転校生が来ると聞かされたのは、先週のことだ。
だいたい、小学校1年生の1学期に転入など、普通あり得ない。
しかも、今回の転入生は鳴り物入りだ。
仕事を辞めたい、人から離れたい、新しいクラスの立ち上げは何一つ予想通りには運ばないので、日々消耗し、疲れきっていく自分をどうしようもない。

いくらチョコちゃんがいても、焼き肉龍龍のカルビが美味しくても、私には抱えきれっこないと思っているときに、なぜ転入生なんだ!
しかも、2クラスあるのだから、うまく行っているチョコちゃんのクラスに行けばよいのに、もともとの人数が1人少ないという理由だけでウチになるとは!
ツイてないこと、この上ない。

テレビの音さえ聞きたくない、別れた男に未練とてなく、かといって、その後言い寄られた男性たちに興味が湧くわけでもなく、たま〜に仕事帰りに暴飲暴食するのが楽しみだけのカサついた女。
ひたすら教材を作り、事務仕事をこなし、ためいきまじりに学校と家を往復する。
へたすれば、スーパーすら営業を終えていて、コンビニしか開いていないのだ。
これでは心も体も病気になったって何も不思議はないと、我ながら思う。

だったら、転入生のことも「お断りします」と言えばよいのだ。
さっさと「仕事辞めます」と言ってしまえばもっとよかった。
そんなことをしたら、おじいちゃんを悲しませるとか、中途半端な時期では無責任だとか、いろいろな理由は後付けで見つけた、自分をごまかすための理由だ。

必要以上に丁寧に、小さな玄関の掃除をしながら、スミレはふと、捨てればよいのに捨てられずに残っている、男物のサンダルを片手に、小さくため息をついた。
それを一緒に買いに行った日の、胸が熱く高鳴る音を、さっきのことのように思い出せる。
なんて幸せなんだろうと思った。
この人となら、ずっとこんなふうに幸せでいられると思い、そうであってほしいと心底祈った。

でも、その祈りは、やがて裏切られていく。
ずっとずっと、相手との相性が悪いことに気付かなかったからだと思っていた。
愚かにも、人として許せない相手ばかり選ぶ自分が馬鹿なのだと。
だから、いつも別れ話は自分から切り出した。
愚痴を言いながらやけ酒を飲めば忘れられた。

でも…と、そのサンダルを片手に、スミレは何かが意識の端をかすめたのを感じて、手を止め、目を閉じた。
そう、これ。今の、何か。
今度こそ、そのかけらを見失わないように、スミレはそっとサンダルをおろすと、そのまま玄関の縁に腰を下ろした。
膝を伸ばせばつま先がドアに届くほど小さな玄関だが、上京して以来住み続けているこの部屋に訪れては来なくなった人たちを思い出すのには丁度よい場所だ。

スミレは意識をかすめた小さなかけらを追いかけた。
このかけらが通り過ぎると、いつも胸が急激に冷たくなるのだ。
息苦しいような、切羽詰まったような気分になる。
なぜかと言われると、まったく説明できない。
どうしたらと聞かれても、何も頼めない。救いようがない。

このかけらに敢えて名前をつけるとしたら…と、スミレは考えた。
不幸…ちがう。自信のなさ…近いようだが、何か違う。絶望…いや、そうではない。
不満…いや、そうだ、不安。「不安」だ!
そうか、私は「不安」なのか!
思い返せば、ひとり暮らしを始めるずっとずっと前から、このかけらは私にこびりついていた気がする。

では、いったい、何が不安なのか。
頭の中で、もうひとつの声が言い始めた。いいじゃないか、そんなに考えなくても。
多少の不安や不満があっても、なんとか我慢して昨日と同じことをしていれば、明日も無事に生きられる。
それでいいじゃないか。

「いやよ。」
スミレは小さいけれどもきっぱりした声でつぶやいた。
「私は、もういや。こんな気分で毎日を生きるなんて、もういやだもの。」
目をあけて、大きく深呼吸をすると、もう一度目を閉じて、考え始めた。
「私の不安は…」






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