「ルー、どうした?」
「うん、ちょっと先に行ってて。」
声がした方向を振り返ると、友達から離れて、ルーさんが走ってくるところだった。僕たちは、思わず粕谷先輩の顔色を見た。
「おい、俺達、いないほうがよくね?」
修一に言ったはずが、粕谷先輩にも聞こえたらしい。
「ばか。気ぃ使うな。」
「みんな、おはよ!」
ルーさんの、透き通る声がした。
今日も晴れそうだ。雲ひとつない青空、都会より酸素がたくさん入っていそうな空気は少し湿った緑色の香りがする。どちらの部もこれから朝練だ。昨日の疲れがしっとりと重く残っているが、気分は悪くない。
ルーさんが部長をしている女子テニス部は、毎年男子テニス部と合同で合宿に行く。僕たち陸上部は単独合宿していたが、今年はテニス部と合同ということになった。理由はひとつ、経費節減。テニス部も陸上部も、微妙な部員数と道具のせいで、それぞれ2台ずつ大型バスを借り上げないとでかけられない。それを、2つの部で3台にすることで、ぐっと経費が減らせることに先生たちが気付いた。宿舎もテニスコートと陸上フィールドを両方持っている宿舎を一緒に借りることにした。大人数なので、ちょっと宿泊費も安くなり、合宿費が安くなったのが嬉しい。
しかし、問題がなくはなかった。高校の部活から恋愛を切り離すなんて無理なこと。密かに付き合っているカップルはさておき、この2つの部には、学校で知らぬ者はいない、美男美女カップルがいるのだ!
それが、われらの部長、粕谷先輩と、テニス部のルー先輩だ。どちらも高3の夏、すでに引退してもいいのだが、ルー先輩は推薦で進学したい先が決まっている、粕谷先輩も、陸上つながりで進学先がもう決まったも同然の状態ということで、余裕の参加になっている。他にも、引退はしたが合宿には行きたいという人たちがどちらの部にも多くて、にぎやかな合宿なのだ。ま、おかげで合宿所のムードは毎年明るく、お祭り騒ぎだ。ストイックになりすぎないのも助かるのだと、先輩から聞かされた。つまるところ、夏の恋も花盛りになるんじゃないかと、誰もがちょっと期待しているわけだ。
宿舎は一緒でも無駄な交流はせぬようにと、お触れが出たのはムカつくがしかたあるまい。でも、もともとサワヤカな2人は、そんなことはお構いなしのようだ。
「やっぱり涼しくていいわね、山中湖は。」
「そうだな。強豪校が来ているから、合同練習は励みになるよ。」
「陸上部のみんなは元気?」
「ああ。こっちに来てから長距離のやつらが調子を上げてる。」
2人して清々しい会話を交わしている。この二人を見ていると、高校生の「お付き合い」がどういうものか、分からなくなってくる。まさか、これで満足しているわけじゃなかろうな?頼みもしないのに生々しい状況報告をしてくる友達もいるので、女の子とはトンと縁がない僕にはますます分からない。
僕と修一は、気付かれないように三歩下がって、くるりと2人に背を向けた。そのままそっとフェードアウトしようとした時だった。
「おおい、粕谷ぁ!」
陸上部顧問の馬場先生が、寝起きのボサボサ頭と着古したスウェットのまま、先輩を呼んだ。
「朝練の連絡がある。ちょっと来い。」
「はい!」
粕谷先輩はじゃあなと爽やかに手を振って、ルーさんから離れ、先生の方へ駆けていってしまった。取り残された僕たちはちょっと困ってしまって、そそくさと離れようとした。
「ね、桜井君。これ、ちょっとお願いできない?」
ルーさんが名指しで僕を指定してから肩をこちらに向けるので、何かと思ったら、袖の先についた白いリボンのようなものを結べと言っているらしい。
「はい?」
ルーさんのテニスウエアは練習着にいたるまで、いつもとてもオシャレだ。お気に入りのスポーツブランドはクーマのようで、今日も真っ白いポロシャツのふっくらと高く盛り上がった上あたりに紫色のクーマのマークが見える。スコートもシューズもクーマでまとめている。おい、じろじろ見るなよと自分で自分に言ったとたんに目が泳いだ。
「結んでから着ればよかったんだけど、先に着ちゃったの。でも、脱ぐの面倒だし、腕って自分じゃ結べないし。」
脱ぐ、という動詞がルーさんの口から出ただけで動揺してしまう。
脱ぐ、という動詞がルーさんの口から出ただけで動揺してしまう。
いいのかな?
腕に触らないで結べるかな?触っちゃマズいよな、やっぱり。
腕に触らないで結べるかな?触っちゃマズいよな、やっぱり。
困って修一を見ると、修一はご指名が自分じゃなかったことにスネたようで、プイと横を向いている。
「ちゃんと、右と左と、同じようにチョウチョにしてよ。ほどけないようにキュッと強めに。」
僕はルーさんに絶対触らないように気をつけなければと、ゆっくり手を出して、袖についたリボンを指に乗せようとした。
でも、ルーさんが動くから、僕は思い切りルーさんの腕をつかんでしまった。
「す、すみません!」
あわてて手を引っ込めると、
「ほら、早くして。」
ルーさんはますます腕をこちらに突き出してきた。
毎日ラケットを振っているルーさんの腕は、パンッと張っていて、お日様を浴びているのにしみひとつない。
当たり前か。母ちゃんとは違う。
母ちゃんの腕ときたら、しみだらけ、脂肪だらけ。よくもあそこまでたぷたぷと柔らかくなるもんだと思う。母ちゃんにラケットを振らせたら、腕の下に垂れさがった扇のような脂肪のほうがラケットより上手に、広い面積でぶるんと球を打ち返すんじゃないだろうか。
一生懸命母ちゃんのことを考えて、邪な方向へ気持ちが向かないようにしながら、もう一度リボンに手を出す。
今度は、袖の下に隠れていた、お日様にさらしたことがない部分が見えて、手が止まってしまった。
うわぁ!真っ白だ!
これなら、スコートの下の太ももも、めくってみたら真っ白なんだろうな。
い、いかん!
「このシャツね、今日初めて着たの。もう大会目指して頑張るぞーって感じじゃないから、ちょっとおしゃれしたくて。現役のみんなには悪いんだけどねー。」
「とっても、似合うと、思います。」
それ以外の言葉を言う場面じゃないことくらいは鈍感な僕にも分かる。
白い肌よりもさらに白いリボンは幅が広くて、たぶんキティちゃんの赤いリボンみたいな形に結べばいいのだろうと思いつつ、手がうまく動かない。
「こ、これでどうでしょう。」
なんとか片方仕上げておそるおそる聞くと、ルーさんは素振りのように腕を動かして、
「うーん、ちょっと、きついかな。やり直し!」
さっきまで膨れていた修一が、
「じゃ、こっち側、俺がやりましょうか?」
と申し出た。
この野郎、ずうずうしいヤツだ。
「ありがと。でも、人が変わると感じも変わっちゃうから、桜井君にやってもらうよ。」
ルーさんっ!
僕は感激、感動、興奮と、してやったりの気持ちで舞い上がり、ますます緊張した。
修一はむくれて唇をタコみたいに尖らせている。
修一はむくれて唇をタコみたいに尖らせている。
任せてくださいルーさん!絶対に、きれいに結んでやる。
今日一日ルーさんの素肌に、僕が結んだチョウチョがとまるのだと思ったら、 頭に血が上った。
今日一日ルーさんの素肌に、僕が結んだチョウチョがとまるのだと思ったら、 頭に血が上った。
その時僕は必死になりすぎていて、ルーさんに頭がぶつかるほど近づいていることに気づかなかったのだ。
「どう?できた?」
ルーさんが突然腕を持ち上げたから、不意を突かれて避けることを何も考えていた僕は、ルーさんの生腕に思い切り、唇をつけてしまった。
「す、すみません、すみません!」
「あーごめん、ごめん。痛くなかった?」
「大丈夫です。すみません!」
「何でもないわよ。きれいにできたじゃない。じゃ、こっちね。」
ルーさんが桜色のつややかな唇でクスクス笑った。
ルーさんが桜色のつややかな唇でクスクス笑った。
そこからは、何をどうしたのか、ぜんぜん覚えていない。
「ありがと。桜井君、器用ね。キティちゃんのリボンみたいにかわいい。」
そういって、僕のほっぺたに手をのばし、ピタピタと触った。
「じゃ、一生懸命練習しなさいね!」
スコートの裾をあでやかに翻し、ルーさんはテニス部の部屋の方へ走っていく。
腕の両側で、僕が結んだばかりのリボンがひらひらと朝日を受けて踊っていた。
「言ってやる。粕谷先輩に言ってやる。」
修一のどす黒い呪いの声で、現実に引き戻された。
「や、やめろよ。俺はルーさんが言うから仕方なく…。」
「おまえ、弄ばれてたぞ。なのに真っ赤になって、アホか!」
「弄ぶ?粕谷先輩に頼みたかったのにいなくなったから、しかたなくそこにいた後輩に頼んだだけだよ。」
「お前、ルーさんにとんでもないこと、しちゃっただろ。」
「事故だよ!あれは。出会いがしらの衝突事故だ。避けられなかった。」
「先輩がそう思ってくれたらいいな。」
「おま…!」
「おま…!」
男の嫉妬は醜く執拗だ。
修一の顔が悪魔に見える。
もうすぐ口が耳まで裂けるんじゃないだろうか。
「それにしてもさ。」
修一の顔がいやらしく笑った。
「粕谷先輩とルーさん、どこまでいってるのかな。」
「お前、やめろよ。」
口では言ったが、僕もさっきから考えていた。
ルーさんはステキな人だ。いろんな意味で。
「やっぱ、だろうな。」
修一の一言で、頭の中にルーさんの白い身体が浮かんでしまった。
「朝練、いくぞ。」
僕は修一を無視して走りだした。
宿の玄関を通り過ぎたとき、
「おい、桜井!」
呼びとめられて振り向くと、粕谷先輩が立っていた。
ぞっとした。ぞくっとした。警察に追われる犯罪者の気持ちが分かった気がした。
「朝練、長距離は湖一周。いいか?」
「ハ、ハイ!」
僕は人生で初めて、罪悪感と嫉妬という感情を、同時に実感したのだった。
「パパ、パパってば。起きて。時間よ。美香が待ってる!」
「あー?」
「疲れてるかもしれないけど、もう2回も延期した遊園地なんだから。パパの意地を見せて!」
「おお。わかったわかった。今、夢を見てた。」
「なに?いい夢?」
「高校の、合宿の。ほら、ママが腕のリボン結んでって言った、あの時のこと。」
「ああ。懐かしいわね。」
ベッドに横座りして俺の顔を覗きこんでいる、今でも美しくいたずらっ子のような眼をした妻に、確認せずにはいられなかった。
「あの時、俺のこと、弄んだ?」
「ふふふ。内緒。でも…。」
「でも?」
「美香、美香!パパねぇ、若い頃、かわいかったのよ〜!」
「おい、こら、やめろよぉ!」
もうひとつのエッセイブログ『ゆるるか』不定期に更新中!
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宿の玄関を通り過ぎたとき、
「おい、桜井!」
呼びとめられて振り向くと、粕谷先輩が立っていた。
ぞっとした。ぞくっとした。警察に追われる犯罪者の気持ちが分かった気がした。
「朝練、長距離は湖一周。いいか?」
「ハ、ハイ!」
僕は人生で初めて、罪悪感と嫉妬という感情を、同時に実感したのだった。
「パパ、パパってば。起きて。時間よ。美香が待ってる!」
「あー?」
「疲れてるかもしれないけど、もう2回も延期した遊園地なんだから。パパの意地を見せて!」
「おお。わかったわかった。今、夢を見てた。」
「なに?いい夢?」
「高校の、合宿の。ほら、ママが腕のリボン結んでって言った、あの時のこと。」
「ああ。懐かしいわね。」
ベッドに横座りして俺の顔を覗きこんでいる、今でも美しくいたずらっ子のような眼をした妻に、確認せずにはいられなかった。
「あの時、俺のこと、弄んだ?」
「ふふふ。内緒。でも…。」
「でも?」
「美香、美香!パパねぇ、若い頃、かわいかったのよ〜!」
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コメント
コメント一覧 (4)
敬語を使っていた桜井君、普通に話せるようになるまで、ぎくしゃくしたんじゃないでしょうか(笑)
蝶結びは得意です。
私が小説に潜り込んで、桜井君を突き飛ばし、邪魔をしてやりたかった〜(笑)
コイバナはいいですね。
ルーさんと桜井君がこの後どうなってくっついたのか、それを描いたら面白い長編が書けそうです。
プレゼント用ラッピングの蝶結びが綺麗にできる人に憧れます。
何度教わっても斜めになっちゃう!
途中で砂希先生が乱入し、桜井君を突き飛ばすストーリーを考えてみました。
コイバナが一気にお笑いネタになりました(笑)
良いなあ〜!ひょんなところで、別なカップルが
できたのですね・・・
私も、人に結ぶ蝶結びは得意です。
自分のエプロンとかは、だめかも(笑)
お褒めくださってありがとうございます。
人のご縁は不思議です。
くろこ姫さんにお願いする蝶結びもきれいに仕上がるのですね。
どうして自分のって、なんとなくゆがんじゃうのでしょうね?