツコツと続けているのは、変化を感じることができているからだと思います。
実は、砂希さんオススメの足もみも始めました。
こちらはなんだかめんどくさくなって中断していたのを再開した形です。
この年齢になると、変化が起きるには5か月はかかるそうです。
紅葉の頃をぬくぬくと迎えられることを目指します。