「ルー、どうした?」
とうとう、妻は泣き出した。
どうもおかしいと感じたのは、誤解ではなかったようだ。
子供みたいに大粒の涙をぼろぼろこぼし、ほら、鼻水まで垂らして。

「いったい、どうしたんだ?」
「あ、あなた…。」
帰宅してからずっと、様子がおかしいと思っていた。
どちらかというと勝気で明るい性格で、物事を深く悩むタイプの女ではない。
じっとしているのも苦手で、いつもちょこまかと動き回っている。
それが、今日に限って口数も少なく、どこかうつろな眼をしている。
時折深いため息をつき、俺が遅い食事をひとりで摂っている間、いつものようにテーブルに座ってお茶を飲みながら、足が貧乏ゆすりをしていた。

体調が悪いのか?
いや、こいつの健康なことと言ったら、いつも病気の方から失礼しましたと逃げていく。
それでも、何が重大な病気が発覚したとか…?
いやいや、それなら分かった途端に電話をかけてくるはずだ。

まさか、子どもができたとか?
一瞬、そうに違いないと思ったが、やはりこれもハズレだろう。
なんといっても妻は一昨日から絶賛出血中だ。
妊娠中にそんな出血したら、それこそ泣いている場合ではないではないか!
生理痛という言葉も妻にはないらしいから、今日に限って体がつらいというのもなさそうだ。

「あなた、ごめんなさい!」
妻はむせび泣きながら、謝り始めた。
おいおい、泣かないでいいから、理由を説明してくれ。
浮気でもしたというのか?好きな男ができて別れたいとか?
いや、きっと違う。
そういうことなら、妻はバチーンとサヨナラを突き付けて出ていくだろう。
「あなたのことは嫌いじゃないけど、もっと好きな人ができちゃったんだもん!」とか言って。
こと恋愛に関して、俺の妻はとても無邪気なのだ。
そこが気に入ったのだから、俺もどうかしている。

いや、今はそんな話はどうでもいい。
「ルー、どうしたんだ。何かあったのか?話してごらん。」
そういいながら、俺は自分のひらめきに緊張した。
借金、ではないだろうか。
専業主婦のルーは、デイトレードを趣味にしている。
株の売買だ。
お小遣いをコツコツ貯めて資金を作り、投資を始めた。
詳しいことは知らないが、けっこううまくやっているらしく、時々「今日は儲かったから」と、ステーキを奮発したりする。
現物だけという約束だったが、もしかしたら信用取引に手を出して大損して…。

「ルー。もしかして、金か?」
恐る恐る尋ねると、妻はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔の下で、唇が震えている。
「なぜ、それを…。」
「やっぱり!どのくらいなんだ?」
「それが、それが…。」
「何十万ではなさそうだな。」
「ごめんなさい!」
「何百万か?」
「ううん…」
妻は激しく首を振った。
「何千万か?このマンションくらいか?」
そんなことになったら、どうすればいいのだろう。
まだローンもガッツリ20年は残っているというのに!

「…億…なの。」
「なに?いま、なんて言った?」
「だから、8億なのよぉ!」
「な、な、何言っているんだぁ!!」
俺は頭が真っ白になった。
専業主婦の分際で、8億も、どうやったら借金できるんだ!
住宅ローン4千万円返すのも一生ものだというのに、8億!
国家予算じゃねーか。空母でも買ったのか??
俺は激発する感情の止め方など考えもしなかった。

「馬鹿野郎!お前、いったい、何やってるんだぁ!」
心臓が止まりそうなほどバクバクと音を立てている。
耳の奥がキーンと鳴って、両腕がワナワナと震える。
もしもこの腕が震えなかったら、俺は思い切り殴りつけていたかもしれない。

「こんなことになるなんて、思ってもみなかったんですもの。いえ、ちょっとは思ったけど、まさか現実になるなんて!」
「だから株なんてやめておけばよかったんだ!」
「え?」
「お前、8億も借金して、どうするんだよ。どうやって返すんだ?そこを考えてやったのか!それに、どうしてそんなになる前に相談してくれなかったんだよ!」
「ま、待って…。」
「待ってて解決策が見つかるのか?ああ、本当にどうしたらいいんだ!」

妻は俺のそばににじり寄ってきた。
「あなた、誤解してるわ。」
声をひそめていうと、俺の耳に唇を寄せてきた。
誤解とはなんだ。いまさら色仕掛けで誤魔化そうとは姑息な!
「当たったのよ、ロト7。キャリーオーバーで8億円。」
蚊の羽音よりも小さな声でささやくと、顔を離してひきつった笑いを見せた。

「うっそーぉ!」
叫んだ俺の口を思い切り塞ぐと、周囲を見回し、騒ぐなと脅しをかけてから、ようやく解放してくれた。
「ほ、ほんとなのか?」
「ええ。この前、きまぐれに買ってみたのよ。昨日抽選日だったのを思い出して朝刊で調べたら、当たってるじゃない。慌ててネットも調べたし、宝くじ売り場で当選番号見てきたし。どれも間違いなく、同じ数字だったの。」
俺たちは知らない間に、床の上に正座で膝をくっつけて正面から向き合い、両手を握りあっていた。
「み、見せてみろ。」
「これよ。」

妻は後ろのソファーの下の隙間に思い切り腕を突っ込み、床にほっぺたをくっつけながらごそごそうごめいて、奥の奥から新聞の束を引き出した。
その束の隙間から、当たりくじらしい小さな紙きれを引き出す。
「こうしておけば、泥棒が入っても気付かないわ!」
「よく考えたもんだなぁ。でも、間違えて捨てないか?」
「それも、そうね。見て、ここよ、ほら。」

妻の錯覚ではなかった。
確かに、くじの数字と新聞発表の数字は完全に一致していた。

「ど、どうしよう。」
「私たちの人生、きっと変わっちゃうわよね。私、怖くて、すぐに連絡できなかったの。ごめんなさい。」
「そんなことは謝らなくていい。職場で悲鳴を上げなくて済んだんだ。ナイス判断だったよ。」
「ねぇ、分割で毎年1億円ずつ受け取れるとして、あなた、何がしたい?」
妻が危険な冒険計画を持ちかけるような顔でささやいてきた。
こんな平凡な家に盗聴器をしかける輩もいないだろうに、さっきから俺たちはひそひそ話を続けている。
俺も何に使うかと考えていた。
「まず、住宅ローンを完済したい。お前は?」
「金華堂のみたらしだんごが食べたい、かな。」
「みたらしだんご?」
妻の一番の好物はみたらしだんごだ。
どんなに不機嫌でも、大喧嘩をしても、みたらしだんごを買ってきてやると機嫌が直る。
「だって、金華堂のみたらしだんご、1本450円もするのよ!信じられる?きっと素晴らしく美味しいのだと思うけど、高すぎて買えなかったから、この際絶対食べてみたい!」
「なぁ、俺たちって…」
「悲しいくらい夢がないわね…。」

一晩中眠くならなくて、ふたりでこれから何がしたいかと話し合った。
でも、ハワイ旅行とかソファの買い替えとか、どれもその気になれば今すぐできるようなことしか浮かばない。
結局、今までなかったのはお金ではなくて、勇気と決断力ではないかと思い始めた頃、夜が開けた。

8億当たったと知っている今朝も、納豆ご飯とみそ汁の朝食を食べて仕事に行く俺に、妻は妻で、以前からの約束で、今日はお友達と映画に行くのと言う。
「そうか。楽しんでおいで。」
「まだ細かい約束してないんだけど、多分夕方には戻るから。」
「ああ、わかった。」
じゃ、いってらっしゃいと、見送る笑顔はいつもの妻の顔だった。

「ただいま。」
妻が食べたいと言った金華堂のみたらし団子を3本も買ってきてやった。
なるほどうまそうな団子で、みたらしあんが今日ばかりは黄金色に輝いて見えた。
彼女の喜ぶ顔が見たかった。
どんな美味しい声をあげるだろうと、心だけでなく足どりも弾ませて帰って来たのだ。
ところがだ。
帰宅した時の、いつもの返事がない。
家の中は明かりもついていなくて、しんとひんやりしている。
「おい、いないのか?」
滅多にないことなので、ザワリと胸が騒いだ。

自分でリビングの明かりをともし、テーブルに鞄と団子の包みを置く。
そこで、妻の文字の走り書きを見つけた。
『あなたへ 私、やっぱり    』
そこで途切れて、使っていたボールペンが投げ出されていた。

全身の血が音を立てて引いていく。
俺は無意識のうちに寝室へ向かった。
妻の荷物はすべてそのままになっている。
他の場所も確認したが、通帳や印鑑もそのままで、ないのは普段使いのバッグだけのようだ。

恐る恐る、ソファーの下の新聞の束を引き出した。
どこを探しても、当たりくじは挟まっていない。
リビング中に新聞を撒き散らして捜したが、どこからも出てこなかった。
場所を移したのかと、冷凍庫や本棚や茶ダンス、トイレのペーパー置き場まで、妻が思いつきそうなところを全部探してみたが、やはり8億円の当たりくじは出てこなかった。

妻は携帯電話を持っていない。
専業主婦で家にいるから、用事があったら電話で済むと言う。
待ち合わせに不便だろうというと、妻はサラリと笑った。
「だって、ちょっと前までは私たち、誰もケータイなんて持たずに待ち合わせたでしょ?それに、私はいつもウチを待ち合わせの場所にしてもらうから、全然平気よ。」
俺の稼ぎは大したことないから、妻のこの配慮がありがたかったものだ。

でも、今となっては、なぜケータイくらい持たせなかったかと悔まれる。
出て行ってしまったのだ!
俺と分け合うのがいやで、富を一人占めしたくて、出て行ったんだ!
そんな女だとは、いや、そんないじましい人間だとは思ってもみなかった。
なんてやつだ!
俺が買ってやった指輪も、テレビの横に置いたままだ。
ステキすぎるから、いつも見ていたいのととか言ってそこに飾ったくせに、置いていきやがった!
そりゃそうだよな、どうせ安物だ。8億あったら、もっとゴージャスな指輪が好きなだけ買えるだろう。
くそ、くそ、くそ!
悔しくて、悔しくて、ギリギリと歯ぎしりした。
床に散らばった新聞を思い切り蹴りあげたら、足が滑って尻もちをついた。

「あ、あなた、おかえりなさい!ごめんなさい、遅くなっちゃって!やだ、どうしたの?」
玄関のドアが開き、ぱたぱたと足音に続いて、妻が現れた。
乱暴にまき散らされた新聞の真ん中に転がる俺を見て、眼を丸くしている。
「いや、その…。おまえ、どこ行っていたんだ?」
「どこって。やだわ、聞いてなかったの?今朝言ったじゃない、お友達と映画に行くって。」
「映画?」
そういえば、そんなこと言っていたっけ。
「だって、書き置き…。」
「ああ、ごめんなさい。思っていたより1回遅い回に行くことになったから、あなたより早く帰れなかったらと思って書きかけたんだけど、お友達が来ちゃって、ま、朝も話したしいいかって、やめちゃったのよ。」
くそ。そんな馬鹿な…。
「お前、当たりくじ、どうしたんだ?」
「ああ、あれ?間違って新聞と一緒に捨てちゃったら元も子もないってあなたがいうから、別の場所に隠したわ。」
「別の?」
「うふふ…。」

妻が野菜室を開けて、プランターで育てている小松菜やミニキャロットの種を仕舞っているジップロックを出してきた。
「ほら、ここ。これなら絶対捨てないもん。」
「あ…」
「やだわ。あなた、捜したの?どう?気付かなかったでしょ?これで泥棒も気付かないって証明できたわね!」

新聞紙、片づけてよねと言いながら、着替えもせずに夕食の準備を始めた妻の後姿を見て、俺はたまらなくなった。
いじましいのは、俺の方だ。
こいつを疑うなんて。
「ルー、ごめんな。」
俺は思わずつぶやいた。
「え、何?」
なんでもないと誤魔化した。
言えるはずがない。
お前が8億円を一人占めしたと誤解して悪かったなんて言えるはずがないではないか。
なんてことをと思っていたら涙がこぼれてきた。
「やだ、あなた、どうしたの?何泣いてるのよ?」
「新聞踏んで転んだ時、腰を打ったんだよ。」
「ちょっと、大丈夫?」

俺は理解した。
昨日、こいつが泣いていた、あの涙の意味を。
こいつも、一度は考えたんじゃないだろうか。
このまま俺に何も告げずに、8億と共に消えることを。
そうして、その可能性は、これからも居続ける。

本当に、なんてことかと思った。
俺たちが8億円で最初に手に入れたのは、疑念という、ほしくもないプライスレス商品だったのだ!






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