トコちゃんの学園での生活は静かに過ぎて行った。
はしかにかかったり、風邪をひいたりすることは当然あったけれども、トコちゃんは真理を困らせることがなかった。
入園した時には明らかな栄養失調状態だったが、みるみるうちに改善された。
健康そうな皮膚と肢体、色白の頬にはうっすらと赤味がさして、優しい笑顔が絶えない唇に華を添えていた。

学園には次々に新しい子が入ってくる。
年上も、年下もいる。
時にはとんでもない暴れん坊も入ってくる。
そんな時は学園に不穏な空気が流れる。
先に入所していた子どもたちがなんとなく不安になるときでも、トコちゃんは平然としていた。

真理は、トコちゃんのそんな姿を見ると、どこか悲しくなってしまう。
彼女は、こんなことでは動じないだけの痛みを知っているのだ。
そう思うと、トコちゃんが愛おしくてならない。
人生のスタートで受け取り損ねた幸せを、これから取り戻してほしいと祈らずにはいられなかった。

小学校に上がってからも、トコちゃんは至って穏やかに、何の問題もなく日々を送っていた。
真理も、トコちゃん自身も、これからずっとそんなふうにして過ぎて行くのだと信じて疑わなかった。
が、二人の知らないことろで、事態は大きく動いていた。

男が、母親のもとに帰ってきたのだ。
妻の実家に建ててもらった家を売り払った金を持ち逃げしていたが、帰ってきたとき、男は一文無しになっていた。
連れて行ったはずの若い女にも捨てられていた。
女が連れて行ったのは、この男ではなく、男の金だった。
似合いのふたりだったのだろうが、ご多聞にもれず、金の切れ目は縁の切れ目だった。

トコちゃんと離れてから、民生委員がついてくれ、母親は生活のしかたを、人生で初めて一から教わった。
障害者手帳を手に入れ、年金の支給も受けるようになっていた。
生活保護も受けられるように手配され、金銭的に困ることは少なくなっていた。
風呂に入るとか、洗濯をするとかも、できるようになっていた。
食事の支度は難しかったが、片付けはできるようになった。
お湯をわかしてポットに入れることも覚えた。

男は、夫として、父親として、深く反省していることを繰り返し申し立てた。
職もなく家もなくした男にとって、ここを居場所にできるかどうかは正念場だ。
持ち前の人たらし能力を全開にして、自分の愚かさと、子を思う気持ちを語り尽くした。

それだけではない。妻に家事を教える役も民生委員にとって変わった。
もとより、男は家事を自分でこなすだけあって、この家の生活環境は一気に向上した。
2年を経て、トコちゃんが1年生になった頃に帰ってきた男は、彼女が初めての夏休みを満喫していたころ、 娘を返してほしいと申し立てた。

職探しを始めていた男は、まだ定職にはついていないものの、時折アルバイトのようなことをしては、生活費を家に入れていた。妻の年金と合わせれば、贅沢はできないが、食べて行けないこともない。
ギャンブルもやめたと言う男は、帰ってからの4ヶ月ほど、本当に心を入れ替えたように見えた。
母親は、信じて待っていただけあって本当にうれしそうで、ふたり連れだって買い物に出かける姿を見るたびに母親の惨状を知っていた近所の人々は、ようやく訪れた幸せを祝福するように、胸をなでおろしていた。

児童相談所は、夫婦の申し入れを断る理由を持たなかった。
学園内での面会を数度経た後、外出の許可を出し、半日、一日と保護者と共に過ごすように計画が進んだ。

学園にやってきた夫婦と初めて会った真理は、その夜、トコちゃんに尋ねずにはいられなかった。
「トコちゃん、おうちに帰りたい?」
「全然!」
トコちゃんは即答した。
トコちゃんを預かってから2年半ほど、トコちゃんは確実に、より賢く成長している。
「ここがトコのおうち。トコはここにいる。」
その断固とした瞳に、真理は思わず涙をこぼし、強くトコちゃんを抱き締めた。







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