「ルー、どうした?」
「どうもしないわよ。何か文句ある?」
接待で遅くなったとはいえ、まだ日付が変わる前に帰宅できたのに、妻は不機嫌色のオーラを全開にして、ひとり酒を飲んでいた。
すでに、受け答えが喧嘩腰になっている。
くわばら、くわばら。
酔いが強いふりをして、さっさと寝室に逃げるべし。

「遅くなってすまなかったね。じゃ、おやすみ。君もあまり遅くなるなよ。」
ちょっとろれつが回らないあたりを強調しつつも妻への配慮を見せて立ち去ろうとしたのだが、無駄な抵抗だったようだ。
「妻の話なんか聞く価値ないってわけ?」
「そんなことないよ。美味しそうに飲んでいるから、邪魔しちゃ悪いかと思って…。」
「美味しい?夜中に豆電球で飲む安いウイスキーが旨いってか??」
そういえば、テーブルの上の電燈は豆電球になっている。
侘しさを醸し出す作戦だったのか!
「聞くよ。何かあったんだね?」
「あったわよ。情けな〜〜〜いことが!」
 
妻がガンッと音を立ててグラスを置く。
見れば、安いウイスキーと呼ばれたボトルは、俺のメーカーズマークではないか。

赤い封蝋を切るのは、格別よいことがあった時にと決めて隠しておいたのに。
気づいていたのか! 
がっくりきたが、しかたない。
見つかったのがブッカーズでなくてよかったと思うことにしよう。
いや、隠し場所を変えた方がいいか。



俺はせめて厄を落としたくて、ミューズで丁寧に手を洗った。
それからテーブルに戻り、しかたなしに座った。
俺の酒だ。
飲まずにいることもないだろう。
おそろいのグラスを出してきて、手酌にした。
えもいわれぬ芳香が鼻孔をくすぐる。

「で?どう情けなかったか、聞かせてもらおうか。」
すでに酔っている妻の眼が座っていて、闇夜の猫のようにギラギラと光っている。
「周一よ。」
「周一?あいつ、また何か君を怒らせるようなことをしたのか?」
「面談、行ってきた。」

迂闊だった。今日が面談日だと何度も言われていた。
同行してくれとまで言われたのに、どうしても休めないと断った。
それをすっかり忘れていたとは!
「それで?」
「いきなり聞かれたわよ。『進学資金は潤沢ですか?浪人は何年までできますか?』って。」
「進学先の前に、浪人の話か?」
「そうよ。それも、浪人できますか?じゃなくて、何年できるか?って聞かれたのよ!」
「つまり、周一の成績は非常にむごいことになっているってことだな。」
「そんなことは、分かってる!」

分かっていたなら、今日に限ってそんなに怒ることもあるまいに。
などと考えている俺を、妻はすでに青白くなった目で睨んでくる。
「おい、あまり飲むなよ。それで、どこらへんに行けそうだって?」
「わからないって言われたわ。」
「え?」
「地域の中学校から高校へ進んだ時とちがって、確実な線は見えないものだから、全国模試の結果を参考に当たりをつけるしかないのだけど、周一の場合はさっぱりわからないって。」
「どうして?」
「はっきりしているのは、周一が進学希望先に挙げているような大学に一発で入るのは可能性ゼロ、お金さえ払えば誰でも入れてくれるようなところならまぁ、資金次第でなんとか。あとは、本人の劇的な成長に頼るしかないですね、アハハ!だそうよ。」

俺がいくら鈍感で迂闊な夫でも、担任から面と向かってそんなことを言われた妻の落胆と憤りくらいは理解できる。
「いくら3年間持ち上がっちゃった担任でも、可能性ゼロと断言されるのはどうかと…。」
「いいえ!先生がおっしゃるのは間違ってない。恥ずかしいけど、きっとその通りよ。腹が立つのはその後!」
妻はテーブル越しに身を乗り出してきた。
「私が返す言葉もなく帰ってきたら、周一がそこで漫画読んでた。」
妻が指差した先は、今俺が座っている場所だ。
「それも、受験生の高3男子が少女漫画よ!」
周一は子供のころから、男の子が好みそうな戦隊ものよりプリキュアや妻が読んでいる少女漫画のほうが好きだった。

「母の胸の内も知らずに、無邪気にハハッとか笑って、私を見たとたんに、漫画を指差してこう言ったのよ。『母ちゃん、この子、可愛くね?萌え〜〜!』」
周一の口まねがとても似ていたので、俺はつい吹き出した。
そんな俺を口から炎でも吐き出すかと思われるほど恐ろしい顔つきで睨んだ妻は、机を平手でぶったたいた。
「『萌え〜』よ!情けないったらありゃしない!!!!」

妻ははその時のことをまざまざと思い出したのか、怒りに目を潤ませて説明してくれた。
妻の話はこうだ。

はぁ?と睨みつけたら、形勢不利と感づいた息子は、そそくさとテーブルから逃げ出した。
そのだらしない姿を見たら沸々と怒りがわいてきて、思わず背後に駆け寄り、息子の背中に向かって思い切り跳び蹴りを食らわしてやった。
これまで、手をあげたことなど一度もなかった。
大事に大事に育ててきたはずなのに。
私の可愛い、ステキな王子様のような男性になるはずだったのに。

萌え〜??

この、バカ息子がぁっ

廊下に腹這いに倒れた息子は、驚いた顔で振り返ると、ニヤリと笑って言った。
「何すんだよ、母ちゃん!痛てーだろーが!」
こいつ、蹴られて喜んでいるのかしら?
そう思ったら、情けないのを通り越して、呆れ返った。
「もう、あなたのために晩御飯なんか作らないからね!掃除も洗濯も、全部自分でしなさい!」
何の説明もなしに啖呵を切られて驚くだろうと思いきや、息子はやはりニヤリニヤリとしている。
「何急に怒ってんだよ〜。更年期じゃねーの?」
妻は起きかけた息子の脇に駆け寄り、背中を思い切り踏んづけてギャフンと言わせてやった…。

俺は黙って立つと、風呂場に行った。
昨日の残り湯がそのままになっている。
周一は、晩飯を作ってもらえないと知っても動じることなく、じゃ駅前でラーメン食ってくるわと出かけていき、1時間もしたら戻ってきて、自室で音楽を聴いていたらしい。
ごめんなさいと謝って、妻にご飯の支度を頼まなかったことも、妻のプライドを傷つけたようだ。

手早く風呂の掃除をして、浴槽に新しい湯を張った。
扉の脇に、洗い立てのバスタオルとフェイスタオル、それからラベンダーの入浴剤を出しておいてから、テーブルに戻った。
妻は机に頬杖をついていて、疲れ切った顔をしていた。
もはや飲む気はないらしい。

「もう遅いけど、風呂掃除したから入っておいで。そんな気になれないかもしれないけど。」
「ああ。ありがと。」
言うだけ言って怒りの空気が抜けたのか、妻は素直に応じた。
のそのそと立ち上がり、風呂に向かう。
「なあ、ルー。」
「なに?」
「いや、いいよ。」

風呂場に消えた妻に、俺はほんとは言いたかったのだ。

周一は確かに不甲斐ないところがある。
けれど、俺たちはあいつのために生きているわけではないし、あいつも、俺たちの願いを叶えるために生きてるわけじゃない。
もう子供じゃないんだ。
あいつには、あいつの人生がある。
自分で選んだ道を、歩かせてやろうよ。
転ぶ自由ってもんも、あるんじゃないのか?
大学に行けないなら、行かなくていいし、行きたいなら自分で勉強するだろう。
でもそれは、親の問題じゃなくて、彼自身の問題だ。
俺たちは、あいつが俺たちの見栄を満たしてくれると信じるのではなくて、あいつは、あいつが選んだ人生を自分の力で歩いて行くだけの力を持っていることを信じてやろうよ。

でも、まぁ、こんな話は今夜でなくてもいいか。

風呂場から、ザバンと乱暴に湯が揺れる音がする。
俺は息子の部屋を覗きに行った。
小さないびきをかいて寝ている息子は、いつの間にこんなにデカくなったのか、ベッドからつま先がはみ出している。
お前、大人になったんだな。
母ちゃんに、さりげなく抵抗していたんだろ?
蹴られて嬉しかったか?
お前がもう、母ちゃんが守ってやる弱い存在じゃなくなったって証拠だもんな。

俺は息子の部屋のドアを閉めて、ニヤリとした。
親子だなぁと思った。
俺も、ある日突然母さんに蹴られたことを思い出したのだ!







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