カラリンコロン。
その時、軽快なカウベルの音がしなければ、 僕はそこに店があることにすら気付くことはなかっただろう。

目的もなくほっつき歩いていた僕は、ただなんとなく、その音に引き寄せられた。
僕が住む街は、線路をはさんで向こう側にある。
7年暮らした街だけど、めったに線路を越えることはなかった。
こちら側に用事があることはなかったのだ。
でも、その日、僕は7年の延長にいることに耐えられなかった。
だから、線路を越えたのかもしれない。

それほど変わった出来事ではないと、自分に言い聞かせてきた。
いくら面接を受けても就職先が決まらない学生はが、掃いて捨てるほどいる時代だ。
自分だけが意地悪をされているわけでも、自分が格別劣っているわけでもない。
ただ、行った先と自分とが合わなかっただけだ。

頭では分かっているのだが、心が納得してくれない。
浪人時代1年と、大学学部の4年間、加えて大学院修士を2年。
後悔すべき点はないと思っていた。
でも、今日受け取った29回目の不採用通知は、僕の思いを根底から揺るがした。

あと1回受けたら、今度こそ合格するだろうと、僕は思った。
けれど、今まで声を潜めていたもう一人の僕が騒ぎ始めた。
お前は30回目の否定にも耐えられるのか?
そもそも高校生の時にもっと真剣になって、浪人なんかしなければよかったのだ。
大学院なんて、食えないのが分かっていて進んだのも間違いだった。
折々にあったはずの確実な道を、なぜ選ばなかった?

今まで押さえつけていた分、騒ぎだしたらなかなか口を閉じない。
静かな部屋にいるとその喧しい声しか聞こえなくなるので、僕は外に出ることにした。

しかし、外に出ても、あいつは僕に思い知らせようとする。
いつも見慣れた街が、この日は違って見えるのだ。
しょうもないオヤジギャグばかり言っている、洗いざらしてスケスケのシャツを着た八百屋のおじさんも、見方を変えれば、商売を長年維持させている立派な社会人だ。
陽が当たるカウンターに座っていねむりをしている電気屋のおばちゃんも、眠っていてもつぶれないビジネスを構築している凄腕経営者だ。
大きなトラックに満載してきた缶コーヒーを自動販売機に突っ込んでいるお兄ちゃんだって、僕がまだ一度も手にしていない「内定通知」を手にした成功者だ。

そんなことを考えながら歩く散歩が楽しいはずがない。
足早に商店街を抜けると、僕は踏切を越えて、あまり来たことがないこちらがわに回り込んだ。
線路一本挟んだだけで、こちらは人の気配もぐっと減って、静かな住宅街が広がっている。
時折公園や神社があるのが見えたり、車が入れないような細い道があるから何かと思ったら、お寺に続く道だったりした。

このころになって、僕はやっと、今日が冬でけっこう寒いはずなのに、雲のない青空が広がっていて、枝ばかりになった木をすり抜けたお日様が、僕の頬を照らしていることに気が付いた。
腕時計をする習慣はないので、時間はわからない。
でも、昼より後、夕方より少し前であることに間違いはない。

日が落ち始めたら ぐっと冷えることだろうから、今のうちに帰ろうか。
多少の理性を取り戻した僕は、渡ってきた踏切に戻るのではなく、隣の踏切を越えようと思った。
が、線路沿いに歩くのだけど、なかなか踏切が出てこない。
こんなに遠かったろうかと思ったとき、あのカウベルの音を耳にしたのだ。

カウベルが鳴った方へ歩いていくと、線路に面した住宅の1つが店になっていることが分かった。 
目立つ店ではない。
歩道に小さな看板が…コードをつなぐと明かりがつくのだろう…出ていたからそれと分かったのだ。
『Bar小紫』

飲み屋か…。
通り過ぎようとした僕が足を止めたのは、看板の裏側に張り紙が見えたからだった。
「バーテンダー募集」

人生のスパイスは、どこで振りかけられるか分からない。
僕がその求人広告を眺めたとき、また音がした。
カラリンコロン。
開いたドアから出てきたのは、一目でそれなりの高齢とわかる、小柄な女性だった。







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