通い馴れた大学から「文学修士」の証書を受け取り、明日からは来なくてもよいと言われたのと、Bar小紫の正式採用が決まった日が隣り合っていたこともあり、僕は行くべき場所が自分の部屋しかないという体験をせずに済んだ。
それは、想像するだけでも十分に心許ない体験になるはずだったので、小心者の僕は、不幸の石を一つ踏まずに済んだことを喜んだ。 

ゆかりさんと雇用契約を結んだ日から1週間、僕は毎日20時間をBar小紫で過ごした。
いる時間だけ時給を支払ってくれるというのだから、いない手はない。
金を稼ぐことはなにより大切だ。
カウンターの裏側にはけっこう大きなキッチンがあるのだが、その隣の事務室のような小部屋が、仕事がない時の僕の居場所になった。

店には2階に部屋があったから、ゆかりさんはそこで暮らしていると勝手に思っていたけれども、実際は、隣の家がゆかりさんの生活の場だった。
2階は今、使われていないらしい。僕も上がったことがない。
なぜ2階ではないのかと尋ねたら、「そんなことしたら生活臭がしてしまうでしょ?」と言われた。

生活臭?
なんだそれは。
意味が分からない。

閉店中は、ゆかりさんにくっついて掃除をしたり、買い出しに行ったりする。
ゆかりさんが休んでいる間は、僕も事務室で本を読んで過ごす。
時々は、居眠りもする。
でも、事務室には布団も風呂もないから、アパートには一応戻る。
風呂に入って洗濯をして、布団にもぐりこんで、目が覚めたら干してあるワイシャツを持って出勤した。

「ゆかりさん、アイロンを貸してください。」
雇用契約を結んだ翌日、僕は、コンビニで買ったおにぎり4個…2個は朝飯で、あと2個が昼飯だ…と一緒に買い込んだ「スプレー糊」というやつを片手に、ゆかりさんに頼んだ。
恥ずかしい話だが、僕が持っているアイロンは、母さんが買ってくれた、小さくて蒸気が出ないやつだ。
母さん自身もそんなものを使っていて、霧吹きをしながらアイロンをかけていた。
世間にはすでにスチームアイロンが出回っていたはずだが、まだ高級品で、買う金はなかったのだろう。

僕が東京に出るとき、母さんは炊飯器とアイロンだけは、なけなしの貯金をはたいて新品を買い、持たせてくれた。
炊飯器はすでに壊れて捨ててしまったけれど、出番があまりなかったアイロンはそのままで、でも、霧吹きしながらアイロンをかけるなど、僕には無理な話だった。
そもそも服装には無頓着で、洗ってあって穴が開いてなければなんでもいいくらいに思ってきた。
アイロンなんて、今回の就職活動でワイシャツに適当に当てたのが一番のヘビーユーズだ。
アイロンは、母さんの思い出だけど、生活用品ではなかったのだ。

でも、雇用契約で、毎日糊付けされたワイシャツを着ることになっている。
ワイシャツに糊付けなどしたことがない僕は途方に暮れ、コンビニのおばちゃんに相談してみた。
すると、このスプレーを吹きかけて、アイロンをかければいいのだと言われたのだ。
しかも、蒸気が出るアイロンを使えば、なお一層いいと言われた。
それで、ゆかりさんに頼んでみることを思いついたのだ。

「アイロン?ええ、いいわよ。」
ゆかりさんはすぐに、家からアイロンとアイロン台を持ってきてくれた。
僕は、我ながら不器用な手つきでスプレーをふきかけ、アイロンを載せた。
「ああっ!なんだこれ?」

アイロンを離してみると、ワイシャツの襟には黒い消しゴムかすみたいなものがこびりつき、おまけにクッキリとしわが寄っている。
「あああ。」
僕は絶望的な気分で、黒いかすをこすり取ろうとした。
かすのほとんどは取れたけれど、黒い汚れは残ってしまった。

不器用なうえに慣れないアイロンがけでは、糊付けしたワイシャツという言葉でゆかりさんが伝えたかった出来栄えは望めない。
僕は、これは鍛錬を積まねばならないと、しぶしぶ覚悟を決めた。
5日間毎日、僕のワイシャツには黒い消しゴムかすと、クッキリしたシワが寄っていた。
そんな僕を5日間、ゆかりさんは黙ってみていた。

6日目のことだった。
全く上達しない僕がアイロンと格闘していた時、ゆかりさんが声をかけてきた。
「穂高。アイロン、上手になった?」
見ればわかる質問に、少しむっとする。

「今日で6日目ね。ねぇ、穂高、この5日間でいくら稼いだか計算した?」
「いえ。」
「毎日20時間ずつ、5日間。時給は900円。はい、九九のレベルよ!」
「えーっと、20×5は100で、100×900は…」
僕はゼロの数を指で確認した。
「イチ、ジュウ、ヒャク…あ、90000円です。」
「遅い!」
ゆかりさんの声はムチのようだ。
「僕の頭には数値演算プロセッサが欠けていますから、暗算は苦手です。」

ちょっと微笑みかけたゆかりさんは、あからさまに頬を引き締めて脱線を防いだ。
「そう、9万円。たった5日で9万円稼いだのよ。
けっこう、高給取りだと思わない?」

バイトだけはたくさんしてきた僕は、その意味がよくわかる。
大した肉体労働もしていないし、寝てても休憩していても時給になるのだ。
この調子で4週間働いたら…36万円!
税金だのなんだの考えても、そこらの会社の初任給より、はるかに恵まれている。

「ところで、穂高。もう一つ質問していい?」
「はい、何でしょう。」
「ワイシャツ1枚のクリーニング代はいくらか知っている?」
「は?」

僕は、答えられなかった。
クリーニングなど、年に1回か2回、スーツを出しに行くときしか使ったことがない。
洗濯に金をかけるなど、考えたこともなかったからだ。
「知らないようね。そこの角のクリーニング屋さんで、270円よ。」
「270円…。」

「あなたの時給からして、わずか20分以下ってわけ。
それに対して、あなたはアイロンにどのくらい時間をかけている?
光熱費と時間と、仕上がり具合を考えたとき、どんな結論にたどり着くかしら?」

わかった。
この5日間、お客様からワイシャツについては散々なことを言われた。
僕にはどこが違うかさっぱり分からないのだが、やれ清潔感がないだの、だらしないだの、ベストと合っていないだの…。
そのたびにむっとした。

でも、クリーニング屋に頼めば、毎日バッチリ完璧に仕上げてもらえるんだ。
しかも、僕は苦手なことにイライラせずに済む。

「いい?穂高。この商売をするなら、覚えておいてほしいの。
お客様は、大切なお金を私どもに払ってくださるでしょう?
あなたのお給料も、元をただせばお客様がくださったものよね?
そのお金を、あなたが有効に使わずにおいては、流れが止まってしまう。

もちろん、貯金は大切よ。
しっかりした貯金は、あなたの将来の自信にも支えにもなるでしょう。
けれど、投資も覚えてね。
あなたがいただくものを、あなたも差し上げるように考えてみて。
そうやって、世の中は回っているのだから。
豊かな人は、みなそうしているの。
あなたも、働き始めたからには、豊かな人でいてほしい。
人の得意を生かすこともまた、豊かな人の生き方だから。」

なんだかとても深い話を聞いたような気がしたけれども、この時の僕は、ゆかりさんの真意を理解できたとは言えなかった。
ただ、クリーニング屋は使う価値があると理解した。

僕は世間の流れの中にまた一歩踏み出した。
クリーニング屋が仕上げてくれたワイシャツは、お客様の僕への評価を一気に変えてくれたのだった。






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