「ルー、どうした?」
「うん・・・・。」

夫と並んで、無言でここまで歩いてきた。私が突然立ち止まったので、夫は不思議に思ったのだろう。ベビーカーのカズ君がもぞりと動いたのが気になったのだ。身を乗り出して、カズ君が何かを見ている。視線の先には、小さな神社があった。

階段が5段ほどしかない境内はすべてが見通せるが、誰も遊んでいないし、花が咲いている様子もない。今日はお祭りの日だけど、この神社は会場にならないので、これといった飾りもない。
何を見ているのかしら?
そう思った時だった。
私は不意に、すっかり忘れていた子どもの頃の記憶を取り戻した。



「ルー、どうした?」
「うん。」
「お祭り、始まっているよ。」
「うん。」
「いいかい、ルー。お父さんの手を放してはいけないよ。何か素敵なものを見つけても、ひとりで行かないで、ちゃんとお父さんに言うんだ。今日はすごくたくさんの人が来ているから、迷子になってしまうからね。約束だよ?」
「うん、わかった!」
「じゃぁ、ほら、早く行こう。金魚すくいとヨーヨー、ルーはどっちがしたいかな?」

10月1日。お父さんに手をひかれた私は1年生だった。毎年恒例のお祭りの日だ。通りがかったその神社はお祭りをしないのだけど、境内のどこかから、何かとてもかわいらしいものが、私を見ていた気がしたから立ち止ったのだ。だけど、それをうまくお父さんに言えなかった。

次の日、やっぱりとても気になって、学校へ行く前に神社に寄ってみた。その神社は、おうちから3分ほどのところにある。階段をあがって、あちこち見まわしてみるが、やはり何もないし、誰もいない。 やっぱり気のせいだったんだなと思った時だった。

白くて小さいものが、石灯籠の台座の向こうに、ちらりと隠れた気がしたのだ!
音をたてないように、そっとそっと近づいてみた。

いた!

遠慮がちに私を見上げているのは、それはそれはかわいらしい、真っ白なウサギだった。ウサギは長い耳をピンと立て、赤い瞳で私を見上げていた。耳の中がピンク色なのも、リボンをしているようで本当にかわいらしかった。

「ルー。ルーっていうんでしょ?」
どこから声がしたのか分からず、私は後ろも空も見上げて確かめた。やっぱり、そこにはウサギしかいない。
「お父さんが、そう呼んでたから。」
「うそ!ウサギさんが話してるの?」
「そうだよ。」
「うそでしょう?」
「うそじゃないよ。君には僕が見えるんだね。僕が見える子には、僕の声も聞こえるんだよ。」
「うっわー!どうして話せるの?ウサギなのに?ウサギはみんな話せるの?」
「うふふ。違うよ。みんな話せるわけじゃない。この神社、なんて名前か知ってる?」
「え?ここは宇佐神社だよ。うさ…えっ?まさか、宇佐神社のうさって、ウサギさんのことだったの?あなた、ここの神様なの??」
「ここの神様は僕じゃなくて、僕のおじいちゃん。でも、今月は出雲で神様の総会があるから、出張中なんだ。だから、僕はお留守番をしているの。」
「お留守番なんだぁ。」

私とウサギさんとは、賽銭箱の前の木の階段に腰掛けた。
「ねぇ、ルー。僕とお友達になってよ。」
「いいけど、お友達いないの?」
「うん。いないんだ。僕は神様の見習いだから、たくさんたくさん勉強しなくちゃならないんだ。僕はね、いい神様になりたいんだぁ。たくさんの人の願い事を叶えてあげるにはね、いっぱい修行して、勉強してね、神様のテストを何度も受けて、それからじゃなきゃ、いい神様になれないの。」
「大変なんだね。遊んでいるヒマはないんだね。」
「でもね、ここにお留守番にきたら、ほら、みんなそこで遊ぶでしょ?こういう厚紙をペシッてしたり…」
「メンコね!」
「それから、きらきらした石をパチンってぶつけたり。」
「おはじき!」
「伸びる糸を飛び越えたり。」
「ゴム跳びだよ!」
「それから、あそこの椿の枝に座って歌を歌ったり。毎日楽しそうで、僕もやりたかったんだぁ。だけど、人間には僕が見えないから、友だちになれないんだ。」
「そっか。わかった。これから学校行くから、今は遊べないけど、帰ってきたらすぐ来るから。待っててね!」
「待ってるよ。いってらっしゃい。」
「うん、行ってきます!」
ウサギさんは長い耳の片方をピョコンと折って挨拶すると、スッと消えてしまった。

その日から、私は毎日学校から帰ると一目散に境内に駆け込んだ。
ウサギさんと、いろんなことをして遊んだ。
「僕はね、学校にも行ってみたいんだぁ。」
「行こうよ!私、こっそり連れて行ってあげる。」
「だめだめ。僕はこの神社から出てはいけないんだ。そんなことしたら、おじいちゃんがここに帰ってこられなくなっちゃうからね。僕はおじいちゃんと、おじいちゃんが帰ってくるまでここにいるって約束したんだ。おじいちゃん、いつも約束を守るんだよ。いい神様だからね。僕ね、おじいちゃんとの約束守りたい。」
「そっか。約束は守らなきゃね。じゃ、ここで、学校ごっこしようか。」
「うわぁ、素敵だなぁ。」
「では、出席をとります。」
私はウサギさんを先生のように呼ぼうとして、困ってしまった。
「ねぇ、ウサギさん。あなたのお名前は?」
「ルー。僕に名前をつけてよ。」
「ウサギさん、名前はお父さんやお母さんがつけてくれるものだよ。名前、つけてくれなかったの?」
「いいから、ルーが名前をつけて。その名前で、僕を呼んでよ。」

私は一生懸命、このかわいいウサギさんに似合う名前を考えたけど、どれも気に入らなくて、決められなかった。
賽銭箱の前の木の階段に腰掛けて考えていると、ウサギさんが隣に座って、ヒントをくれた。
「ルーは、何色が好き?その好きな色を名前にしていいよ。」
「色?私ね、白が好き。だからほら、今日のスカートも白でしょう?」
「ホントだね。よく似合うよ。」
「じゃ、白…うーん、えーっと、わかった!」
「なあに?」
「ユキにしよう!白いものと言えば雪だもの。ユキちゃんに決定!」
「うわぁ、素敵な名前だなぁ。うれしいなぁ。もいっかい呼んでよ、ルー!」
「ユキ!」
「はい!」
うふふ、わははと笑い合った。
「じゃあね、ユキ。また明日!」
「うん、ルー。また明日ね。」

ユキと出会って1ヶ月ほどたったある日のことだった。私にはユキにどうしてもお願いしたいことがあった。
「ねぇ、ユキ。お願いがあるの。」 
「なあに?」
「触ってもいい?」
「いいよ。」
「だっこしても?」
「もちろんだよ!」

ユキは、自分からピョンと飛び上がって私の腕の中に着地した。学校のウサギ小屋のウサギたちと違って、重さをまったく感じなかった。でもやわらかくて、ふわふわとした手触りは何ともいえず、私はユキに顔をすりよせ、何度も何度も頬ずりした。ユキからは、花のような香りがした。
「ユキ、大好きよ!」
「僕もルーが大好き!覚えていてね、僕はいい神様になって、ルーが一番苦しい時に、絶対絶対力になるからね!」
「うん。ユキはきっとすごくいい神様になると思うよ。」
「ありがとう!僕、がんばるからね。」
そういって、赤い目で私を見上げた。
「うん。じゃ、ユキ、また明日ね!」
「うん、ルー。」
いつものように片方の耳を折ってさよならをしたユキを私は地面にそっと下ろして、ランドセルを背負った。
あれ?
振り向いたときには、ユキはもう消えていた。
ユキ、今日は言わなかったな。「また明日ね」って。

次の日から、ユキは姿を現さなくなった。どれだけ呼んでも待っても、一度も出てこなかった。初めは寂しくて泣いたけど、じきに忘れてしまった。高校に入って、10月を神無月と呼ぶと習った時、不意に思い出して久しぶりに神社へ行ってみたことがある。広いと思った境内はわずか10歩かそこらで終わるほど狭く、必死でよじ登って座った椿の枝は、目の高さより低かった。ユキが隠れていたそびえ立つような石灯籠も自分の肩より低かったことを知り、自分はいつのまにか、大人になったんだなと思ったのだった。



「ねぇ、あなた。お参りしていきましょう。」
夫に声をかけて、ちょっとためらった後、カズ君を抱き上げようとした。珍しく、カズ君はむずがることなく素直に抱かれた。そのまま石段を上がり、お社の前に立った。片手で鈴を鳴らし、目を閉じて頭を下げた。

「神様。今日、お医者さんが、この子のことを自閉症だと言いました。カズはもう3歳なのに、まだ歩くことも話すこともできません。 物ごころついた時から抱こうとすると怒って泣くし、決まったものしか食べないし、決まったおもちゃでしか遊ばないし。滅多に笑うこともなくて、私の顔も見てくれません。ずっとおかしいと思っていたけど、ただちょっと、ゆっくり育つ子なんだろうと思ってきました。でも、今日、お医者さんが…。私、自閉症がなんだか、よく知りません。でも、治らないって言われました。性格みたいなものだからって。私の今の気持ちは、混乱とか、絶望とか、悲しいとか、どんな言葉でも表せません。どうしたらいいのかも分かりません。でも、神様。

どうか、私に力をください。

この子の人生を守ってあげるだけの力と勇気をください。

これから、心配して待っている私の両親に、このことを話しに行かなくてはなりません。すっかり歳をとったのに、今からまた心配をかけることになってしまって、申し訳なくてなりません。どうか、両親が少しでも心穏やかでいられますように。

それから。
それから、神様。
どうか、どうかこの子の一生が、幸せでありますように!」

「熱心に祈っていたね。」
夫がうるんだ目で私の肩を抱いてくれた。
「ええ。ここの神様はね、約束を守る、すごくいい神様だから。」
ユキはいい神様になれたかな?と思った。どこかで、頑張っているのかな。
そうか、今日はユキと出会った日だ。30年前の10月1日!
「うー、うー。あー。」
カズ君がお社に向けて両手を差し伸ばし、珍しく声を立てた。
「ねぇ、あなた。見て!カズ君、笑ってる!!」



「雪麿よ。」
「はい、おじいさま。」
「えにしよのぅ。」
「はい。」
「こうして、この座をお前に譲るその日、一番にお前に頼みごとをしに来た人が、お前に私が付けたのと同じ名をつけてくれた、あの娘であったとは。」
「はい。私はあの娘と約束をいたしました。今こそ、果たす時と心得ます。」
「ああ。存分にやるとよい。これで私も心穏やかに、因幡に旅立てる。」
「どうかおじいさまも、ご存分のお働きを。因幡に招かれますことは、我々白兎のの誉でございます。」
「ああ、では、行ってこようよ。」
「どうか、道中お気をつけて。お健やかに。」
「それにしても雪麿よ。」
「はい。」
「人無くして神は無い。また、神無くして人は無い。神と人との縁は、なんと深いものよのう。」






もうひとつのエッセイブログ『ゆるるか』不定期に更新中!



人気ブログランキングへ