「ルー、どうした?」
大声で聞いてきた夫の質問の意味が分からなくて、私は掃除機を止め、聞き返した。
「何?」
「だから、ルーだよ、カレールー!」
「なーんだ。さっきカウンターに置いたスーパーの袋に入っているでしょ?」
「ないよ。ないから聞いてるんだよ!」
「そんなはずは…」

掃除機をテレビの前に置いたまま、私は袋の中を自分で確認した。
すでに夫が取り出した玉ねぎやニンジン、じゃがいも、いつもより若干ゴージャスな牛肉や、彼のリクエストで買い足した焼き肉のタレとかセロリとかが、全部取り出されてカウンターに並べられている。
だから、袋の中はもう空っぽで、確かにカレールーが入っていない。

「あ!」
そうだ。
私は思い出した。
「バーモントカレーじゃなくて、グリコのZEPPIN中辛を買って来て」と言われたので、 探したのだったっけ。
なんでも、ルーが二層になっていて、ほかのものとコクが違うらしい。
めったに料理などしない夫だが、私の誕生日である今日は料理担当をするといって、彼が唯一ハズレなしに作れる料理、カレーが今夜のメニューと決まった。
ほかに用事もあるからと、買い物は私がすることにして、頼まれたものを買い揃えたはずだった。

「ごめん!買い忘れちゃった!丁度ZEPPINを探していた時に、お隣の佐々木さんの奥さんに会って、一緒にレジに行っちゃったんだわ!」
「ママ、そそっかしー。」
娘の多喜まで夫と一緒に笑っている。
「ルーがないとカレーにならないけど、いいの?」
「わー。私、今夜はカレー気分満タンよ!でも、掃除途中だし…。ねえ、多喜ちゃぁーん…」
「ダメ。これから、ママのバースデーケーキ作るんだもん。」
「その前に、ちょっとだけ買い物行ってきて!お願い!」
「もうバター溶かし始めちゃったもんねー。」

それが買い物に行けない理由になるかどうかは怪しかったが、小学生のころと違って、中2の娘はこのところ言い出したらガンとして譲らず、自分の主張を貫く。
大人らしくなってきたということか?と思うと、かわいくないけど、頼もしかったりもする。

私は楽しみにしているのだ。
自分の母が看護師で仕事が忙しく、忙しくないときは疲れていて、子供の自分が気遣ってやらなければなならない存在だったことを、いつも寂しく思っていた。
だから、多喜が年頃になったら、私は多喜と友達みたいになって、コンサートやショッピングにふたりででかけるのだ!
本音で言いたいことが言い合える親子。
遠慮して、言いたいことも我慢して、大人ぶって過ごした自分の子供時代を、多喜には繰り返させたくなかった。

「しょうがないなぁ。もいっぺん買い物に行ってくるから、待ってて。」
「ママ、よろしくねー。」
夫も娘も、それぞれに機嫌よく、私の誕生日を祝おうとしてくれている。
なんだかくすぐったい幸福感。
もちろん、悪い気がするはずがない。

外はすでに暗くなり始めている。
日中買い物に出かけたときは、きちんと着替えてメイクも整えたけれど、帰宅したときにすっかり着替えてメイクを落としてしまった。
歩いて7分くらい、ご近所のスーパーだからまあいいかと、普段着のままサンダルをつっかけて出かけた。

いつもの週末なら朝いちばんに掃除を済ませるのに、今日は外出が先だった。
もうすぐクリスマスイルミネーションが飾られる駅前の並木道を過ぎながら、すっかり手順が狂っちゃったわと思った。
イルミネーションか。
素足のつま先が冷たく感じる季節になったことに、一年ってホント早いわと襟元を合わせたとき、目が、駅から出てきたひとりの女性をとらえた。

どこかで見た女性だと思った。
黒いエナメルのピンヒールにタイトなスーツ。
ひじにかけたケリーバッグはきっと本物で、100万は下らないだろう。
手にした書類をきれいなネイルの指先でトントンとたたきながら、脇を歩くスーツのイケメンと何事か話しながら歩くその姿は、10年前の自分のようだ。

10年前。
それで思い出した。
初枝さんだ!
あれは、初枝さんに違いない。
私が会ったとき、彼女は今の私のような恰好をしていて、私は、今日の彼女のようなスーツを着ていたのだ。
どうして彼女がいまここに?

初枝さんは、夫の前妻で、多喜の生みの母なのだ。

私はそこから一歩も動けなくなった。
向こうから歩いてきたまま、彼女と連れの男性は私に気付きもせずに、横を通り過ぎていった。
「そこのデザインはやはりこちらの方が…」
そんな彼女の声が聞こえた。
恐る恐る振り返ったが、初枝さんはやはり私に気付かなかったようで、そのまま遠ざかり、姿を消した。



私はふらふらとスーパーにたどり着き、食品コーナーを通り過ぎると、レジの先にあるベンチにへたり込んだ。
まさか、こんな風に彼女を見かけるとは思ってもいなかった。
こんな近くに!
仕事のようだったけれど、私たちがここにいることを知っていて来たのだろうか。
それとも偶然?
心臓が、どくどくと音を立て、耳の後ろが脈打っている。

私と夫とは、夫がまだ初枝さんと夫婦でいる間に知り合っていた。
会社の同僚で、気軽にランチも行けば飲み会もする気の合う仲間のひとりとして。
妻が浮気をしている気がすると、彼から相談されたのが、ふたりだけの時間をもつきっかけになった。
本当のところ、初枝さんが浮気をしていたのかどうかは今も知らない。
でも、夫は離婚を決め、親権は絶対に渡さないと息巻いていた。
初枝さんは娘を連れて出ると言ってきかないらしかった。

当時の私には夫への恋愛感情はほとんどなく、ただ、気遣わしい男性だと感じる程度だった。
でも、今となってはそれも自信がない。
そう思っておくことで、不倫じゃないわと自分に都合のよい理解をしたかっただけかもしれない。

あの日。
私が初枝さんに会った唯一の日。
休日だった。
私は夫に呼ばれて、お昼ご飯を一緒に食べることにした。
駅のそばのファミレス。
何を着ていけばよいかわからず、ファミレスには不似合いと感じつつも、仕事着にしているスーツを着て、ハイヒールを履き、仕事使いのバッグを持ってでかけた。
デートだと誤解されるのが嫌だった。
でも、誰が誤解するのを恐れているのか、自分でも分からなかった。

行ってみると、夫はまだ3歳の多喜を連れていた。
可愛らしい女の子だった。
色が白くて、ほっそりとして、髪を少し伸ばして三つ編みにし、先にリボンを結んでいた。

人見知りをしない女の子はおしゃべりで、一人暮らしでどちらかといえば静かに過ごすことが多い私には、楽しい会食だった。
多喜ちゃんがお子様ランチについていたプリンをおいしそうに食べていた時だった。
不意に、ジーパンにTシャツ姿、かなり履きこんだスニーカーの女性がテーブルの脇に立った。
「初枝…。」
「ママ!」
ふたりの声で、それが初枝さんだと知った。

「そっか。そういうことなんだ。」
初枝さんは化粧っ気もなく、家事をしていた専業主婦そのままだった。
「でかけたんじゃなかったのか?」
「私がでかけたら、女と会うわけ?」
「違う。昼飯を作るのが面倒だったから、外に食べに来ただけだよ。」
「じゃ、この人はなに?」

燃えるような眼で睨まれた。
その鋭い表情が、私の脳裏に焼き付いた。
私は自分の立場がどういうものか、うまく言葉にできなかった。
まごまごしていると、初枝さんは低くふふふと笑い出した。
自嘲的な笑いだった。
「わかったわ。私が出ていく。多喜は置いていくわ。さよなら。」

夫は、驚いた顔をして何も言わなかった。
言わない代わりに追いかけたりもしなかった。
ただ、多喜ちゃんだけは、火がついたように泣き出した。
ママ、ママと追いかけようとした。
何をどこまで理解したかわからないが、ママとは会えなくなるのだということが、この幼い心にも瞬時に理解できたのだと思うと、いたたまれなかった。

2人席の通路側にパパがいなかったら、きっと多喜ちゃんはママを追いかけたに違いない。
でも、パパを乗り越えられなくて、そのパパに抱きすくめられたまま店を出た。
泣き止まない多喜ちゃんに、私は言ってしまったのだ。
「泣かないで。私が多喜ちゃんのママになるから。多喜ちゃんを一人にはしないから!」
両親が取り合うならまだいい。
母に捨てられた幼子の胸の内や将来を思うと、切なくていとおしくてたまらなかったのだ。
そうやって、私は人生初の夫と娘を同時に得た。

あれから10年。
結婚した私たちはこの街に引っ越して、新しいマンションを買った。
初枝さんからは一度の連絡もなく、多喜はただ一度の面会さえしていない。
私は初枝さんがどこに行ったのかさえ知らず、何をしているかと話し合ったこともなかった。
多喜も、どういう気持ちからか、初枝さんのことを言い出したことが一度もない。
もしかしたら、幼すぎて覚えていないのだろうか?と思ったりもする。
その不自然なほどの態度に疑問を感じつつも、言われても困る自分の都合が、そのことをはっきりさせるのを拒み続けてきた。

夫は、本当に初枝さんと連絡を取っていないのだろうか。
多喜は初枝さんに会いたくないのだろうか。
いや、本当に、会っていないのだろうか。
私はたまらなく不安になった。

多喜と過ごす時間がほしくて、私は仕事を辞めていた。
数年前からパートに出るようになったが、キャリアウーマンを自認していたころのスーツの私はもういない。
後悔はしたことがないけれど、あのまま仕事を続けていたら、今頃どんなふうになっていたのかなと思うことはあった。
でも、仕事と引き換えるには、多喜と夫との暮らしは幸せすぎた。

いっそ、初枝さんが死んでしまっていたなら。
私はとんでもないことを考えた。
いっそ死んでしまっていたなら、私は多喜と一緒に初枝さん冥福を祈っただろう。
多喜を生んでくれたことを、心から感謝し、私の心の中に初枝さんを住まわせて、ともに多喜の成長を喜んだことだろう。
ひとりの人間が生きているということが、これほどの重荷になるとは。
正しく生きたい大人の私としては、こんなことを考える自分が許しがたかったが、生身を生きる私は、そう思わずにいられない自分を、叱ることができなかった。


「そうだ。ZEPPINカレー…」
いつの間にか眼のふちにたまった涙をぬぐって、私は立ち上がった。
夫のリクエスト通りの中辛を買い、また初枝さんに会うのではないかと半ば怯えながら家路を急いだ。

「おっそーい!」
「何買いに行ったか忘れちゃったんじゃないかって話してたんだよなぁ。」
「もうすぐケーキも焼けるよ!でも、ちょっと冷ましてからクリームで飾りをつけるから、それまで見ちゃだめだよ!」
「ほら、ルー出して!もう入れないと、味がしみ込まないよ!」

何も知らないふたりが、口々に話しかけてくる。
ここには、私が大事に築き上げてきた幸せが揺るぎなく存在している。
でも、本当に揺るぎないのかしら?
背筋を冷たいものが滑り落ちていく。

「ママ?」
「なに?」
「お掃除、やっておいたからね。掃除機もちゃんと片づけたよ。」
「ああ、ありがとう。」
「それでね、あのね、冬のスカートがほしいんだけど、買ってくれる?」
「え?いいけど、行けるの?部活は?」
「テスト前だから、土日ともお休み!」
「行こうよ、3人で。パパがふたりにプレゼントするよ、おしゃれな妻と娘はパパもうれしい。」
カウンターごしに、夫が声をかけてくる。
「うん。じゃ、行こうか。3人で。」
「やったぁ!」

お誕生日おめでとうと、ふたりから花束をもらった。
多喜が焼いてくれたパウンドケーキには、私の好物のドライフルーツがたんと入っていて、脇にそえた生クリームがとろけるように滑らかで甘かった。
そして、夫が作ってくれたカレーの味は、これといって特別なものではないけれど、かけがえのない私の家族の、特別な味がした。

いつか。
もしも、いつか、初枝さんがこのふたりを取り戻しに来たら、私は見苦しく戦おう。
髪をふり乱して、涙を滝のように流して、唾を飛ばして懇願しよう。
正しくなくても、カッコ悪くても何でもいい。
私はあなた方を手放したくない。決して、決して離れない!
夫のカレーの、いつもより大きなじゃがいもをほおばったとき、肚が決まった。
さっきまで、ふたりの気持ちや行動を疑っていた自分が、微笑みながら消えていった。
がんばって。
消えていく、不安な自分に励まされた。

「どうしたの?ママ、泣いてるの?」
多喜が驚いている。
「パパ、多喜、ありがとう!」
私の大切な宝物たちがふたりで目を丸くして見合った後、
「おおげさー!」
と笑い出した。






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