その少年は康平君といった。出会った時の康平君は小学4年生だった。
幸子が研修医として着任したこの時はすでに、何度目かの入院だった。
顔なじみの看護婦たちの間ですでに、康平君は天使かアイドルのように愛されていた。
脳腫瘍だった。難しい位置に腫瘍があった。
ぜんそくもあり、小児科病棟に入院していた。

「学校で咳が出て、母さんが迎えに来てくれたんだ。
帰り道、歩けない僕を母さんはおんぶしてくれた。
そうしたら、通りすがりの人が言うんだよ。
『あら、甘えん坊ね』って。
僕、すごく腹が立った。
大人なんだから、少しは考えてしゃべるべきだよ。
4年生にもなって、理由もなくおんぶされるわけないじゃない。
思いやりも想像力もない大人なんて
まったく、大人になった意味がないと思うよ。」

幸子が初めて康平君の部屋に行った時、康平君は看護婦を相手にそんな話をしていた。
幸子はまったくその通りだと感心してしまった。

「僕も腹が立ったけど、母さんはもっと辛かったと思う。
だからね、僕は怒らないことにしたんだよ。
怒る分の体力を、病気を治すことに使おうと思って。
馬鹿な大人のために、もともと少ない体力を使うのは無駄だからね。」

もっと聞きたくなるような少年の主張を中断するのは申し訳なかったが、盗み聞きするのもどうかと思い、幸子はノックをして部屋に入ると自己紹介をした。
すると康平君は横になったまま小さな手を差し出して、握手を求めてくれた。
幸子がその手を握ると、意外なほど力強く握り返された。
黒目というより、深緑の湖のような色の瞳をして、康平君は言った。

「研修医か。それって、すごく大変なんでしょう。
佐川先生、患者が死ぬところ見たことある?
この病院は、そのへんの病院で診きれなくなった重症患者が来るでしょう?
僕はここに何度も入院しているけど、仲良くなった子が何人も死んでしまった。
僕だって、いつ死ぬのかなと思うと、怖いよ、すごく。
佐川先生は若いから、きっと自分の患者が死んだらショックだと思うんだ。
大丈夫?」

いきなりのカウンターパンチを食らって、幸子は何と答えていいかわからなかった。
とりあえず笑顔でその場を取り繕ろおうとしたが、それも失敗した。
大丈夫とは絶対に言えない。けど、それも勉強だからとも答えられない。
康平君が幸子をからかったり試したりしているるわけではないことは、まっすぐに伝わってきた。
まごまごしている幸子を見て、康平君が救いの手を伸ばしてくれた。

「まぁさ、辛いことはそれだけじゃないだろうし。
女だらけの職場だからね、人間関係とかさ、いろいろあるよ、きっと。
悩み事があったら、僕が聞いてあげるよ。
だから、がんばってね!」 

この子は本当に4年生か?と幸子は頭をひねった。
後でカルテをまじまじと見直したが、正真正銘の10歳だった。
出会った時から康平君は幸子の胸に深い印象を刻んだのだった。





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