関係者専用の駐車場にトゥデイを停めると、鍵を閉めるのももどかしく、幸子は病院に飛び込んだ。
幸子を見知っている看護師たちが笑顔で迎える。
「先生はいま診察中です。でも、もうすぐ…」
問いかけたわけでもないのに、婦長が声をかけてくれた。

その背後から、
「あれ?どうしたの?」と顔を出したのは真吾だった。
婦長にいくつかの指示を小声で出すと、 幸子の方に歩いてきた。
幸子は黙って、黒く内出血をして歯形の見分けもつかないほど腫れてきた腕を差し出した。
「うわぁ、これはひどい。思い切りやられたね。」
すぐさま処置室に向かって歩き出した。

幸子は前を歩く真吾の背中を見ているだけで、ああ無理してでも来てよかったと、心底思った。
処置室に入って二人だけになると、幸子はようやく泣きだした。
真吾は黙って腕を診察し、消毒をしている。
幸子は小学校で見せていた「マリアンヌ」としての自分ではなくて、本来の姿に戻ったような、仮面を脱いだような、なんとも言えない気分を感じていた。

幸子は、今朝からの出来事を真吾に話して聞かせた。
ここのところ、スミレとのことは、毎晩真吾に話していた。
本当は守秘義務違反かもしれないが…学校で知りえたいかなる個人情報も外部に漏らしてはならないと、校長先生にも言われたけれど…真吾は外部じゃないし、話さずにはいられなかった。
自分が教員気取りで失敗したと思っていることも、それが恥ずかしくてたまらないことも隠さず話した。
きっと真吾は優しい言葉で慰めてくれるだろうと思った。
ユキちゃんはよく頑張ったよ、間が悪かったね、そう言ってくれると信じていた。

ところが、真吾の口から出てきた言葉は、幸子が想像していたものとは全く違っていた。
「自分が教員でも支援員でもないのに、立場を超えたことをしてしまったというだけではないよね、ユキちゃんの失敗は。」
幸子は口をポカンと開けたまま、真吾の眼を見つめ返した。
「え?」

「ユキちゃん、自分が知っていること、できることを試してやろうって思わなかった?自分なら先生たちにできないようなことができるんだとか、自分なら先生たちがやるよりもずっとうまくできるとか。」
「そんなこと…」
「思わなかったって断言できる?それならいいよ。だけど、僕には君が、 そういう自己顕示欲っていうのかな、そういうものに負けて、スミレちゃん自身を見ていなかったんじゃないかって気がするんだよ。」
「そんなことないわ。スミレちゃんのことはよく見ていたつもりよ。」

「そうかな。前後の様子を聞く限り、スミレちゃんはフラッシュバックを起こしたんだと思われる。」
「そうね。咄嗟にわからなかったけど、きっとそう。」
「フラッシュバックはどんな時に起きる?」
「たいがいは何か誘因がある。あとは睡眠不足とか体調が悪い時、緊張している時、疲れている時…」
幸子はここに至って、真吾が何を言おうとしているのかがようやくわかってきた。

「そうだよね。スミレちゃんは緊張して、疲れていたんじゃないかな。だとしたら、どうしてそんなに疲れたんだ?」
「それは、新しい学校に通い始めてまだ4日だし…。」
「うん。まだたった4日だ。大人だって転勤して4日目なんて、まだオロオロしていて何もできないだろう?空気にも馴染めないし、気も使うし。疲労のピークだよな。なのに、君は君のペースでスミレちゃんにいろいろやらせたんじゃない?」
「私のペース…。」

「そう。君の、紙上のペースで。スミレちゃんって、愛情遮断症候群の診断が下っているんだったよね。ということは同年代の子どもに比べて、身体が小さく…」
「体力がない。元気に動き回れるけど、それって彼女なりの精一杯のことだわ。」
「君はひと夏かけて、スミレちゃんに会えたらあれをしよう、これをしようって考えていたよね。君が久しぶりにすごく生き生きとしてくれて、僕は嬉しかったよ。けど、本人に会う前の計画を、そのまま推し進めたのだとしたら、それって本人を無視したことにはならないの?」

幸子はもう、答えられなかった。
「彼女の身体の成長を促すために、君の立てた計画はかなり有効だと思う。それは認める。けど、それはスミレちゃんの受け止める力を見極めながら、スミレちゃんを中心にどんどん練り直されるべきものではなかったのかね。新しい場所で、初めて出会った人から、新しいことをどんどん教わって、スミレちゃん、パンク寸前だったんじゃないのかなと思うんだよ。違うかな?」

本当に、そうかもしれない。
スミレちゃんは思っていた以上に賢い子だった。
あの年齢の子は乾いた砂が水を吸うようにいろいろなことを吸収する。
だから大丈夫だと思った。
けれど、スミレちゃんは「あの年齢の子」という実体を伴わない存在ではない。
一人の人格を持った存在だ。
そういう意味で、自分の計画通りに進んでいるか、想定通りの反応をしているかはよく見ていたけれど、スミレちゃん自身がどう感じているかを、少しも見ようとしていなかった自分に気がついた。
そういえば、昨日もちょっと苛立ったようなことを言っていたのに。







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