穂高。
新しい名をもらった僕をもう一つ驚かせたことがあった。
それは、ゆかりさんから提示された、不思議な雇用条件だ。

「いい?穂高。雇用条件を確認しましょう。」
僕の正式採用が決まった日、ゆかりさんは2枚の紙を僕の前に置いた。
右、左と見比べると、どちらにも同じことが書いてある。

「店にいる間、あなたは『穂高』と呼ばれるわ。それはもう、いいわね。
勤務時間だけど、お店の開店時間に関わらず、あなたはここに何時に来てもいいし、何時に帰ってもいい。
ここにいた時間の分だけ時給を支払うことにするわ。」
「どういうことですか?」
「言った通りよ。」

僕はだまされようとしているのだろうか。
「たとえば、朝6時にここに来て、次の日の朝5時に帰ったら、僕は23時間分の時給をいただけるとおっしゃっているんですよ。お店をやっていない時間は本を読んでいても寝ていてもいいと?」
「ええ、そうよ。」
「そんなバカな!」

ゆかりさんの言葉を本当にしない僕に、彼女はこう言った。
「バカなことがあるものですか。 
この小紫はね、いっときお客様に心の壁を忘れていただいて、ただ自由にのびのびと、話したいことを話して、飲みたいだけ飲んで、寛いでいただくことだけを願っている店なの。
そこで働く従業員が、出勤時間だのなんだの、そんなものに縛られてあくせくしていたら、その窮屈がお客様に伝わってしまうと思わない?
ここは企業でも学校でもないの。
常識なんて、くそくらえよ!」

品のよい彼女の口から「くそくらえ」なんて言葉が飛び出して、僕はちょっと焦って、しどもどしてしまう。
「だからあなたも、好きな時に来て、好きな時に帰ればいい。
ただし、いるときはあの札を表に、帰る時には裏に。
これは、絶対条件。いいわね?」
「は、はい。」

僕は、ゆかりさんの目が、それまで見たことがないほど真剣で、黒い瞳の底の方で何かがギラリと光っているような気がして、ゆかりさんの方を見ていられなくなった。
何も不都合なことを言われたわけでもないし、拒む理由もない。

そもそも、僕自身が、決まった時間に起きて、決まったルートを急ぎ足で無意識に歩き、満員電車に揺られて、いつもと同じ駅で降り、決まった時間が来るまで帰らない生活をエンドレスに繰り返すのが当たり前の会社勤めに魅力を見出していなかったのだから、この条件は願ったり叶ったりなのだ。

なのに、貧乏性というのだろうか。
望んでいた条件が転がり込んできたのに、僕の心は恐れをなして縮み上がっていた。

「見習いだから、時給は時間帯に関わらず900円。一応、最低賃金は超えているから文句なしね。」
文句など言うはずがない。
「それから…。」
ゆかりさんの条件は、どれも一風変わっていて、でも、彼女がとても大切にしているポリシーを形にしたものだった。

毎日洗濯をして糊付けし、アイロンをかけた白いワイシャツを着ること、とか、靴は黒の革靴にすることとかいう項目もあった。
僕は分かってきてはいたけれど、敢えて尋ねてみた。
「時間の自由は認めても、服装の自由は認めないのですか?」
すると、痛烈な言葉が返ってきた。
「自由とひとりよがりを一緒にしてはダメ。
自由の裏には責任があるの。
自分の自由がほかの人を不愉快にしたり、苦しめたりするならば、その自由は行使してはいけないと思わない?
それでも行使するなら、そこから起きる結果を受け入れないとね。
ああ、話が逸れちゃった。

あのね。
穂高は、この店の風景になるのだと考えてみてほしいの。
新入りのあなたは、お客様が慣れ親しんでくださっているこの店の風景になじんで、まず存在することを受け入れていただいてから、それから、お客様のお望みに応えたりあなたの個性を発揮したりなさいね。
いきなり、あなたのあるがままや好みを、お客様に受け入れてもらおうとするのは押しつけがましいし、お客様があなたのあるがままを受け入れてくれて当然と考えるのは甘えだと思う。
あなたのために店があるのではなく、お客様のためにあるの。
ここは、従業員の自己実現の場ではないから。」

厳しい表現だった。
風景と言われて、改めて店内をぐるりと見回した。
どれも新品ではなく、どれも際立った存在感を出してもいない。
けれども、そこにあることが実に自然で、互いが調和し、清潔なたたずまいを見せている。
僕はここに通い始めて、ゆかりさんが掃除にどれだけの時間を使っているかを、驚きの思いで知った。
さらに、その時間を、ゆかりさんが接客と同じくらい嬉々として過ごしているのには目を見張るしかなかった。

「じゃ、双方合意ということで、お互いにサインしあって、1枚ずつ持っていることにしましょう。」
そうやって仕上がった雇用契約書を、僕は部屋に持ち帰り、どこに置こうかと考えた挙句に、ふと思い立って、額縁に入れてあった古い賞状を取り出し、代わりに入れて壁にかけた。

この紙一枚をもらうために交わしたゆかりさんとの会話がすでに、僕を今までとは違う世界に押し出し始めたことを、僕は言いようのない期待と不安で感じ取っていた。






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