「ルー、どうした?」
「うん。物理と倫理は終わった。英語はただ訳せばいいというから後回しにしたんだけど、ずらずら大量の英文が続いていて難しそうでしょ。手が出せないよ。よっちゃんは?」
「あたしも物理と倫理は終わらせた。読書感想文は夏休み前に書いちゃったし。英語は後回しにしてるうちに今日になっちゃった。やばいよね〜。ミクは全部終わらせたんでしょ?」
「それが、私も実は英語が…。」
「ひえ〜〜

よっちゃんと私は声をハモらせて驚いた。
ミクが宿題終わってない?
ミクとよっちゃんと私の3人は中学からの友達だ。
だからよく知っている。
計画力、実行力共に群を抜いているまじめっ子のミクが、夏休みが終わる3日前に宿題を終えていないとは、真夏に雪が降るような驚きだ。
しかも、ミクは英語を得意としている。
「なにかあったのぉ?」
私たちは疑問というより心配になって尋ねた。
ミクならば、何を差し置いても英語から始めるはずだから。 

「それがねぇ。わからないのよ。」
「わからない?何か悩み事でもあるの?体調悪い??」
「ああ、そういう意味じゃなくて、本当に分からないの。」
「え?英語が?」
「そう。あの英語が。」
「ひえ〜〜

私たちは再び声をそろえて情けない声を出した。
ミクにわからない英語が、私たちに分かるはずがない。
確かに、ざくっと目を通してスルーを決めたのは、知らない単語が多すぎたからだ。
初対面の英単語のプロフィールをいちいちチェックして、他の単語との相性を想像しつつストーリーをつかむなんて途方に暮れる知的重労働だ。
私同様、英語が苦手な兄貴が言っていた。
「ルー、いいか?英語は筋トレだぞ。辞書を引く指を極限まで鍛えた者が勝つ!」
勝ったためしがない兄貴の言葉には妙な真実味がある。 

部活帰りの夕方である。
そこは私学のありがたさ、部室にシャワーが完備されているので、みんなスッキリ汗を流し、髪から洗いたてのシャンプーの香りがしている。
たまたま3人とも塾が休みとあって、帰りの足が自然と緩む。
「ねえミク、ルー。あたし、英語の宿題持ってきてるんだけど、どこかで一緒にやらない?」
「あ、いいね!3人寄れば文殊の知恵というし。」
「出たぁ!ルーの歩くことわざ辞典!」
「ああ、ごめんね。私、これからちょっと約束があって。」
申し訳なさそうな言葉を笑顔でさらりと言ったのは頼みの綱のミクだ。
「わかった!トオル君でしょ?」
「うん。待ち合わせしてるの。ゴメン、行くね!」

これが青春ですと背中に大書してあるような走り方で去って行ったミクを見送り、今のところ恋愛の神様に見込まれていないよっちゃんと私は、現実と向き合うことにした。
「しかたない。お互い頼りないけど。」
「ひとりよりはずっとましね。せめて励まし合いましょ。」
「駅前のサリーズのカウンターなんていいんじゃない?」
「そうしよ。めっちゃ喉渇いたし。」

私たちは歩いている間に、苦手な英語と向き合う勇気を奮い起すため、わざと陽気に噂話に興じた。
夏休みの噂はどれも曖昧だから、身勝手な妄想で脚色する余地が十分にある。
ふたりの間で、付き合い始めたと噂のカップルのいくつかがすでに破局し、いくつかは言葉にできないような深みにはまっていることになった。
「あー、ミクがいる〜!」

サリーズに入ってカウンターに座ろうとしたところで、よっちゃんがミクを見つけた。
どうやらトオル君はまだ着いていないらしい。
「なんだぁ、一緒になっちゃったね。」
「ねぇ、ミクぅ、トオル君が来たら私たち店を出るから、お願い、それまで一緒にやって!」
「わかった、わかった。一緒にやろう。実はトオル君にも、英語の宿題を手伝ってもらいたくて待ち合わせしてるの。」
「なーんだ。そうなんだ!」

天から蜘蛛の糸が降りてきた気分だ。
なんと言ってもトオル君は医学部志望の秀才だ。
高校1年の夏の宿題英語など、お茶の子さいさいに決まっている。
まじめで賢いミクとはお似合いのふたり。
同じクラスだからいつも見ているが、教室でも平気でくっつき、会話している。
どんな愛の言葉をささやき合うのかと最初は興味津々だったクラスメイトだが、夏休み前にはふたりに興味を失った。
だって、このふたりが話すことと言ったら、歴史に数学に英語に…受験対策ばかりなんだもん!
かくしてふたりは、予備校で忙しい放課後をつかう必要なく、すべての授業と休み時間を、大好きな恋人と、受験という共通言語で愛をささやくデート会場にすることに成功していた。

グラスの水滴がプリントにつかないように気をつけながら、それを広げると、目を覆いたくなるほどたくさんの英文が書かれた紙数枚がテーブルに整列した。
1、とページが打たれた最初の紙を3人で覗きこむ。
タイトルも、筆者もない。本当に、大量の英文だけなのだ。

「これじゃ、説明文なのかエッセイなのかもわからないね。」
私が言うと、よっちゃんが首をひねりながら尋ねた。
「でも、ウッチーのことだから、自分で書いたってことはないよね。」
ウッチーこと内村先生は、この宿題を出した非道な英語教師だ。
「ないと思う。めんどくさがりのウッチーなら、絶対コピペだよ。それにこれ、パソコンのフォントとちょっと違う文字だよね。」
「きっと、エッセイか説明文よ。だって授業で小説とかやってないし。」
「コピペなら、どこかに訳された文章があるかもしれないね。」
「有名なものならね。」
「昨日の夕刊の記事でさぁとか言われたら終わるね。」
「あー、ウッチーなら言いかねない!」

周辺をいくら話したところで宿題は進まない。
私たちは鼻をつまんで現実の海に飛び込むことにした。
冒頭文をみつめる。
「あ、電話。ちょっとごめん。」
ミクはスマホを握って席を立ち店の外へ出て行った。

For the most wild, yet most homely narrative which I am about to pen, I neither expect nor solicit belief.

なんだこれは????
知っている単語が極端に少ない。かつ、知っていても、さっぱりわからない。
aboutとpenという顔なじみがいることで、わずかに慰められる程度だが、見知らぬ異国の地で、鮨屋の看板を見つけた程度の慰めだ。出てくるものがおなじみの寿司である保証はどこにもない。

短く強い息を吐き、単語調べに取りかかった。
知っている気がする単語も調べておかないと、意外な使い方をされていないとも限らない。
wildは…

「ねぇ、ルー。翻訳サイトに打ち込んでみるってのはどう?」
「翻訳サイト?」
「ほら、見て。アプリがあるよ!」
「その手があったねぇ!」
「なんだか卑怯な気がしなくもないけど。」
「ウッチーも自力でやれよっってプレッシャーかけてたし。」
「でも、背に腹は代えられませぬ。時間がない!やってみようよ。」

よっちゃんがスマホで捜した翻訳サイトにそのまま文章を打ち込んだ。
「よしっと。はぁ?」
出てきた日本語を見て、よっちゃんは素っ頓狂な声を上げた。

”私が書こうとしている最もでたらめであるが、最も家庭的な物語のために、私は信念にも期待しなく、それも求めません。”

「意味がわかんない。」
「信念にも期待しなくって…そこ、日本語に見えないね。」
「うーん。先を見たら想像つくかな?次の文はっと。」

Mad indeed would I be to expect it, in a case where my very senses reject their own evidence.

ワンセンテンスが極端な長文ではないというだけで、何か助かった気がするが、それは錯覚にすぎないことなど百も承知だ。

「はい、できた。へ?」

”まさしくその感覚が彼ら自身の証拠を拒絶する場合、ひどく本当に、私はそれを予想することになっています。”

「いやがらせか?」
「この日本語を翻訳するアプリはないのかな?」
「サイトがダメなのかも。他のアプリにしてみよう。」
「そういう問題かな?」
「あった。こっちで、3行目を…」
「待って、よっちゃん。結論を先に見るのはどう?」
「結論?」
「推理小説読んでるわけじゃないからさぁ、説明文なら、最後がどうなるのか確認したら話題の方向性が見えて、最初の謎も解けるんじゃないかしら?」
「なーるーほーどー。ルー、あったまいい!」
よっちゃんは褒めてくれたけど、これは兄貴からの受け売りだ。

「…うー。長いぞっ。」

Upon its head, with red extended mouth and solitary eye of fire, sat the hideous beast whose craft had seduced me into murder, and whose informing voice had consigned me to the hangman. I had walled the monster up within the tomb!

もうほとんどイジメとか虐待を受けている感じがする。
「だ、だめだぁ。」
よっちゃんの声が絶望的に響いた。

”赤い延長した口と火の孤立目で、その頭の上に、航空機が私を殺人に引き込んだ、そして、知らせている声が私をハングマンに引き渡した恐ろしい獣は、座りました。私は、墓の中で怪物を壁でふさぎました! ”

「なんか、吐き気がしてきた…。」
「航空機が私を殺人に引き込んだ?騒音公害の被害者の手記かな?」
「墓の中で怪物を壁でふさぐって、霊能力者の告白?それとも沖縄の防空壕とかの話かな?」
「沖縄戦の記録ってのはありうるね。来年の修学旅行、沖縄だし。」
「だよね。けど沖縄なら戦争より、基地問題じゃないの?タイムリーだし。騒音も問題になっているよね?」
「なるほど。でも、恐ろしい獣って?肉食獣だよね。赤い延長した口って、こういう、悪魔みたいに裂けた口のことでしょ?」
「そうよね。でも、火の孤立目って…目って孤立するのかな?顔の他のパーツから目だけ離れているんだろうか。火のっていうんだから黄色いんだろうかね。顔の長い恐竜かな?沖縄に恐竜いたの?」 
「…知らせている声がって、誰が何を知らせているんだろう?」
「文法的にはハングマンに知らせたんだね。ハングマンって誰?」
「調べるよ。…あ、あった。辞書によるとですね、絞首刑執行人のことらしいよ。」
「絞首刑!?米軍機の騒音公害の被害者が殺人事件を起こし、絞首刑になったという話ってこと??」
「被害者なのに?あんまりだね…。」
「その場合、肉食恐竜とどういう関係があるんだろうか…。それに、その恐竜、どこに座ってたの?」
スマホから顔をあげて、よっちゃんと見つめ合う。
完全な敗北の表情だ。
きっと、私の顔も。

「わかった、わかったよ!」
ミクが戻ってきた。
「遅いじゃない。」
「トオル君、来られなくなっちゃったの。で、英語の宿題の話、聞いてみた。」
「わかったの!?」
「うん。トオル君がいうにはね、これ、小説なんだって。」
「小説!?」
「エドガー・アラン・ポー。」
「ポー?」
「それなら知ってる!」
私は知識をひけらかした。
「昭和初期の推理作家・江戸川乱歩があこがれて自分のペンネームにしたっていう、アメリカのミステリー作家だよね?」
「そうらしい。で、これ、代表作の『黒猫』っていう短編小説なんだって!」

よっちゃんは急いで『黒猫』の翻訳を探した。
「あった、これだ!」
3人で一斉に小さな画面を覗こうとして、互いの頭をしたたかぶつけ合った。
「読んで!」
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。
「おー。そう言ってもらえると、なんか分かる気がする。結末は??」
「えーっと。あった!
その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼を光らせて、あのいまわしい獣が坐わっていた。そいつの奸策が私をおびきこんで人殺しをさせ、そいつのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ。その怪物を私はその墓のなかへ塗りこめておいたのだった!

「そいつって、誰?」
「恐竜じゃないことは確かみたい。」
「タイトルが『黒猫』なんだから、赤い口で目を光らせているのは猫なんじゃないの?」
ミクに言われて、わたしたちは初めてちょっとだけ納得した。
「航空機じゃなくて奸策なのね。どうしてその2つが入れ換わるのかさっぱりわからない!」
「孤立目って、片方だけの目って意味だったのね。そう言ってくれたらいいのに。」
「あとはこの訳を全部読むしかないね。」
私たちは同時にため息をついて、顔を上げた。
私たちはそれぞれにスマホを取り出し、翻訳された『黒猫』を読んだ。

妻を殺害した男が遺体の隠し場所に困り、自宅の壁に塗り込めてしまうことを思いついた。一部始終を目撃していた黒猫が非難がましく鳴いていたけど無視。自分の完全犯罪に満足していた男は、ある日来客に、新たに塗り替えられた壁を自慢して見せた。手にした杖で壁をコンコンと叩くと、中から猫の鳴き声がする。なんと杖で叩かれた衝撃で壁がザラッと崩れ、中から妻の死体と、死体の頭の上に座った黒猫が出てきた!

「なんだこりゃ。ウッチー、許さん!」
「ほんと。高校1年生にこんな反教育的で意味不明な小説読ませてどうする気なんだろ?」
「どうせ、『君たち、これが小説と気付かず、意味が分からないと悩んだだろう?そういう先入観が、学習を阻害するのですよ』とか言うにきまってる。」
「あー、なんだか軽く殺意が湧いてきたっ
よっちゃんが右手をグーにして息を吹きかけている。
「月夜の晩ばかりだと思うなよっ!ミク、これ、英語でなんて言うの?」
「待って、ミク!翻訳サイトで調べたい!」
私は主語をつけて、日本語を打ちこんだ。
「あなたはいつも月夜だと思ってはいけない…と。はい、出た!」

You must not think that it is a moonlit night all the time.

「ミク、読んで!」
ミクのなめらかな発音に、3人で腹を抱えて笑い転げたのだった。






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