「ルー、どうした?」
隣に座っている親友は、ずっと無言のまま真正面の噴水を虚ろな眼差しで見ていたのだが、今は首を少しだけ巡らせて、何もない方向を見ている。
できるだけ静かな、圧力のない声になるよう気を付けながら、私はもう一度尋ねてみた。
「ルー?どうしたの?何を見ているの?」
ルーはスローモーションで私の方を見ると、無表情のまま答えた。
「あれ。」
ルーがのそりと指差した方向を改めて見てみる。
晩秋の青空の下、人々がのんびりと行き交っている。
幼い子供を連れた母親や、旅行鞄を提げた人たちもいる。
道路の向こうは芸術大学、そして博物館。
幅の広い横断歩道を歩く人の中には、異国からの旅行者も多数見受けられた。
かと思えば、この公園の端の方、木立のあたりを歩いている人の中には、たぶん家もなく、家族もなく、その木立の奥で寝泊まりしているかと思われる人々も見えている。
ルーが言う「あれ」が何のことかわからず、私はもう一度聞いてみようかと思ったが、やめておくことにした。
もしかしたら、それは、ルーにしか見えないものかもしれないからだ。
ルーに何があったのかは、正直なところ、よくわからない。
ルーはいろいろと話してくれた。
けれど、ルーが見たり感じたり聞いたりしたことばかりだから、当然だけど、そういうふうに感じているところにそう言われたら、そう思うしかないよねと納得せざるを得ないことばかりだ。
しかも、断片的で要領を得ない。
もしも私がその場にいて、少しでも客観的な立場で出来事を観察できたなら、もう少し違う見方もできるのかもしれない。
が、ご近所さんで小学校6年間同じクラスで、その頃は親友だったいうだけで、高校から後は通った学校も就職先も、仕事の中身も何もかも違って、それぞれに新たな人間関係を持ち、互いに少しずつ離れていった。それほど会いもしなかった仲なのだ。
一人暮らしをしながら仕事をしていたルーが突然実家に帰ってきたと母から聞かされたのは、三月ほど前、まだ暑い盛りのことだ。
ずっと実家暮らしの私には、海外や地方へ、仕事だの結婚だのでこの街から離れていった友人が多いので、 ルーもその中のひとりであり、それが帰ってきたと聞いても、別段どうとも思わなかった。
でも、おばさんがわざわざやってきて、娘が会いたがっている、来てやってちょうだいと言った。
事情があるとも聞かされた。
驚かないでねと繰り返し言われながら連れていかれたら、ルーが、夏の明け方、木の根元に残っている空蝉のように座っていたのだ。
会いたがっていたというのも本当なのか、おばさんが私を誘うための口実だったのか、やっぱりよくわからない。
ルーは私を見ると、ひっそりと笑顔を浮かべ、「宿題一緒にやる約束したっけ?」とつぶやいた。
困惑する私に、おばさんが、ルーの背中に隠れて手を合わせている。
私は、ルーの話に乗ってやってほしいというおばさんの気持ちを汲んだ。
「うん。でも、宿題はあとにして、おしゃべりしようよ。」
ルーはその時、古ぼけて目や爪の色が剥げかけ、金髪の縮れ毛がもつれたボロボロの人形を抱いていた。
その擦り切れたベルベットの赤い服を見て、私はそれが、ルーが小学生のころ、とても大切にしていた人形だったのを思い出した。
そして、大切な人形を抱きしめているルーの手首に、真新しい傷が…切れ味のよい刃物を当てたような無数の傷が…ついているのが見えた。
おばさんは、息ができないほど強く口元を押さえて、声を出さずに泣いていた。
小学生の時のルーは優等生で、いつも学級委員をしているような優しい子だった。
いじめなんて絶対しないし、いじめられもしない。
クラスの一員でありながら、どこかクラスから超然としているような子だった。
転校生が来たときや、たんぽぽ学級の子たちが音楽や体育の時間だけやってくるときも、真っ先に寄っていって面倒をみてやる。
そういう子だった。
でも、中学、高校と進むにつれ、私たちは同じように、普通の女の子になった。
これといって人に勝るものはない。
絶対の趣味があるわけでもなく、特徴もない。
格別美人でもなく、かわいくもない。
どうしても叶えたい夢があるわけでもなく、それを探しに行く気持ちもなかった。
それでも、当たり前に社会人になり、いつか結婚して、自分たちの両親がしたように家族をもつのだろうと、漠然と思っていた。
当然それぞれ恋もした。
お互いに、彼と歩いているときにばったり出会ったこともある。
そんな時は無言で見交わしながら、「私の彼の方がステキだもん!」と思ったものだった。
きっと、ルーも同じことを考えていたと思う。
思っては、おかしくて笑えるのだ。
おばさんが呼びに来た日以来、私は時間ができると、ルーを訪ねるようになった。
ルーは何時に行っても、寝ていることはめったになくて、いつも同じ場所で、同じ人形を抱いてぼんやりと座っていた。
すっかり忘れていた出来事を不意に言われ、思い出した私が驚くこともたびたびあった。
かと思えば、誰と勘違いしているのか、もうくびになってしまったはずの仕事の段取りを相談されたり、最近別れたらしい恋人の愚痴を聞かされることもあった。
それだけではない。
ルーは見えないものが見えると言ったり、いない人がいると言ったりした。
私には聞こえない声を聴き、怯えることもたびたびあった。
私は当惑しきった。
どうしたらいいのかわからないではないか!
こんなふうになっている人に、頑張れとかしっかりしろとか言ってはいけないことくらい、無知な私だって知っている。
けど、大丈夫とかなんとかなるとかいう、無責任なことも言えなかった。
本を読んだり、ネットで調べたり、詳しそうな知人に聞いたりしてみたけれど、どれも、ルーを目の前にすると机上の空論になった。
それでも私は、ルーに会いに行くのをやめられなかった。
夏が去り、短い秋がやってきたころ、ルーはすっかり無口になっていた。
少しは頭の中が整理されたのだろうか、過去の思い出を語ることはほとんどなくなったが、幻覚や幻聴は続いているようだった。
ある日、ふと思いついて、私はルーを散歩に誘ってみた。
すると、不思議そうな顔をして見せたルーは、思いがけないことを言った。
「噴水が、見たいな。」
ルーに会いに来るようになって2か月、ようやく対話ができた初めてのことだった。
まるで幽霊のように、ルーはふわりふわりとゆっくり歩く。
私はその脇に寄り添って、同じ速さで歩くのが大変だった。
ゆっくり歩いてみて、自分が普段いかに速く歩いているかに気付いた。
ルーは、一度にひとつのことしかできなくなっている。
「ながら」がない。
だから、歩いている間は何も話さない。
なのに私は、返事をしないルーに、思いやりのつもりでずっと語りかけていた。
今日はいい天気だね、ルーに歩く気力がわいて嬉しいよ、ほら博物館に人がいっぱい並んでいる、何の展示だろうね…
でも、何度目かの散歩のときに、私は気付いた。
ルーは歩くのに精一杯で、返事をしないだけでなく、聞くこともできていないのではないか。
私の声は耳障りな雑音になっているのかもしれない。
私は口を閉じた。
ルーの眉間に寄っていたしわが、ゆっくりと消えていくのを私は見た。
あのしわは、歩くのがしんどくてついていたのではなかったんだ!
思いやりから出た言葉でも、時に暴力になり得ることを私は知った。
石の段差にフリース毛布を敷いてルーを座らせた。
ルーはされるがままに腰かけると、高く低く溢れ出す水の形をじっと見ている。
それだけだ。
口を閉じた私は、ただルーの横にいるだけになった。
小一時間そうした後、ルーの体が冷える前に、家に連れ帰るのだ。
だんだん散歩に慣れたルーは、私が行くと、調子がよい日は黙っていても外に出ようとするようになった。
それは、好ましい変化のように思われた。
それでも、相変わらずほとんど何も話さない。
いつも同じ場所に座り、同じように噴水を眺めていた。
私はそんなルーにぴったりと体を寄せて、腕と腕を触れ合わせた。
私の体温が伝わって、私がそばにいることがルーにわかるといいな。
それしか、できることがなかったのだ。
「あそこに、ハトが、いるね。」
だいぶ間があってから、ルーがぼそりと言った。
なるほど、さきほどルーが指差した方向に、確かにハトの群れが地面に降りていて、えさをついばんでいる。
珍しいな、ルーがそんなことを言うのは。
「ハト、たくさんいるね。」
私は短く答えた。
そうか。ルーはハトを見ていたのか。
「こども…」
「こども?」
言われてみれば、まだ歩き方がぎこちない幼子と、その姉だろうか、もう少し大きい子が、ハトを追い回して遊んでいる。
「かわいそう…」
「かわいそう?」
「ハト、かわいそう。」
ルーの目から大粒の涙がぼたぼたと落ちた。
「こどもが、じっと、していたら、ハトは、安心して、寄ってくるのに。あんなに、脅かして、不安に、させて。」
ルーの目には、こどもがハトをいじめていると見えているのだろう。
確かに、しつこく追い回しては歓声を上げている姿は、動物愛護の精神からは遠いかもしれない。
「ルー。心配しなくても大丈夫よ。ハトは羽があるし強いから、こどもに追いかけられたぐらいでは不安にならないし、ちゃんとエサも食べられるよ。だから、泣かないで。」
バッグからハンカチを出して、ルーの涙をぬぐってあげようとした時だった。
ルーの焦点がぼやけた目が、私を捉えた。
「ハトの、なかにも、わたしみたいな子が、いるかも、しれないのに。」
そうだわ。
私は自分の冷たさに気付かされた。
それでも、ごめんと言えなくて、また黙ってルーの腕にくっついた。
ルーはそれきり何も言わず、くっつけた腕を振り払おうともせず、また噴水を眺め始めた。
ルーは、こんな時でも、どこまでも優しかった。
もうひとつのエッセイブログ『ゆるるか』不定期に更新中!
人気ブログランキングへ
コメント
コメント一覧 (4)
そういうときは、じっと見守るのが一番なんですね。
私も、話しかけたりしていたかも。
見えないものが見える人がいる一方で、見えるものが見えない人もいます。
人間の視覚って不思議。
見えるものが見えない人!
まさにそういう人のためにこじれたことで多忙を極めています。
人のミスは見えても、自分のミスは全く見えない人とか、
目の前に展開しているものが全然見えないとか。。。
ほんと、不思議です。トホホ
内の前に、小さいころから、かぎっ子だった子がいて・・
両親とも、お仕事していたので、帰ってくるまで、
内のお店で、ゲームやって遊んでいた女の子がいるのです。
そのこが大きくなって、男の人に乱暴されそうになった子を助けるために、
その子が、助けに入ったのです。
でも、今度は、逆にその子が乱暴されてしまって・・
その時に、まわりにいたお友達が誰も助けてくれなくて・・・
そのこは、とうとう、誰も信じられなくなり、心の病気になってしまったんです。
その方の心の痛みを思うと言葉もありません。
いろんなことがあるけれど、壊れずに生き抜くためには、人生の早い段階で、準備が必要ですね。
最近、その準備がないままに社会に出た人が起こす事件が多くなった気がします。