「ルー、どうした?」
担任のカッピーがゲジゲジまゆげを寄せて私の顔を覗きこむ。
カッピーは自分のクラスの生徒を全員あだ名で呼ぶ。
だから、私たちも担任を柏原先生とは呼ばず、あだ名で呼ぶ。
カシワバラだからカッピーではない。
まだ29歳というのに、頭のてっぺんが心もとない彼の姿を、口の悪い子たちがカッパカッパというので、そこまで直接では芸がない、もう少し捻ろうということになった。
丁度、山Pの大ファンがいて、じゃ、カッピーでいいじゃないという。
そのちょっと間が抜けた音が彼にピッタリなので、彼は瞬時にカッピーになった。
ま、本人にじかに呼びかけるときはちゃんと「先生」というが。

「ど、どうしたと、おっしゃいますと?」
「おっしゃいますじゃないだろ?なんだよ、この点は!」
カッピーがひらひらさせている細長い紙には、言わずと知れた期末テストの点が書いてあるのだ。
通称「短冊」。
七夕の願い事を書く短冊のような夢はカケラもない。

「お前は俺が初めて担任を持った去年のクラスにいた子だ。
そのまま2年目も俺のところ、真面目で努力家だし、期待は大きい。
ところがだよ。
なんだ、これは?」
ああ、何もおっしゃいますな。存じておりますとも。

「現代文84点、古典95点、日本史92点、地理90点、生物98点、地学91点、保健100点、英語89点 」
職員室のど真ん中で読みあげなくたっていいではないか。 
個人情報漏えいだ!
「先生、 いま、わざと1科目飛ばしました?」
「ふん。気付いたか。現代文の84点がどうにもお前らしくないから、担当の如月先生に尋ねたら、なんでも東大の入試問題をもじったから元々平均は胴体着陸寸前、お前が最高点だというじゃないか。」
そりゃぁそうだ。私は現代文をこよなく愛しているのだから。

つい、ふんと小鼻を蠢かしてしまったのがいけなかった。
カッピーは余計に声を張り上げた。
「それが、なんで俺の数学だけ2点なんだ?20点じゃないぞ、2点だぞ!理由を説明しろ、理由を。さあ!」
「理由でございますか?」
「このままでは、俺は数学教師としての自信を失いそうなんだ。他は何でもできるお前が、なぜ俺の数学だけ、ここまでひどい点が取れるんだ?勉強しなかったのか?他の科目に時間をかけすぎたとか?」
「とんでもないことでございます。数学の勉強をせずに試験を受けるなどあり得ません!」
これは本当だ。
私だって一生懸命勉強したのだ。
現代文を漢字の確認だけで終えたのに比べたら12倍は時間をかけた。

「じゃ、いったい何なんだ?やっぱりお前、あれかな?俺のことが嫌いだからか?」
カッピーはとんでもないことを言いだした。
「違います。そんな畏れ多いこと、考えてません。」
「お前のその異様に丁寧な言葉遣いも気に入らん。」
「先生はもう、私の目標ですから。ヒーローです、はい。」

そうなのだ。
カッピーは単なる数学教師ではない。
実はアメリカの大学を出ていて、英語の教師もできる。
でも、専門は心理学だ。
だから、本業はと問えば心理士ということになるそうだ。
心理士になる過程で、ついでにと公民の教員免許も取ったらしい。
でも、病気になった人の相談に乗るカウンセラーより、病気の予防をしたいと考えたというから大したものだ。
それで、大学に編入学し、数学教師の免許を取ったという。
その尊すぎる志を聞いた時、私は心底この教師に興味を持った。
英語や社会の教師でよかったじゃないかと思うかもしれないが、数学で悩む子が一番多いから数学教師になりたかったという言葉を聞いた時、興味はリスペクトに変わった。
数学!あの鬼のように性格の悪い学問の征服者!

「ヒーローってお前、もしかして…。」
「嫌いなんじゃなくって、ラブなんじゃないの?」
通りがかった保健室の美木先生がとんでもないことを言う。
美木先生は名前のとおりの美人だけど、口が悪い。
誤解を恐れずになんでも言うから、うかつに相談なんかできないとみんなが言っている。
しかもカッピーの大学の後輩で、ふたりは付き合っているという噂もある。
大学院だの留学だの編入学だのを積み重ねてようやく昨年教師になったカッピーと違い、大学を出てすぐにこの高校に赴任した美木先生のほうが教員歴は長く、その分態度もでかい。

「ち、違いますよ!何言ってんですか!!」
「あら、あたしには丁寧な言葉使わないの?失礼な娘ね!」
「おい、そうなのか?ダメだぞ。俺は教師としての一線を越える気はないからな。」
「だから、違いますってば!」
「ふふふ。テレちゃってぇ。」
もう、どっか行ってほしいのに、美木先生はニヤニヤしながら立ち去る気配がない。

「だとしたら、なぜここまで数学だけできない?」
「私にもわからないんです。」
「じゃ、できるだけ子どもの頃の記憶に遡って、数学とか算数とかにまつわる思い出を3つ話してごらん。」
カッピーが真剣な顔で言うと、美木先生がキャァとはしゃいで、カッピーの隣の空いている席に座りこんだ。
「出たぁ!柏原先輩の早期回想分析!」
「は?」
私はなんだかいやな予感がして、逃げ出す理由を探し始めた。
「ルーちゃん、逃げようと思ってるでしょ?ここは先輩に任せて、しっかり聞いたほうがいいと思う。先輩はこの方法で論文書いているくらいだからね。私も後学のために立ち合わせていただくわ。いいわね、ルーちゃん?」
「意味がわかりません。」
「いいの、いいの。さ、ルーちゃんも座って。」
美木先生は勝手に如月先生の椅子を引き寄せて私を座らせた。

「思い出して。どんな些細なエピソードでもいいよ。」
「エピソードといわれても…。」
私は過去の記憶をあれこれ探ってみた。
「小2の冬にインフルエンザをこじらせて1週間入院しました。退院が終業式で、3学期、久しぶりに学校行ったら、みんな分数をやってて。わたし、ひとつも分からなくなっていました。」
「その時、どう思った?」
「うーん、よく覚えてないけど、恥ずかしくて、怖かったかな。」
「そうか。次は?」
「えーっと、小学校5年か6年のとき。通知表もらったら、どの科目もみんなAだったのに、たったひとつBがあって、それが算数で。でも、Aがいっぱいですごいからきっと褒めてもらえると思ったのに、父はひとこともほめてくれなくて、たったひとつのBのために何時間も叱られました。苦手な体育も鉄棒だったから必死で練習してAもらったのに。」
「ああ。それだけでだいたい分かる気がするよ。でも、あと1つ。」
「うーんと、そうだ!九九が覚えられなかった!」
「九九?暗記科目が得意なお前がか?」
「はい。特に七の段とか八の段とか。いまだにふっと分からなくなります。毎日しつこく言わされて、言えなくて笑われて、恥かいて、叱られて。」
「それも、お父さんにか?」
「はい、父です。」
「そういう時、お母さんは?」
「一緒に笑ってましたね。」
「お前、確か長女だったね。」
「はい。3姉妹の一番上です。」
「ああ、きっとそうだな。だいたいわかったよ。お前、多分水泳もダメだろ?」
「えー!なんで分かるんですか?ダメです。いくら練習してもうまくならないんです。息継ぎができないから、背泳ぎ専門です。」

カッピーは不意に人懐こい笑顔を浮かべた。
「ルーは苦労したんだな。」
「いえ、まぁ、数学と体育には泣かされましたけど、苦労というより努力不足で…。」
「そうじゃない。お前、家族と一緒にいても、なんだか寂しかったり、不安だったりしたろう?」
私は絶句した。どうしてそれがバレたんだ?
「自分一人が家族じゃないような気がしたり、リビングにいるより、自分の部屋に一人でいる方が好きだったり。」
なぜ?数学の思い出しか言わなかったはずだわ!
「なんでも余裕でこなすふりをしているけど、内心では自信がもてなくてビクビクしてる。でも、そういうカッコ悪い自分がばれないように、必死で努力して、人から一目置かれたいと切望している感じかな。」
うそだ。誰にも話したことなんかなかったのに!
「叱られたというけど、実際は言葉の暴力に近かったろう。本当に殴られていたとしても不思議はない。」
ああ。どうしてそこまで!
「お前の記憶の中では、人と何かしたことが楽しいまま終わった記憶があまりないんじゃないのか?馬鹿にされたり、寂しかったり、恥をかいたり、悔しかったり。」
私は、驚きすぎて頷くのも忘れてカッピーの丸い顔を見ていた。

「そうして、ルー。ここが一番大事だ。お前は今まで命を削るように努力して生きてきたと思っている。だから、その見返りに、努力が評価され、自分が優れていると感じていなくてはならないとも思っているよな。人は、お前を評価しなくてはならないと。」
「いえ、そんな!」
この時ばかりは言い返した。そんなにずうずうしい人間じゃないわ!

「いいんだ。ルー。人はね、誰でもそう思っているんだよ。」
「私も思ってるもん。」
美木先生が口をはさんだ。
「人より優れていたい、いつでも優越感を感じていたい、人から認められていたいと思うのはごく普通のことなんだ。でも、お前はそれが、なかなか叶わなかったね?」
どうしてだろう。私の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。
「だから、人が信じられなくなった。一番信じられない人間が自分自身だ。違うか?」
分からない。そうなのだろうか?

「数学はね、ルー。この世で一番安定した学問なんだ。」
「あ?安定ですか?」
「そうだ。解き方があり、必ず答えがある。しかも、答えはひとつだ。」
「はぁ。そうですね。」
「だからね、答えがあると信じて、最後まで丁寧に解いていくことができる者にとって、数学はわざわざ苦手にする必要がないんだよ。」
「そうなんですか?」
「水泳も同じだ。人間は浮くようにできているし、コツさえ分かれば息を継ぐのもそれほど難しくない。ところが、水が信じられず、教えてくれる人も信じられず、ひとりでもがいていては、何時までも泳げるようにならない。」
「そう、だったかもしれません。」
「数学と水泳に共通することはね、最初からはできることは少ないが、地道に続けていると必ずできるようになるという点なんだな。でも、自分ができるようになると信じられない人にとって、結果が見えない努力を強いられるようで、耐えがたい。だから、最初から苦手です!とアピールすることで、できるまでの努力を回避するんだよ。努力してできなくて少ない自信をなおさら失うより、最初からできないほうが楽だからね。」
「難しいです…。」
「そうか。まぁ、理屈はいいよ。とにかく、ルー。数学が苦手なのは、お前の場合、脳の欠陥でも知識不足でもない。努力不足でもない。実際、努力してもできなかっただろ?できないほうが都合がいいと思いこんだせいだっていうことだ。」
「思いこんだって…。」
「できるんだよ、お前にも。数学も、水泳もな。必ずできる。だから信じてやってみろ。諦めないで、答えが出るまで食らいつけ!俺が応援するから。」

私は感動してますます涙が止まらなくなった。
今までひた隠しにして来たいろいろなものを理解してもらえただけで嬉しい。
それに、聞いたことがない温かな励ましまでついていた。
カッピー、いい先生だな。こんな担任に出会えて幸せだわ。

その時、じっと聞き耳を立てていた美木先生が、ううっと泣き出した。
「なんだ美木。どうした?」
「そうだったのね!」
「なんだ?」
「あたしに言ったのと同じじゃない!」
「たまたま美木のケースと同じ背景だっただけだよ。」
「うそ!これが先輩の口説きの手口ね!」
「はぁ?!真っ昼間の職員室のど真ん中で、短冊片手に女生徒口説くヤツがどこにいる?」
「ひどいわぁ、信じていたのに!この手口で何人の女の子を落としたの?」
「ばか。そもそもお前を口説いた覚えもないぞ。それに、男子生徒にも同じ手法を使ってるの、お前知ってるだろ!」
「信じられない!両刀使いだったのね!鬼畜にも劣る所業だわっ!」
「ルー、聞いたろ?人間を信じられず、自分も信じられないと、末路はこうだぞ。コイツの勘違いを解くより、微分積分の方がずっと簡単だ。」

私は思った。
世の中には、不可思議な人々が、たくさんいるのかもしれない。
そうして、私は決めた。
将来は心理学者になって、美木先生の勘違いを微積分より簡単に解く方法をみつけようと。









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