「ルー、どうした?」
冷静に問いかけたつもりだったが、震える声が明確に非難を伝えてしまっている。
楽屋のパイプ椅子に足を投げ出して座り、俯いて、髪で表情を隠したルーは返事をしない。
「コンサートだぞ。
小さな会場だし、何万人集めたわけじゃない。
でも、お前の歌を聞きたくてわざわざ金払って遠くから来てくれたお客様もいること、分かってるだろう。」
責めてはならないのだ。
話し合いをしようとしている時に、責めてはいけない。
本番に遅れたわけではないんだ。まだ間に合う。 
頭ではわかっていても、どうしようもなかった。

あと10分ほどで、コンサートが始まる。
大幅に遅刻してきたルーのせいで、リハーサルは最小限のおざなりなものになった。
私には、それがどうしても許せない。
どんなに小さなコンサートでも、多くのスタッフがいる。共演者がいる。何より、お客様がいる。
だから、時間を守り、全神経を集中しろと口を酸っぱくして言ってきた。
長い年月をかけて私がルーに伝えたことは山のようにあったけれど、唯一これだけというものを選べと言われたら、この一点になるのだ。
なのに、ルーは遅れてきた。
理由も言わず、誠意をこめて謝るでもない。
ミスを取り戻すような覇気を見せるわけでもなかった。

「黙っていてはわからないだろう。どうしてこんなことをするんだ。」
冷静さを装った分余計に、私は爆発寸前になった。
ルーをこの世界の住人にしたのは、この私だ。
もちろん、すべては彼女の実力と才能、努力と運があったからだ。
それでも、彼女一人でここまできたわけではない。
なのに!

「あたし、もう歌いたくない。」
ぼそりと言う声を聞いて、何か言えと言ったのは自分なのに怒りが煮えたぎった。
「歌いたくない?何を言っているんだ。そんなの、今言うことか?」
「歌うのは私よ。私の気持ちが最優先でしょう?三木さん、お客様に言ってきてよ。私、今日は無理。」
その言い草に、私は怒りを通り越して呆れかえった。
「なぜ私がお客様に言うんだ?そんなことは自分で言え!」
「だって、三木さん、私のマネージャーでしょ?」
そういいながら、ルーは顔をあげた。
予想外に強い視線に私が言い返す言葉を一瞬ためらうと、ルーが先に言った。
「私、大切な人ができたの。今度ちゃんと三木さんにも紹介するわね。今は歌より彼との時間が大事なの。」
「ふざけるな!」
叫ぶ前に声を失ったのは、ルーが髪をかきあげた首筋に、赤紫色の斑…それが真新しいキスマークであることくらい、誰が見たってわかるだろう…が見えたからだ。
私は震えだした手で、自分のバッグをつかみ上げた。
「好きにしろ。」
彼女の後ろでおろおろと様子を見守っていたメイクの女の子やスタッフをおいて、私は部屋を出た。
そのまま通りに出て、コンサート会場を後にした。


今回のお話はかなり長いので、続きは「続きを読む」リンクを押してお読みください。

ルーを初めて見かけたのは7年前、横浜駅のデパートの外、高い庇の下で、一人ギターを弾きながら歌っているのを偶然通りがかって見かけた時だった。
私は芸能マネージャーとして、彼女の歌に一目惚れしたのだと言ってよい。
それほど、彼女の歌声は魅力的だった。
上手いのかというと、下手ではないが、とびぬけて上手いわけではない。
彼女の歌声を他と分けるのは、その声質だと思われた。
すぐには思いつかなかったが、その場を離れて帰る道すがら、ああ、あれはボブ・マーリーだと気付いた。
女性だから、声の質が似ているのではない。
強いて言葉にするなら、声の根底を支えている絶対的な悲哀が、聞き手の心を揺さぶるのだ。
ララルー ララルーと歌っていた彼女の声が、耳の底から離れなかった。 

私は何度も説得して、ルーを芸能界に引き入れることに成功した。
ララルーという芸名の響きもよく、彼女は確実にファンの心をつかんだ。
知名度を上げてから本格デビューさせようと、地方の営業に積極的にでかけることにし、私はいついかなる時も同行した。
都内でも同じように、小さなスナックからスーパーのイベントまで、声がかかればどこへでも出向いた。

もちろん、テレビの新人発掘番組や、ラジオのトークなどにもバンバン売り込んだ。
それが少しずつ裾野を広げ始めたのは、彼女の実力と言うよりも、「三木さんがそこまで言うのなら、まぁ、使ってみましょうか。」という、私の顔によるところが大きかったと、今ならはっきり言える。

ただ、ルーにはそうは言ってこなかった。
世間に受け入れられるのはお前の実力だ、お前の才能だと言い聞かせた。
足りないところがある時には「伸びしろがある」と励ました。
できるかぎり自主性を重んじて、選択肢を提示するにとどめ、決断はいつもルー自身ができるようにしてきた。
少なくとも、ルーが自分で決めたと思えるように配慮してきた。
常識外れなことをしでかしても、お前の個性は認めるが…と、頭ごなしに叱りつけたりはしなかった。

私がルーのためにしたことは、仕事の面ばかりではない。
まだ若く、人生経験の少ない彼女が人として成長していけるように、あらゆる面でチャンスを作ってきた。
なにしろ、シンガーソングライターなのだ。
内面の豊かさや感受性を磨くことが、曲作りや歌い方につながっていく。
ルーには、どこか常識では計り知れない、エキセントリックな面があった。
だから私は、ルーを様々なところに連れ出し、多彩な経験をさせた。
同時に、世の中の仕組みというか、人々の心、人としての振る舞いとはどういうものかを、誠心誠意伝え続けた。

ルーもあからさまに私を頼りにし、私の言うことを第一優先にしていた。
ルーが歓声をあげ、目の色を変えて何かを吸収していく姿を間近に見ることは、私の喜びでもあった。
だから、私は彼女との時間を何よりも優先させてきた。
私自身の都合や健康、家族との時間よりも!
それが仕事に直結しているという理解が、私の行動に罪悪感を添えなかった。
それだけの献身をする価値が、ルーにはあった。
マネージャーである私は、その価値に献身するのが仕事であり、義務だった。

CDデビューを果たしたとき、お笑い界の重鎮が司会をするテレビ番組に出演を果たした。
彼ら一流のやり方で、ルーの特徴だとか面白さだとかを引き出そうとしてくれた。
しかし、緊張したルーは面白いリアクションひとつできず、とうとう泣き出した。
トークよりも先に歌の収録が済んでいたから、放送ではいじられた影響なく歌い切ったように見えた。
が、実際は違っていたのだ。
「あんなこと言われるなら、あたし、テレビなんて無理です。」
泣きじゃくるルーに、今までの新人には言ったことがない言葉をかけた。
「彼らを恨んじゃいけないよ。彼らにはまだ、ルーの魅力が見えなかっただけだからね。」
ルーははいと言って涙をぬぐい、いじらしいほど無理に笑って見せてくれたものだ。
しかし、幾多の新人を見てきた彼らは、昔馴染みでもある私に歯に衣着せぬ感想を伝えてきた。
「さすがの三木さんも今回はハズレだね。あれは、ものにならないよ。」

何を言うかと思った。
が、その感想を裏付けるように、CDは売れなかった。
コアなファンはついた。
独特の歌声に、歌えばどこでも耳を傾けてもらえる。
しかし、全然売れない。

そして、困ったことに、わずかに付いたファンの心を冷やすようなことを、時折ルーはしでかした。
ファンの熱い心理を裏切ると、熱い分が怒りとなって襲い掛かるのを、私は熟知している。
だから、ファンだけは大切にしなくてはならないと、どれほど教えたことか。
それでも、ルーは自分の勘違いをファンのせいにしたり、ファンに守ってほしいと舞台から投げかけたマナーを自分自身が破ったり、そんなことがなくならなかった。
その都度私はルーに優しく言い聞かせ、自ら反省できるよう促した。
ルーが認められなければそれだけ、愚かな振る舞いをすればするほど、私はルーを育てることにのめり込んだ。



「三木。もういいでしょう?そろそろルーのことは諦めて、私を手伝ってちょうだい。」
ルーをデビューさせて3年目のことだ。
このプロダクションの社長は福山といって、業界で知らぬものがない女傑だ。
私は長年彼女の下で働いてきた。
幾度となく、マネージメントを離れて、経営に加わるようにとのありがたい話をもらっていたが、私は現場の最前線にいたいからと言って、断り続けてきた。

「『もう』とはどういう意味でしょう。まだ社長にもルーの成功が見えませんか?」
私は誰よりも社長を信頼している。
その社長が、初めてルーにバツを付けたのがこの時だった。
長い長い時間の裏付けが、彼女の前では私を極端に素直にさせる。
私は率直に、社長の真意を尋ねた。
「私があの娘のデビューを許したのは、あの娘に才能を見たからではなく、あなたの熱意を買ったからよ。」
身もふたもない返事だった。
「では、もう少し私に賭けてくれませんかね?」
「いいわよ。自分でわかるまで、やり切りなさいな。」
「ありがとうございます。」
「けどね…。」
「なんでしょう。」
「いえ、いいわ。それも、自分で気づかなきゃね。」
「嫌ですね、その言い方。」
「いいのいいの。それより、今度の新規企画なんだけど…。」

大きな芸能プロダクションだ。
その経営にと声をかけてもらえるほどの人材。
それが私だ。
その私がこれほど打ち込んで育てようとしているルー。
ルーは必ずや今よりも成長し、成功し、私を喜ばせるはずだった。
彼女の首をかしげるような言動を見て真意を疑うことがあっても、私以外のプロが誰一人として私の直観に賛成してくれなくても、私はこの一事を疑うことがなかった。
いや、疑うわけにはいかなかったのだ。
私は私自身の手で、自分の選択にバツをつけることはできないからだ。



ふと頬に冷たいものが当たって、あたりを見回した。
ここはどこだ?新宿あたりだろうか。
ずいぶん遠くまで歩いてきたもんだ。
いつの間にか、細かい雨が降り始めていた。
力を入れて鞄を掴みしめていた右手の指がギシギシと痛んだ。
鞄を左腕に抱えなおし、痛む右手でスマホを取り出す。
必ず入っていると思ったメールも着信もない。
どういうことだ!
そこが人通りの多い通りでなかったら、私は鞄を地面に叩き付けていただろう。

会社に戻る気にはなれず、そのまま帰宅した。
「父さん、おかえり。」
高校生の息子が、少しだけ驚きを表に出してから、自分の部屋に引き下がった。
「早かったのね。今日は打ち上げ、なかったの?」
この業界とは無縁の妻が、アイロンをかけながら問いかけてきた。
「ああ。」
「そうなの。コンサートの夜、こんな時間に戻るのは珍しいから聞いちゃった。ちゃんと晩御飯食べたの?」
「いや、食欲がないから、今夜はもう休むよ。」
「そう。たまにはそういうのもいいかもね。」

他の家庭がどうなのか知らないが、私の妻はこういう時、「せめておかゆでも食べたらどうか」とか、「風呂で温まっては」とか、余計なことを一切言わない。
最初はそれがそっけなく感じられたものだが、しばらくして、それが私を最大限に尊重してくれているからだと気付いた。
そのやり方を、息子も自然と身に着けたようだ。
もしも今夜、ふたりのどちらかから何があったの?と問いかけられていたら、私はどうなっただろう。
こんなに傲慢で身勝手な私でも、妻に感謝せずにはいられなかった。

休むといいながら、寝室ではなく書斎に入った。
大したことがないマンションには不釣合いだと思いながらも、どうしてもほしかったマホガニーのデスクと本革張りのチェアが、いつものように静かに私を待っていた。
チェアに深く身をゆだね、眼を閉じる。
私の今日の行動は正しかったか?
数時間、自分に対して問いかけられなかった問いに向かわなくてはならない。

とたんに、不安と後悔がゾロリとムカデのように這い出してきた。
ルーはあれからどうしたのだろう。
突然コンサートはしないと言われた観客の怒りは相当だったはずだ。
酒井が残っていたが、酒井では収拾がつかなかったろう。
まさか怪我人が出たりしてはいまいが、会場に迷惑をかけたことには違いない。
やはり、私が表に出て、詫びてやるべきだった。

ルーは私を恨んでいるだろう。
7年もかけて育てたはずの信頼関係が、こんなことで崩れるのだろうか。
私が折れてやればよかったのだ。
彼女も一人の若い女性なのだ。
恋もすれば結婚もする。
それがいけないと言いたいわけではないんだ。
心の底から這いだしたムカデは何十匹となって、細いオレンジの足で、私の心を掻き乱す。

………本当に、それがいけないと言いたいわけじゃなかったのか?
お前はルーの男に嫉妬しただけではないのか?
冷静で気高いもう一人の私が、みっともない私に問いかけた。
違う、違う、違う!
がむしゃらに否定しようとする様子が、図星であることを物語っている。

………お前は本当に、あの娘に才能を見ていたのか?
実は、お前なしでは何もできない存在を手に入れて、自己重要感に酔いしれていたかっただけではないのか?
もう一人の私は容赦なく問いかける。
それも違う!そんなつもりは毛頭なかった!
みっともない私は、髪を振り乱して否定するというやり方で、それを認めた。

………お前は客やスタッフや、会場への配慮から怒ったのではないな?
お前はお前を一番大事にしなかったあの娘が許せなかったのだろう?
何もかも最優先にしてやったのに、その見返りがこれか?と、思って!
うなだれた私は、もはや否定する力もなかった。

ルーを失うことを恐れて湧き出したムカデたちは、今では、私の欺瞞を覆ってきたベールを食い散らしながら、思考のあらゆる場所に隙間なくはびこり、オレンジ色の足を蠢めかしている。

「私の失敗だったんだ。」
私は滑らかなマホガニーに両掌をぴたりと置いて、声に出して言った。
「私の失敗だった。」
もう一度、声に出して言い、その声を聴いた。
理由の分からない涙が零れ落ちた。
その涙が、私の視界を分厚く覆っていた埃を洗い流したらしい。

夢から醒めた私には、手に取るように分かった。
ルーがあんなふうになったのは、私がそうなるように甘やかしたからだ。
失敗に直面させず、むやみにおだて、勝手に可能性を信じたのは私だ。

よくよく思い出してみれば、ルーは最初から私に従順などではなかった。
自分に都合がよいこと、都合がよいときだけ従って見せたにすぎない。
その証拠に…と考えると、いくらでも根拠を挙げられる。

いつでも都合に合わせてやっているうちに、ルーはきっと、私が都合を合わせてやることが当たり前だと思ったのだろう。
私とはそういう失礼な対応をしても許される相手だと教えてやったのは私自身だったのだ。
面倒なことは肩代わりしてやり、痛みを伴うことは率先して引き受けてきた。
それも大きな過ちだった。
結局、私は私の過失と失敗のツケを払う時が来ただけなのだ。

がっくりとうなだれた自分の体重を全身で感じていた時、スマホが鳴った。
私は飛び上がってスマホを掴んだ。
ルーからだと確信したのだが、違っていた。
この期に及んで、私はまだ、ルーが私にすがり、頭を下げて許しを請うことを願っていたのか。
私は自分の本音に血が滲むほど傷つけられた。

「酒井です。遅くにすみません。」
言われて腕時計を見ると、午前1時を指している。
私が返事をしないでいると、酒井は先を続けた。
「結局、ルーさんは自分で舞台に出て、お客さんに詫びました。コンサートは中止、怒ったお客さんからタオルやら空き缶やら投げつけられましたけど、彼女、耐えましたよ。」
「そうか。」
「家に送り届けてから会社に戻りました。社長に報告した方がいいかと思って。」
「ああ。」
「社長からは何も言われませんでしたけど、三木さんにも報告した方がいいかと。きっと、気にしておられるに違いないと思って。」
「手間をかけたな。すまない。」
「いいえ。明日、社長がお話ししたいとのことでした。」
「わかった。定時に出社すると伝えてくれ。」
「わかりました。今夜はもう休んでください、三木さん。」
「それはこっちの言うことだ。」
「生意気言いました。では、おやすみなさい。」

酒井はまだ若いが、できた男だ。
ルーのマネージャーは彼に任せればいい。
頭がそう考えているときに、目がスマホの画面をのぞき込んでいた。
それほどに待っていたルーからは、今もまだ、詫びどころか報告の一つも入ってはいない事実を、目に焼き付けるように。



眠れるわけもなく、わずかに体を横たえただけで出社した。
妻は何か気付いたようだったが、今朝も何も言わなかった。
社長はまだいないだろうと思ったが、予想に反してすでに社長室にいて、私を待ち受けていた。

「とうとうやらかしたらしいじゃない、あの娘。」
空気が重たくならないように気遣っているのだろうか。
それとも、愚かな私をからかっている?
「社長のおっしゃる通りだったようです。ようやく目が覚めました。」
「これはこれは、眠り姫ならぬ眠り王子。おはよう。ずいぶんと長い眠りだったわね。ご気分はいかが?」
「最悪ですね。」
社長は黙って手ずからコーヒーを淹れると、私の前にコトリと置いた。

社長と私の二人しかいない時限定で、私はこのソファーに深くもたれかかる。
いつもなら、背中を分厚いソファーの背に預けるところだが、今朝は喫煙現場を押さえられた高校生よろしく、バツが悪くて偉そうな座り方などできるはずもない。
「社長にはわかっていたんですよね。」
「ええ。」
「教えてください。どう見えていたんですか?」
「言葉、選ばないわよ。」
「はい。お願いします。」
できれば、いっそ切り裂いてくれと頼みたいほどだ。

「確かに、彼女には他の子にはない何かがあると思う。
そういう意味で、あなたの目に狂いはないわ。
あなたはそれを磨いて育てて、日の目を見せてやりたいと考えたわけよね。
でも、あの子自身はどうだったのかしら?」
私は社長の言葉を胸で反芻した。

「あの子自身は、何もなかったんじゃない?
夢も、向上心も、この仕事を知ろうとする熱意も、責任感も。」
そうかもしれない。
「マネージメントのプロ・三木ならば、そこらへんのことは熟知していたはずでしょう。
今まで大成した子たちには、あなたはミスをしなかった。
それが今回は違ったわね。
あなたは、あの子を使って、証明しようとしているように見えたわ。」
「証明?」
「ええ。自分がこうだと思ってきたセオリーを、真っ白な子に教え込んで、その正しさを証明したいと。」
「そんな…。」
「わかっているわ。
あなたがそんな気持ちでやっていたわけではないってことは。
でもねぇ、私にはそう見えたのよ。
それだけじゃないわ。
あの子がそのセオリーで売れたら、あの子はあなたに感謝するしかない。
あなたはその感謝で、自分の正しさ、有能さを証明しようとしていた…。」

心に口があったら、私の心は絶叫しただろう。
それほど私は動揺した。
この女傑は、私の深層心理を的確に見抜いていた。
そうとも知らず私は、恥をさらし続けてきたのか…。

「三木。信じてちょうだい。私はあなたを責めてない。」
「ええ。わかっています。教えてほしいと言ったのは私の方ですから。」
「そういう意味じゃないわ。あなたはあの子を育て損ねたことを恥じているでしょう?」
「それは、そうです。」
「私はあなたがあの子を育て損ねたのではないと言いたいの。」
「おっしゃる意味がわかりませんが。」
「つまりね、あの子はもともと、成長してもあそこまでだったということよ。」
「……。」
「あなたに出会わなければ、あそこまでにもなれなかったはずよ。」
「そうでしょうか。もっとましな成長を遂げたんじゃないですかね。」
「三木!」
社長の声が厳しくなった。

「人々は、成長するから応援してくれるわけじゃない。
好きだから、応援してくれるの。
好きという気持ちは無条件なの。
いえ、正確に言えば、条件があることに気付けないくらい好きなのよ。
それは、育てるとか、教えるとか、そういう部分ではないはずよ。
違う?」

違うはずがない。
私にしても、同様だったのだと、社長は言いたいのだろう。
ルーに肩入れしたのは、ルーを好きだったからに違いない。
才能があるとか、将来性があるとかいうのは、好きになったルーを、そばに置いておきたくて思いついた言い訳みたいなものだったのかもしれない。
関わる口実がほしくて、常識を身に着けるためとか大事なことを教えるためとかいっていただけかもしれない。
本当に彼女を商品として売り出したかったら、私が気に入る彼女に育てるより、客が好む彼女とはどうあるべきかと考えただろう!
なんとまぁ、今頃そこに気づくとは!
私は、社長の顔を見ていられなくなった。

「そもそもね、あなたが現実から逃げるから、こんなことになるのよ!」
「逃げる?いつ私が逃げましたか!私はいつも現実と向き合ってきた!」
「これだから、男は困るのよ。『逃げた』と言われると、すぐムキになるんだから。」
「だから、逃げてませんてば!」

社長は居住まいを正して言葉を継いだ。
「あなたにはこの世界を支えていく才能がある。
だから、私は何度も経営を手伝ってほしいと言ったはずよ。」
「ですから、それは、私にはできないことだと…。」
「そう。そう言って、やってもみないうちに逃げた。
そうして、証明しようとしたんじゃないの?自分こそが現場に必要なマネージャーだと。
だから、わざと、もともと可能性のない子を選んで、メジャーにしようとした。
そうなったら、あなたは胸を張って言えるでしょう?『私がいたからこそ、こんな稀な成功ができたんだ!だから私は今まで通りのことを繰り返していればいいんだ!』って。」

ああ、キツいなぁ。
さすがに私も参ってきた。
どれもこれも、思い当たることばかりだ。
うつむきながらため息を吐き出すと、きれいにそろえられた膝頭と、真紅のタイトスカートが見えた。

「人は年を重ねると、それに応じて果たさなければならない役割も変わっていくと思うの。
経験を積んだ者は、積んだだけの責任を果たす。
誰かがその責任から逃れると、別の誰かが苦労しなくてはならなくなるわ。
それに、若いうちには苦くて口にできないものでも、大人になると美味しいと感じるものがあるでしょう?
それと同じで、現場の最前線は確かに魅力的で、経営なんてとんでもないと感じてきたかもしれないけど、今のあなたなら、やってみたら案外楽しめると思う。
もう何年も待ったのよ。
そろそろ、決心してほしいわね。」

ありがたいことだと素直に思った。
こんなに自分を買ってもらっていたのかと思う。
それに…。

「どう?このあたりで手を打たない?」

社長の最後の一言は、意味深だった。
私は肚の底で肩をすくめて恐れていた。
『あなたは女としてのルーに恋して破れたのでしょう?』
社長からそう言われるのが怖かった。
それだけは、認めるわけにはいかない。
認めるのは、わが心の中だけにしておきたい。
社長は、私のその気持ちを汲んで、仕事のことだけを言ってくれたのではないのだろうか…。
思わず顔を上げた私に、社長は静かに微笑んでから、頬を引き締めた。

「無理強いはしないわ。でも、もう待つ気もないから、答えは早くちょうだいね。
それから、ルーはクビにするわ。」
「社長!」
私は思い切り立ち上がり、テーブルに手をついて社長に迫った。
「あの子は私のミスの犠牲者です。
私さえ離れれば、あの子はうまくやるでしょう。
酒井をつけてやってください。
会社としても、これまでずいぶん金をかけた子です。」
「だから、切るのよ。」

社長は、譲る気はないことを真っ赤なオーラにして轟かせながら言い切った。
「あの子は、それでもやっぱり、あなたに対する礼儀を欠いていたわ。
あなたに対する礼儀を欠いたということは、つまり会社を軽んじたのと同じ。
大した実力もないのに、我を通そうというのなら、当然の結果も引き受けるべきね。
これはビジネスなの。
身勝手な理由で会社に多大な損害をかけ、取り戻す見込みがないのだから、クビになるのは当然。
もしも、あの子が本気で考え直して、この世界で生きていきたいと考えるなら、もう一度雇ってくれと頭を下げてくるでしょうし、それが嫌なら、叶えられる道を自分でみつけなくてはならないでしょう?
酒井には、もっと有望な子をいくらでも見てもらいたいからね。」

私には、返す言葉がない。

「三木。」
「はい。」
「あの子の幸せと成功を願うなら、忘れてやりなさい。」
「……。」

いつもより丁寧に頭を下げて退室した私は、自分のデスクに戻った。
どうしても気になって、スマホを確認する。
やはり、ルーからは何の連絡もない。
「あははは。」
笑い飛ばしたかった。
「The end. ここまでだな。」

まるで失恋したみたいだと思った自分にまた傷ついた。
まったく、昨日から心が傷だらけ血まみれで、心に包帯を巻いてやったら、きっとミイラが出来上がってしまうだろう。
有能で頼りにされる、経験豊かで誠実なマネージャー。
巨像のように感じていた自分はすべて幻だった。
粉々に砕け散り、埃が流れ、残ったものを見てみたら、みっともなくて小さな冴えないオヤジがいた。
それが、本当の自分なんだと気が付いた。

しかし、考えようによっては、昨日の今頃の自分よりもずっと、自分の傷が見えやすくなったと思う。
本当は、こんな結末を、もうずっと前から予測していたのだ。
でも、見て見ぬふりをし続けた。
とうとう無視しようもないくらいはっきりしたわけだが、不思議とどこか清々しい。
何かが軽くなり、強くなった気がする。
痛いし悲しいし恥ずかしくもあるのだが、空っぽになった部屋に今度は何が入るのだろうかと、本当はずいぶん前から感じていなかった本当の希望のようなものも感じるのだ。

ララルー ララルー
人生は冒険
ララルー ララルー
旅立つときは今


あの日、ルーが歌っていた、ルーのデビュー曲を口ずさむ。
「ごめんな、ルー。
私はお前の人生を狂わせ、害になっただけで、結局何もしてやれなかった。
私に出会わない方が、お前はより相応しい道を歩けたのかもしれない。
そう思うと申し訳なくてしかたがないよ。
どうか、幸せになってくれ。歌い続けてくれよ。」

立派な私がそう胸の中でつぶやくと、みっともない私が、本音をこぼした。
「でも、俺がいないんじゃ、うまくいくはずないよな。
仕事もなくして、男にも捨てられて、泣きを見ればいいんだ!」

そのどちらも、私の真意だ。
その矛盾した存在、それが私なのだ。

「では、旅立ちましょうか。
酒井、ちょっと後を頼む。社長室に行ってくる。」
「はい!」
気持ちのよい返事に背中を押され、私はいろいろなものを抱いたまま、前に進む決意を伝えに歩き出した。






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