「ルー、どうした?」
「どうもしないけど、いざ退院となると、思いがけず4か月も慣れ親しんだこの部屋が立ち去りがたくて…。」
俺が思わず未練を口にすると、俺の荷物がパンパンに詰まったチェックの紙袋を2つ両手に提げたミノが、よだれが垂れそうな声で言った。
「じゃ、もうちょっと入院するか?」

冗談だとは重々承知しているが、なんだかムカッ腹が立ったので、うるさいと声に出して言って、病室から廊下へ踏み出した。
「なんだ、やっぱり帰るのか。」
まさか本気で俺が留まると思ったわけではないだろうが、ミノが落胆した口ぶりで言う。
まったく、縁起でもない奴だ。

このところリハビリが進んで、時折通りの向こうのコンビニまで外出したりはしていたのだが、いざ退院となると、どういうわけか心細さが募る。
骨は本当にくっついたのだろうか。
ちょっと激しく動いたら、またパキッとバラバラになるのではないか。
根拠のない空想が頭の中を駆け巡り、落ち着いていられなくなるのだ。

「お前、ナースステーションにちゃんとお礼に行くんだろうな?」
「当たり前だ。手土産も用意してもらったぞ。」
母さんに頼んで届けてもらったヨックモックの袋をミノに見せてやった。
ヨックモックは営業の基本だ。
小さい、数がある、手が汚れない、そして、美味い。

「お前なぁ、営業に行くんじゃないんだぞ。4か月も世話をかけておきながら、ヨックモックか?!」
ミノは細かいところを突いてきた。
「いいじゃないか、美味いんだから。」
「無粋な奴だ。そんなことだろうと思って、用意しておいたぞ。これも一緒に渡すといい。」
「なんだ?」
「こういう時には治一郎だ!」
「あのバウムクーヘンか!確かに、あれは美味かった。」

骨折の最初は、甘いものを控えよとのことで食べられなかったが、そのうちOKが出て、普段はそれほど甘党ではないのだが、どうしても何か食べたくなった。
ミノにその話をすると、翌日買ってきてくれたのが、治一郎のバウムクーヘンだったのだ。
大きなリングではなく、小分けになったクーヘンが4切れ入っている手ごろなサイズの袋物だ。
食べてみると、しっとりとして甘すぎず、こんなに美味いバウムクーヘンは生まれて初めて食べたと思った。
ミノにもそう言うと、フフンと鼻を鳴らして、
「このうまさが、わずか216円。店に出向かないと買えないんだ。」
いいことを知っているだろう?と言わんばかりの顔をしたのだった。

「このフロアの看護師さんは全部で8人。何があるかわからないから、10個箱詰めしてもらったぞ。」
「あ、ありがとう。すまないな、気を遣わせて。」
「ふん。」
どういうわけか、今日は毒が吐けない。

ナースステーションであいさつを済ませて、階段へ向かった。
背後で、これ治一郎じゃない、センスいいわねぇ、ほんと、これ大好きだけど、わざわざ買いにいかないと手に入らないからなかなか食べられないのよねぇと、明るい歓声が上がっている。
背中を耳にしているに違いないミノが、顔中を笑顔にしている。
だからだろうか、いつになくタラタラと歩いて、なかなか進まない。
「おい、ミノ。そんなにゆっくり歩かなくても、俺はもう大丈夫…」
「ミノルさん!」

ミノをせかそうとしたとき、声をかけられた。
振り向くと、小学校からのギャグ同様、ミノも一緒に振り向いた。
実さんならこいつのことだ。稔さんなら俺を呼んだことになる。
が、声だけでは分からない。
これだから面倒で、俺たちはミノルをミノ、俺をルーと呼び分けることにしたのだ。

口を開いたのはミノの方だ。
「理緒ちゃん!」
「理緒ちゃん???」

小走りに寄ってきたのは、俺の担当ナースの脇坂理緒さんだ。
小柄な体型ながら見事なプロポーションで、しかも明朗闊達、彼女のおかげで、暗くなりがちな病院生活がどれほど救われたか知れない。
「よかった!すれ違ってしまったみたいで、慌てました。」
「巡回中というので、待っていてもかえって迷惑かと…。」
言いかけた俺の言葉を制して、ミノが言う。
「こいつの無礼ときたら、つける薬がないよ。」
なんだ?この馴れ馴れしい口のききようは!

「退院ですもの。早く帰りたいのは患者様みなさん同じよ。」
かえって脇坂さんがたしなめてくれている。
俺は味方を得た思いで、心強くなった。
「ミノルさん、岩田さんを早く送ってあげて。」

ん?
ちょっと待った。
岩田さんは、言わずと知れた俺のことだ。
じゃ、ミノルさんは、誰だ?
こいつか?!
俺は瞬きを忘れてミノを見た。

「わかったわかった。じゃ、話の続きは今夜。」
「うん。楽しみ!」
何の、話だ???

「おい。ミノ。お前、何の話をしているんだ?」
「ああ、今の話か?言ってなかったっけ?」
もちろん。聞いていたらわざわざ質問しないだろ?
「今夜、なんだか知ってるか?」
「今夜はクリスマスイブに決まってる。」
「そうだよな?だから、理緒ちゃんとデートなんだ。」
「ふーん。……………え?」

俺の思考回路がフリーズした。
でーと?
誰と、誰が?
脇坂看護師を見ると、なんと、かわいい子犬のような彼女が、耳まで真っ赤にして恥じらっているではないか!

「いつの間にそんなことになったんだ?」
「だってお前、毎日毎日お前の見舞いにきて、お前の様子を聞いているうちに、すっかり理緒ちゃんと意気投合してなぁ。あははっ!」
俺の心の底から、ムクムクと何かが立ち上がってきた。
嘘をつくな!
俺の見舞いは口実で、飽きずに毎日通ってきたのは、脇坂看護師に会うためだったんだな!

俺は何か言ってやらずにはいられなかった。
「だからって、坊主がクリスマスイブか!」
キレのない攻撃だ。
でも、しないよりましな気分だった。

「私がお願いしたんです、岩田さん。」
「え?」
「私、お仕事始めてからいっつも、クリスマスイブは先輩に頼まれて夜勤を代わってあげていたんです。いつか私も予定があるからって言いたくて、きれいなイルミネーションとかクリスマスディナーとか、楽しみたくて。そう言ったら、ミノルさんが是非叶えに行こうって言ってくれて。」

それなら、相手は俺でもいいじゃないか!
なんでミノなんだ?

「それに、ミノルさんの仏様のお話、私本当に好きなんです。心が洗われるわ。」
ダメだ。俺に仏様の話はできない。
でも、キリスト様の話ならできるぞ。今夜はそっちの方が相応しいだろうに。
俺だって、俺だって岩田さんのことは気に入っていたのにぃ
トンビに油揚げを攫われたぁ!

「と言うわけだよ。ルー。お前も気付いていると思っていたんだが、悪いなぁ。」
うるさい。その勝ち誇った思いやりが、かえって痛い。
「そうか。よかったじゃないか。脇坂さんはステキな女性だ。大事にしてやれ。」
偉そうに言ってみたが、覇気のかけらもない。

「なんなら、お前も一緒に行くか?クリスマスディナー?」
「誰が行くか!」
「いいんだぞ。俺たち、大晦日も一緒に過ごす約束してるから。」
「ええ。岩田さんもご一緒に。」
だから、その思いやりが痛すぎるんだってば!

「大晦日は、お前、仕事だろうが?」
ミノの家は寺だ。
しかも、結構大きな寺なのだ。
年越しはいつも初詣の準備だの、年越しの行事だの、大忙しのはずだ。
「そうなんです。私たち、一緒に除夜の鐘デートのお約束を。うふっ。」
「除夜の鐘デート…。」

「親父が一昨年くらいから、108回も鐘を突くのはつらいと言い出して、去年は俺がひとりで突いたんだ。今年は理緒ちゃんも一緒に突こうって誘ったら、彼女、ぜひやりたいって言うんだよぉ。」
「私たちの幸せな気持ちを鐘に載せて、世の中に響かせたいな、なんて思ってぇ。」
「二人で仲良く、鐘を突きましょうね!」
「はいっ。」

勝手にしろ。
俺は一晩耳を塞いでやる!
俺の入院中に、勝手に愛を育んでいたのかと思うと、ふつふつと嫉妬と怒りが湧いてくる。
でも、それをここで顔や言葉に出してしまったら、俺は史上最低の男だ。
耐えろ、耐えるんだ!

「俺、ひとりで帰るわ。」
ミノが持っていた紙袋をふたつひったくって無理矢理受け取ると、俺は勢いよく歩き出した。
ミノと脇坂さんが俺の突然の行動に無言のまま、呆然と後ろについてくる。

一刻も早くこの場を立ち去りたくて、エレベーターの手前にある階段を下ろうとした。
動揺と焦りと大きな荷物とで、リハビリ中の俺の脚がもつれた。
なんといっても、複雑に骨折して治ったばかりの脚だ。
あっと慌てたが、完全にバランスを失った。
両手の荷物が、余計にいけなかった。

「危ない!」
1段踏み外したところで、両側からガシッと支えられた。
「大丈夫ですか!」
「気を付けろよ。エレベーターにしようぜ。ほら、荷物貸せ。」
ミノと脇坂さんが支えてくれたのだ。
おかげで、俺は再入院の危機を逃れることができた。

荷物をミノに渡し、体勢を立て直し、ため息をついた俺の後ろで、二人の声が聞こえた。
「危なかったわ。」
「初めての、二人の共同作業だったね。」
「やだ、ほんとだわ。もし岩田さんがまた怪我して入院延長になったら、私の今夜の夜勤決定だもの。よかった。」
「あはは。」
「うふふふ。」

俺は、階段を見つめた。
わざと、飛び降りてやろうか…

その時だった。
ふわりと右ひじのあたりを掴まれた。
振り向くと、脇坂さんの笑顔がぶつかった。
「さ、エレベーターまでご一緒します。これも担当看護師の仕事ですから。」

くそっ!
俺は、安全かつ円滑にエレベーターに載せられ、玄関の外へ送られ、タクシーに乗せられてしまった。
これでは怪我のしようもない。

「ひとりで帰りたいんだったな。」
恋人を得て有頂天の生臭坊主が勝手なことを言っている。
「ああ。お幸せにっ。」
「ありがとう!」
こいつ、嫌味も通じない。

動き出したタクシーの中で、俺はぐったりと眼を閉じた。
「お客さん、退院でしょう?調子悪そうに見えますけど、大丈夫ですか?」
やけに柔らかく、温かないたわりの言葉が耳に届いた。
不審に思い、目を開ける。
丁度、赤信号でタクシーが止まった。
ぐるりと振り向いた運転手を見て、俺は目を丸くした。
気にもかけなかった運転手が、制帽の下から長い黒髪を背に流した、大きな黒目が印象的な美女だったからだ。
まるで黒木メイサだ!
独身かな?と考える端から、落ち着け、落ち着けともう一人の俺の声がした。

今夜はクリスマスイブ。
教会へ行こうか。
この荒波だった心が静まるように。
クリスチャンの俺には、ふさわしい夜の過ごし方に思えた。
幸い、こんなに綺麗な運転手さんが送ってくれるのだ。

「行先、変えてもいいですか?」
「どちらへ?」
「セント・カタリナ教会へ。」
「はい。承りました。あの…」
「は?」
「カタリナ教会って、あの、ステンドグラスが美しいと評判の教会ですよね?」
「ええ。確かにきれいですね。」
「ゴスペルの聖歌隊も有名な。」
「ご存知ですか?俺も好きで、よく聞きに行きますよ。」
「まぁ!私、評判を聞くばかりで、一度も入ったことがないんです。なんだか、無関係な人が入る場所ではないような気がして。」
「そんなことはありませんよ。誰でも、いつでも入れます。門はいつでも開いていますから。」
「お客様、いつもいらっしゃるのですか?」
「ええ。」
「では、ずうずうしいお願いですけど…ご一緒してはいけませんか?」
「え?」
「私、やっぱり一人では。でも、見てみたいんです。いけませんか?」
「いいですよ。」
「まぁ!ありがとうございます!神様からクリスマスプレゼントをいただいたみたい!うれしいわ!」

俺はもう一度目を閉じた。
仏様はミノの味方かもしれないが、神様は俺の味方だ。
さっき階段から飛び降りなくてよかったな。

眼を開けて、タクシーの窓越しに空を見上げた。
高いビルがビュンビュンと動いていく向こうに、清々しい青空が広がっていた。






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