翌朝、隣家の男性はどうにも気になって、出勤前にトコちゃんの家を訪ねた。
母親は、「トコはまだ寝ている」という。
男性は、ろくに礼も言えない母親がどういう人かはわきまえていたので腹も立たなかった。
「旦那さんはどうした?」
昨夜は帰らなかったという。

「お嬢ちゃん、風邪引いちゃったんじゃないかね。風呂には入れてやったか?身体が冷えていたろう?」
「寝かせてやれっていうから、寝かせました。」
母親の言葉を聞いて、男性は口をあんぐりとあけ、目を剥きだした。ぞくりと寒気がした。
「ちょっと、おじゃまするよ。」
ひと声かけると返事も待たずに、家の中に入った。
確かに、布団の中に少女が寝ている。
まさか、と思ったが、昨夜の服のまま布団に入っている少女に気付き、目の前の現実のあまりの恐ろしさに言葉が出ない。
少女は、はぁはぁと荒い息をして、真っ赤な顔をしている。
恐る恐る額に手を載せると、ビックリするほど熱かった。

「大変だ!やっぱり風邪ひいちまったじゃないか。医者だよ、医者!っても、わからないか。」
男性は、この地域を往診してくれる、親切な医者の連絡先を紙に書いて教えてやった。
「あんた、電話くらいできるだろう?」
「はい。」
「俺はもうでかけなきゃならないから、電話して、お医者先生に来てもらうんだよ。いいな?今すぐかけるんだぞ。」
「はい。」

まったく、この家の旦那はどうしたんだと呟きながら、男性は自分の車に向かった。
息が蒸気機関車のように真っ白な煙を挙げる。指先が早くもキンと冷えてくる。
大変なことだが、子どもの風邪だ。医者さえ来てくれれば安心だ。
まったく、あの家はどうかしている。
男性は、出勤前に立ち寄ろうと思い立った自分の勘を讃えながら車に乗った。
大通りに出る頃には、思考は仕事とすっかり積もった雪道を滑らせないことに切り替わり、トコちゃんのことはすぐに薄れていった。

母親は言われたとおりに、メモを見ながら電話をかけた。
たまたま、医者はその時電話に出なかった。
受話器を戻すと、母親はメモをポロリと指からこぼし、こたつに入った。
テレビをつける。
いつもの番組が、天気予報を伝えていた。
電話をかけろと言われたが、電話に出ない時にどうしたらいいかは教わらなかった。


男が帰宅したのは、その日の夜になってからだった。
久しぶりに遊びまわり、せいせいとして帰ってきた。
前夜から、その日の昼間も飲み続けていた男は、まだ十分に酔っていた。
が、小さな家で、寝ている女の子の様子が尋常でないことには、すぐに気付いた。

「おい、どうしたんだ?」
部屋の明かりをつけて、覗きこんだ。
「今日はずっと寝てた。」
母親の説明で事態を理解しようとしていたわけではないが、ふがいない答えに苛立ちが爆発した。
もつれる足で電話に駆けより、医者に往診を頼んだ。
折よく医者は病院にいて、すぐに来てくれると言う。
娘はもう虫の息で、男にはまだ生きているのかどうかも分からないほどだった。

駆けつけてきた医者は手を尽くしてくれたが、翌日の朝日が昇るのを待たずに、トコちゃんは息を引き取った。
肺炎だった。
医者から連絡を受けた児相や民生委員が家に着いた時、こたつの脇にトコちゃんの書き置きが落ちているのを見つけた。
広告の裏に書かれたそれは、鉛筆を力いっぱい握った力強い文字で、こう宣言していた。
「トコは おうちに かえります。さようなら。」


「どうして?
トコちゃん、どうして電話してくれなかったの?
そしたら真理さん、すぐに迎えに来たのに。
こんなに寒い思いさせなかったのに!
どうして、一人で歩いて帰ろうなんて!!」

経緯を理解した真理はトコちゃんの亡きがらに取りすがった。
ケースワーカーが、黙ってトコちゃんのカバンを真理に差し出した。
真理はカバンを開けてみた。
そこには、10円玉と、濡れて滲んで文字が読めなくなった紙が入っていた。
真理が渡した、学園の電話番号を書いたメモだった。

今日子と真理は、取り返しのつかない痛みに号泣するしかなかった。







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