故郷から東京へ出てきて以来、仕送りなどしてもらったこともないので、あちらこちらでバイトをしてきた。
が、就職活動を始めたときに全て辞めてみたのだ。
が、就職活動を始めたときに全て辞めてみたのだ。
生活のことを思ったら、割の良いものだけでも残しておくのが安全だったのだが、半年くらいなら贅沢しなければ食べられるくらいの貯金はしたし、就職活動に専念したかった。
いや、正直に言おう。
バイトで疲れ切った、汗臭い体で面接に行って、金に縁がない人間だと思われるのが嫌だったのだ。
それに、いざとなれば引っ越しの日雇いでもすれば、その日の暮らしくらいはなんとかなることを、その頃の僕はすでに熟知していたのだ。
バイトのない生活の初めは、時間さえあれば眠って過ごした。
いったいどこまで眠れるのだろうと、空恐ろしくなるほどに眠った。
それでもまだ眠れた。
目覚めて、食べて、風呂に入り、テレビをつけるとたちまち眠くなる。
外に出るのは、面接と買い物だけ。
そんな毎日を1か月ほど過ごしたところで、ふと、もう眠らなくてもいいと気付いた。
僕はそれほど、生活することに疲れていたのだろう。
けれども僕は、一生を眠り続けるにはまだ早いくらい、十分に若いのだ。 そうやって目覚めたというのに、就職活動はことごとく失敗し、僕はバーテンダーになった。
いや、もちろん、当分見習いだが、自由で未経験の世界に思いがけず飛び込んだのだ。
バイトは山ほどしたが、接客業は避け続けた。
僕の関心は本をこよなく愛することに偏っていて、その愛を人間に振り分けるのは難しかった。
だって、人間は動くし変わるし、いなくなるし、分からないことだらけではないか!
僕は、金と本があればいい。
ほんとうに、それで十分幸せなのだ。
そう信じていたのだが…
「お客さん、これはもう、ダメですよ。」
午後4時。
開店の支度を終えて休憩時間になったので、クリーニングに出したワイシャツを受け取りに行った。
このところ毎日のことで顔なじみになった店主が、禿げ上がった額に汗のつぶをつけたまま、申し訳なさそうにそう言った。
真冬だし、店内はそれほど暖房が効いているわけでもない。
それなのに、どうしてこんなに汗をかいているのだろう?と思いつつ、差し出されたワイシャツを見ると、襟と肩がつながるところが切り裂けていた。
「えっ?僕、ひっかけましたかね?」
「いえ。これは、こう言っちゃなんだけど質が悪すぎるからね。寿命ですよ。
クリーニングというのはしっかり洗うし、アイロンも強く当てるからね。
それなりの強さがないと、耐えられないものなんですよ。」
「そこを何とかするのがプロなんじゃないですか?」
僕はなんだかイライラしてきて、口調がきつくなってしまった。
でも、店主は穏やかなまま答えた。
「もちろんですよ。でもねぇお客さん、豆腐でうどんを作っておいて、腰のあるうどんを食べさせろと言われても、土台無理だと思いませんか?」
「豆腐でうどん??」
「いや、うどんはいいんです。つまりですね、お客さん、このワイシャツ、100円均一かなんかで買ったでしょう。中でもこれは折り紙付きの粗悪品ですよ。」
図星だった。確かに、100円ショップで買ったものだ。
「うちのクリーニング代は270円です。100円のものに毎日270円かけても、まぁ、いいですけど、早晩へこたれてしまいますな。
毎日270円かけて維持するなら、それにふさわしいものを最初から選んでおくことも大事ですよ。
讃岐うどん預けてもらったら、どこのうどん屋でも、腰のあるうどんを出すでしょ?」
破れたワイシャツを抱いて帰る気にはならず、処分をお願いしてクリーニング屋を出た。
そのまま小紫の前まで来てしまったが、ふと、家に帰ってもう一枚のほうを持ってこようという考えを変えてみる気になった。
店に入ると、ゆかりさんが振り向いた。
「おかえりなさい。」
「あの…これからちょっと出かけてきます。」
「そう。いってらっしゃい。」
「開店に遅れるかもしれないけど、戻りますんで。」
「そう。」
僕は奥に入って、ロッカーにかけてあったベストをたたんで手近な紙袋に入れると、そのまま抱えて店を出た。
駅に向かいながら、 どこで買おうかと考える。
家にあるもう一枚のワイシャツは、駅前のキオンで買ったものだ。
僕はキオンさえあれば、一生生きていけると思っている。
食品、生活雑貨、衣類に薬に靴。なんでも1店舗でそろう。
僕がキオンで済ませられないのは本だけだ。
『お客様からいただいたお金を投資することも覚えてほしいわ。
豊かな人はみなそうしているからね。』
ゆかりさんにこの前言われたことが蘇ってきた。
僕は、自分に投資するために電車に乗り込んで、都心へと向かった。
百貨店が立ち並ぶこの街は通り過ぎるもので、自分が買い物をする場所だなどと考えたこともなかった。
あの人たちには普段着なのだろうが、きらきらと着飾ったようにしか見えない人々の間に入ると、自分が虫けらのように思えてきて、身がすくむ。
投資って、勇気がいることだな…。
大都会の真ん中で、数えきれないほどの人々とともに歩きながら、僕はとても孤独だった。
「このベストに合わせる白いワイシャツですね。」
女性店員では落ち着いて話せないので、僕は初老の部類に入る男性店員がいる売り場を見つけて、ベストを差し出した。
「バーテンダーさんでしょうか?」
「そうです。でも、まだ2週間です。」
「なるほど。これは、とてもよいお品です。オーダーメイドだ。」
「オーダーメイド?」
「ええ。生地も縫製も最高級品です。体の線に沿っていて、着ている気がしないのではありませんか?さぞかし値が張ったことでしょうね。」
そういわれてみれば、派手な色の糸で織られた生地が気になったのは最初だけで、着苦しいと思ったことは一度もなかった。
「これでしたら…このあたりのお品がよいですね。
サイズは…おや、お客様は既成のサイズでぴったりなようですよ。」
店員の指がいくつかのワイシャツの表示をなぞり、ピタリと止まったところから引き出した一枚は、小さくておかしな形の襟をしていた。
「なんです、これ?」
「バタフライカラーといいます。ドレスシャツですから。」
「は?」
日本語で話してほしい。現代語でなくてもいいから…。
「バーテンダーさんのシャツをお選びなら、白の白さが大切です。
清潔の上にも清潔で、その通りに見えること。
そして、 サイズ感も、清潔感を出すためにはとても大切なのですよ。
動きやすさは美しさに通じ、美しさは清潔さに通じますしね。」
なるほど、そういうものかと納得する。
試着を勧められ、断りかけたが、ここで臆してはいられないと勇気を奮い起こし、僕は差し出されたシャツを着てみることにした。
ハンガーにかけられた白いシャツは、切り裂けたあれに比べると、ずっと小さく見える。
が、袖を通して驚いた。
窮屈さは微塵もなかったからだ。
店員に言われたとおり、ベストも着てみて、小さなブースの外に出た。
「いかがですか?」
「驚きました。着心地いいですね…。」
他に、この状態を表現する単語を僕は知らない。
「よくお似合いですよ。まさか2週間目のバーテンダーさんとは、どなたも思いわないくらいですね。」
リップサービスとは知りながら、なんだか目じりが下がってしまう。
「では、これを。洗い替えがいるので、2枚お願いします。」
「かしこまりました。」
店員は、僕が脱いだシャツを丁寧に畳み直し、もう一枚を添えて会計へと持って行った。
「では、19600円です。」
「はぁ?!」
自分が上げた声のみっともなさに、自分でも気が付いた。
イチマンキューセンロッピャクエン?????
それが、ワイシャツ2枚に支払う金か?
僕は自分の迂闊さを呪った。
なぜ、お願いしますと言う前に、値段を確認しなかったのだろう。
しかし、接客馴れした店員は、とても優しい微笑みで、僕を見下すことなく言った。
「大変よいお品ですから、長く使えます。
それに、そんなに高価な衣服に身を包む自分というのを想像なさったら、ちょっといい気分が味わえるのではないでしょうか。
その気分に投資すると思われたらいかがでしょう。」
また投資か!
僕の自意識が、ここまできて「NO」と言うことを拒んだ。
なんてつまらない男かと、この初対面の店員に思われるのが嫌だったのだ。
「よし。いい気分、味わいます!」
心にもないことをいい、空元気で財布から1万円札を2枚引き出すと、えいっと丁寧に小皿に置いた。
「ありがとうございます。」
受け取った派手なチェック柄の紙袋と、大きなレシートと400円のおつり。
自分の見栄っ張りがここまでだったとは、人生初の気付きだった。
僕は、自分ではない自分になったような気がして、帰り道の方向が分からなくなった。
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コメント
コメント一覧 (4)
就職したばかりの頃、1万円のコース料理に目を丸くしました。
でも、ベテランの職員は「それくらい出すのが普通だと思うようになりなさい」と言いました。
そういうものなのかな〜と、素直に従いましたよ。
何年かしたら、その意味がわかりましたけどね。
贅沢は勤労意欲につながると思います。
予約投稿のつもりが手違いで公開してしまいました
砂希さんだけにサキどりしていただいちゃいましたね。
1万円の中華フルコース、私も経験したときは目が丸くなりました。
「来年また食べたかったら、がんばって働け!」って先輩。
贅沢だったはずが、受け入れられるように。
自分へのご褒美の意味が分かるようになりますね。
お仕事をするなら、それなりのみなりを・・・
100円のシャツが9800円のシャツですか?
100円のシャツというのが、あるのもしらなかったですが(笑)
電気店やっているので、良い品物はやはり、それなりの値段するのだと
いうこと・・・良くわかります。
安物しか、変われない方は、やはり、経験したことないから、
高いものの、価値って、理解されないですものね(笑)
もう7年前になるでしょうか。
テレビを探して、あーでもない、こーでもないと検討していた時に、
秋葉原でセルレグザを目の当たりにしました。
当時100万円を超えていた巨大テレビは本当に画像が美しくて、これを家に置いたらさぞかし幸せだろうと思ったけれど、予算の倍でしたから、手が出ませんでした。
いいものはそれだけの値がして当然。
作った人の努力や知識、経験に払うお金は尊いなぁと思います。