「ルー、どうした?」
「そ、それが…だめなんです!すみません、ほんっとにっ!」

デビュー時から世話になっている編集の三枝さんは、プレッシャーをかけすぎない程度にしつこく連絡をくれる。
「何枚、書けてる?」
「何枚…あの…ゼロのまま…」
「ゼロォッ??」
電話の向こうで、端正な額を左手で押さえながらのけぞる姿が見えるようだ。
「す、すいません。」
「いったい、どうしたんだ?何があった?きっかけは??」
それがわかったら、苦労はしない。
「と、とにかく、あと1時間、いや、30分ください。三枝さん、お願いしますぅ!」
「わかった。30分たってゼロのままだったら、ほかの作家に回すからな。いいな?」
「ありがとうございます。死ぬ気で頑張ります!」

電話を切ったものの、出るのはため息だけで、アイディアのかけらも降ってはこない。
「死ぬ気を出したら書けるっていうなら、作家はみんないつでも死ぬ気だよな。お安い御用だ。」
つまらない愚痴が口を突いて出てくる。
いつか、こんな日が来るのではないかと思っていた。
先輩作家からもさんざん聞かされた、「頭真っ白 魔の時」が、俺にもとうとうやってきた。

小説を書き始めたのは小学生の頃からだ。
おもろい友達をモデルにしたり、空想の世界の魔人と妖怪を戦わせたり。
ネタに困ることなど全然なかった。
世の中のすべてが小説の材料で、誰もを主人公にできる気がした。

大学生の時、何度目かのコンクールに応募した作品が、三枝さんの目に留まって、声をかけてもらったのが、デビューのきっかけになった。
デビューといっても、いきなり単行本が出せたわけではない。
あっちの雑誌にちょこっと、こっちの雑誌にちょこっとと、短編やらエッセイやらを書いた。
小説家だから小説しか書きませんなんてご時世ではないのだ。
エッセイストはエッセイしか書かないかもしれないが、小説家はエッセイも書く。
特に、紀行文は大切なジャンルだった。
俺は、書くために、旅を覚えた。

作家としては、至って平凡な展開だと思う。
ちょっと話題になることが続いたころ、単行本の話をもらった。
それまで書き溜めていたものから、三枝さんのお眼鏡にかなった小説を手直しし、出版した第一作『羊は雨の夢を見る』は、サラリーマン層の心をつかんで、大ヒットとなった。

すぐに次作の話が来て、第二作に選んだのは『カサブランカを花束にして』だ。これは、甘いタイトルに惹かれたのか、女性からのウケがよかった。
第三作は書下ろしにしようという話になった。
しかも、マルチメディアを意識して…つまり、最初は小説だけれど、ドラマ化、映画化、漫画化をあらかじめ想定して書けというお達しだった。
これは、面白いチャレンジだった。
三作目にしてドラマ原作となったら、そしてそのドラマがヒットしたりすれば、その後の発展は火を見るよりも明らかではないか!

その三作目『フローラルバトル』は、男女の恋愛を描くのが王道だった当時、女性二人を主役にしたストーリーが目新しく、イメージしていた女優が2人ともオファーを受けてくれたこともあって、大当たりのドラマ化、続編を映画化、そこらへんをすべてまとめて漫画化の運びとなった。
『フローラルバトル』で初めて、締切に追われるという経験をしたが、それは「充実感」と言い換えられるようなプレッシャーで、どちらかと言えば、本当の作家として認められた喜びの方が大きかったのだ。

あれから、何本書いたのだろう。
書いて、書いて、書きまくった。
テレビにも出た。賞ももらった。
ついでに、嫁ももらった。
俺の小説のファンだという女性のひとりと、会ってみたら妙に気が合った。
会ったとたんに「ああ、俺はこの女と結婚するなぁ」と思ったのだから、しかたない。
実は嫁もそう感じたという話になって、結婚を決めるのに劇的なドラマなどなかった。

しかし、いつからと言われて、こうして振り返ると、あの結婚したあたりから怪しくなった気がする。

嫁がいる暮らしは、静かで落ち着いていて、温かかった。
一人暮らしが不便だったわけではないし、落ち着かなかったというのでもない。
寂しいと思ったこともないし、別に困ってもいなかった。
でも、二人になってみたら、以前の自分がひどく依怙地で、偏屈な気がした。
俺も普通に人間なんだなぁなどと、おかしなことを考えた。

そうだ。あのあたりから、小説を書く題材に困るようになった気がするぞ。
嫁を連れて、旅行にもでかけた。
けれど、風景がきれい、飯がうまい、温泉が心地よい。それだけだった。
旅先の人が語る、都会では考えられないようなエピソードも、何ら刺激とはならなかった。

それでも、困った時には、子供のころから書き溜めた、あれやこれやが俺を支えてくれた。
あれとこれをつなぎ合わせたり、こっちとそっちをかけ合わせたり。
それでこの6年ほどをしのいできた。
でも、もう、そのストックも底をついた。

今は、書きたいとすら思えないのだ。
しかし、世間は俺の小説を待っている。
出版社も、編集さんも、みんなが待っている。
とっとと出せと怒鳴りつけたいところを、忍耐に忍耐を重ねて待ってくれている。
俺はその期待に応えたい。
でも、今までのように、世間をあっと驚かせたり、同情を引いたり、共感を呼んだり、スカッとさせるようなものは何一つ、浮かばないのだ!

30分くれと言ったうちの10分が過ぎた。
俺は居たたまれずに、仕事部屋を出て、リビングに行ってみた。
リビングでは、嫁が相変わらずパッチワークをしている。
キッチンに回り込んで、蛇口から勢いよく出した水をコップ一杯飲みほした。
それから、嫁の向かいのソファーに、ドカッと腰かけた。

「俺、もう書けないみたいだよ。」
「そう。仕方ないわね。」
嫁は、パッチワークから顔を上げもせずに答えた。
「仕方ないわねって、お前、平気なのか?心配しないのか?」
「心配したら書けるの?だったら、心配するけど?」
「いや、そういうことでは…。」
「あ、ここできた。」
一区切りついたらしい嫁は、だいぶ大きくなったちぐはぐな布をふわりと膝から落として、俺の方に向き直った。

「書けないなら、書けるまで、書かなきゃいいじゃない。」
「おいおい、簡単に言うなよ。編集さんも待ってくれているんだぞ。」
「だって、あなた、機械じゃないし、編集さんの道具でもないのよ。れっきとしたクリエイターでしょ?だったら大切なのは、あなたのタイミングじゃない。」
「そうは言っても、今度の企画は大きいから、逃すのは惜しいんだよ。」
「逃したら、何か失うの?」
「へ?」
「その企画とやらを逃したら、もう二度と書けないの?」
「いや…そういうわけでは…。でも、待ってくれている人たちの期待を裏切る。失うのは、信頼だよ。」
「作家なんて水物、信頼している方がどうかしていると思うわ。」
「おいおい…。」
「信頼って、するほうの責任でしょ?された方には応える義務があるわけじゃないわよ。」

俺はあっけにとられた。
俺の嫁は、こんなことをいう女だったのか?
「理想は理想だと思う。でも、現実はたいがい理想通りじゃないのよね。だとしたら、見つめるべきは理想の方じゃなくて、現実じゃないのかしら。」
嫁は、まるで晩御飯のメニューを相談するかのような口調で、処世術を語っている。
「現実と戦うからおかしなことになるのよ。事実を認めないで抵抗するから狂っていく。今、あなたの事実は、書けない、書きたくないってことなのでしょう?だったら他人が何を言おうと、自分の現実を受け入れるしかないでしょう。」

俺が返す言葉を探しきれずにいると、嫁は続けて言う。
「戦略を立てるのよ。今がこうだと認めて、そこからどうするかを決めるの。
私には、あなたが永遠に書けないなんて、どうしても思えない。
だったら、学生に夏休みがあったり、サラリーマンにお正月休みがあるみたいに、あなたも『書き休み』があってもいいじゃない。それで、その間に、これからどうやってまた書けるようにしていくか戦略を練れば、休んだことがかえってよかったってことになるかもしれないでしょ?」

ごく普通のOLだった嫁が、いつの間にこんなことを言えるようになったのだろう。
俺が書くことには、一切口出ししない嫁なのだ。
乾ききった大地に降り注ぐ雨のように、嫁の言葉は俺の胸に沁み込んでいった。
「そうだな。あと10分でお茶を濁すより、あと10分しかない現実を認めるか。」
「あと10分まで追い詰められた小説家の小説を書くんじゃなければね。」
嫁はコロコロと笑って、ココアを淹れてくるねとソファーから立ち上がった。

俺は、真っ白になっていた頭の中に、一筋の光が差してきたことに気が付いていた。
現実、抵抗、認める、戦略、追い詰められた男…俺自身。
戦略…戦略!

「おい!」
俺はソファーから勢いよく立ち上がった。
カウンターキッチンの向こうから、ココアの袋を手に持った嫁が顔を上げる。
「俺、三枝さんのところへ行ってくる。」
「そう。いってらっしゃい。」
「しばらく帰ってこないかもしれないけど、大丈夫か?」
「うん。平気。」
嫁は穏やかに微笑んでる。

「お前…パッチワークしながら、すごいことを考えていたんだなぁ。」
靴を履きながら言うと、嫁は吹き出した。
「当たり前でしょ。全然関係ない布同士をつなぎ合わせて、一つの作品にするのよ。適当にやっていたら、ただの継ぎはぎにしかならない。どう進めていくか、どう進んでいるか、常に戦略を立てるのがキルトよ。」
「そうなのか。」
「ルーさん。」
「ん?」
「いってらっしゃい。」
「おうっ!」
「もしもすっごい小説が書けたら、記念に指輪がほしいなぁ。プラチナの、ちょっとかわいいデザインのをみつけたんだけど。」
「ああ、買ってやる。待ってろよ!」

財布とケータイだけ握って飛び出した俺は、駅に向かって走りながら、三枝さんに電話をかけた。
「俺、書けるかもしれない。今からそっちに行きます。俺を缶詰にしてください!絶対、書いてやる!」


俺の代表作になった『プラチナキルト』は、こうして誕生した。






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