有田病院の院長は幸子の義父なので、幸子も院長室には何度も訪れていた。
しかし、院長専用の仮眠室があることは知らなかった。
案内されて入ってみると、「仮眠室」とは名ばかりで、ちょっとしたホテルなみの設えがしてある。
真吾の手を借りて横になってみると、低反発のベッドの感触は高級ホテルそのものだった。
義父もそれほどこの部屋を使用しているわけではなさそうで、シーツもパリッと糊がきいている。
もう行かなくちゃ、とすまなそうにいう真吾に手を振って部屋から送りだすと、真吾はそっとドアを閉めて診察に向かった。
急ぎ足に遠ざかる足音はすぐに聞えなくなった。
よほど防音がよいらしく、もう何の音も聞えない。
ふと、ひのきの香りがするような気がして、幸子は肘をついて上体を起こし、豆電球のようなオレンジの明かりがついた部屋を見回した。
「あ、ライチョウ。」
それは、体長30センチほどの木彫りのライチョウだった。
長野に来て、幸子が好きになったもののひとつだ。
まるまるとしたお腹に太い足、きりりと持ちあがった首に小さな頭。
ひのきの香りは、このライチョウから漂っていた。
それを確認すると、もう一度身を横たえた幸子は、思っていた以上に簡単に眠りに落ちた。
夢を見た。
康平君だ。康平君と最後に話した時を思い出しているんだ。
幸子はそうと分かりながら、夢に身を委ねた。
「ねぇ、ユキちゃん。お願いがあるんだ。」
手術の前日、お見舞いに行った幸子が部屋から出ようとしたとき、康平君にこう言って呼び止められた。
「マリアンヌをもらってくれないかな。」
「マリアンヌ?」
「そう。うちで飼っている白文鳥なの。かわいいんだよ!」
「白文鳥。どうしてマリアンヌなの?」
尋ねた幸子に、康平君は信じられない言葉を聞いたといわんばかりに眼をむいて、あきれ顔をした。
「ユキちゃん、知らないの?『南の島のマリアンヌ』だよ。」
「ごめん、知らない。何それ?」
「アニメ。マリアンヌってお金持ちの女の子が、船で世界一周旅行をしている途中で遭難するんだよ。家族と離れ離れになって、無人島に漂着するの。そこで親切なサルとかヤギとかに助けられて、サバイバルするんだよ。」
なんだ、その荒唐無稽なストーリーは!
親切なサル?ヤギは家畜じゃないのか??どうやって人助けをするの?
お金持ちの女の子がサバイバルって、現実味ないなぁ。
「僕さぁ、一人っ子だから、妹がほしかったんだ。
マリアンヌみたいなかわいくて明るい子が妹だったら、僕すごくかわいがるんだけどな。
でも、なかなか妹できないし。
だから母さんに頼んで、文鳥飼ってもらって、マリアンヌって名前つけたんだ。」
アニメのストーリーに文句を言っている場合ではなかった。
そんな大切な文鳥を、どうして幸子に託すのだろうか。
「僕が手術をしたら、母さんも文鳥の世話を忘れてしまうかもしれないし、ユキちゃん、実家から通っているって言っていたでしょう?それなら世話もできるかなって思って。
それに、僕が元気になったらまた返してほしいんだ。」
「わかったわ。じゃ、預かるね。うちでもインコを飼っているから、世話は任せて。」
康平君は、なんともいえない嬉しそうな顔をした。
「ユキちゃん、ホントに優しいね。僕が大人だったら、ユキちゃんにプロポーズするんだけどな。」
「小学生は守備範囲じゃない。」
「じゃ、次に生まれ変わったら、僕とケッコンしてくれる?」
「未来のことはどうでもいいんじゃなかったの?」
「あ、忘れてた。」
「じゃ、明日の手術、頑張ってね。シンゴにも全力を尽くせ!って言っておくから。」
「うん。ユキちゃん、ありがとう。」
それが、康平君と最後にかわした言葉だった。
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