幸子は、仮眠室にかかった姿見で、自分の全身を映してみた。
鏡を見るのは好きではないし、こんなふうに爪先から頭のてっぺんまで全部見える鏡は家に置いていない。
誰にも漏らしたことはないが、自慢のスレンダーボディだった。
それが今日は、小さなおばあさんのように力なく立っている。

院長室への扉を開けると、義父である院長は不在で、締め切った部屋には静寂だけが漂っていた。
電気も消えており、カーテン越しにうっすらと日ざしが入ってくるだけだ。
その暗さに、ふと、先ほどまで見ていた夢を思い出し、さらに忘れたことがない光景を続けて思い出すのに時間はかからなかった。

幸子は、黒い革のソファーにどさりと腰掛けた。
そのまま肘かけに右肘をつき、手のひらで額を覆った。
眼を閉じると、あの日の光景がリアルに蘇る。

康平君は、事故死だった。

その日の午後、康平君は母親を感動させたばかりだった。
リハビリスペースをたまたま通りがかった幸子に飛びついてきた母親は、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、半ば叫ぶような声で言った。
「先生、見てください!あの子が、ひとりで顔を洗えたんです。ほら、ひとりで!」

見ると、洗面台の前に立った康平君は、両手の平を流れ出る水の下に差し出して、充分に濡らすと、その手を顔に持っていき、ごしごし、とこする動作を繰り返していた。
何度かそれをすると、ゆっくりと右手をのばして、水栓のバーを押し下げた。
水が止まる。
そのまま右手を、脇に置かれたタオルまで移動させた。
落とさずにタオルを掴むと、左手も持ちあげてタオルを広げた。
足は、何の支えもなしに立っている。
リハビリ用に着替えたらしいグレーのスエットの胸元がびしょ濡れになって黒く色を変えているけれど、顔をゆっくり拭い終えた康平君は、ギャラリーを振り返って、いつもの満面の笑みを見せた。

大拍手だった。
理学療法士は康平君に、優勝投手を迎えるキャッチャーのようにとびついて抱きしめた。
看護婦も、他のリハビリ患者も、康平君の頑張りを称えていた。
感動した幸子も、この分ならば、いずれもっと機能が回復して、 自力で歩いたり、もっと自由に話したりできるようになるのではないかと確信をもった。
康平君はタイトルマッチに勝利したボクサーのように誇らしげな、ギラギラと輝く眼をしていた。

事故は、消灯のわずか前に起きた。
ものすごい破壊音がして、ナースステーションにいた看護婦たちはすくみ上がった。
すでに面会時間は終わり、就寝前の服薬も済み、あとは寝るばかりのはずだった。
そんな状況で聞えるはずのない音だった。
音がした方向へ、看護婦たちが駆けだした。
彼女たちが見たものは、ナースステーションから少しずれた位置にある階段の下の踊り場に倒れた康平君の姿だった。
康平君の脇には、ポールが折れまがった歩行器が一緒に倒れていた。

この歩行器は、康平君がリハビリに使っていたもので、康平君が立ちあがった肘に手すりがくるよう調節された、車輪がついた半筒形の台のようなものだ。康平君は、これがあれば2、3歩は歩けるようになっていた。
康平君の部屋は階段のすぐ脇だった。

脳腫瘍の手術をしてまだ1か月ほどの頭を強打していた。
手足に骨折もあった。
すぐに懸命の処置が行われたが、康平君はほどなく息を引き取ってしまったのだ。







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