「あっ!」
思い切りブレーキを踏みつけた。
心臓からも脳からも鉛色の剣が飛び出したような衝撃を受けた。
その衝撃は身体が受けたものではなかったと分かり、マリアンヌは「ああああ。」と深く息を吐いた。
松本に向かう国道147号線を走っていた。
愛車の赤い軽自動車ホンダ・トゥデイは、目を細めたカモノハシのような顔をしている。
東京から長野に引っ越してきて、どうしても車が必要になった。
もともと赤など好きではなかったが、それでも赤を選んだのは、長い間真っ白な雪に包まれるこの街に、華を添えたくなったからかもしれない。
マリアンヌが絹を引き裂くようなブレーキ音とともに急停車したのは、横断歩道の真上だった。
右折の車が思い切りクラクションを鳴らして行く。
歩行者がいなかった幸運を思うと、全身が今更ガクガクと震えだし、そのまま運転し続ける自信がなくなった。
信号が青に変わるのをしつこいほどに確認すると、のろのろとトゥデイを発進させ、交差点を抜けるとすぐに路肩に寄せてエンジンを切った。
運転席を少し倒して深呼吸をする。
目を閉じて、さらに深呼吸を続けた。
思い切り息を吸っても、少しも肺が膨らまない気がする。
そんな深呼吸を繰り返しても落ち着かない。
かえって過呼吸を起こしそうな気がして、目を開けた。
9月の安曇野は空気に涼風が混ざっている。
路肩のすすきは穂を出し始めているし、コスモスはもう満開で、ゆらゆらと桃色の花を揺らしている。
脇をごうごうと過ぎて行くトラックに煽られて、小さなトゥデイが揺れる。
無性に、真吾に会いたかった。
消毒をするだけなら、家に帰ればいい。自分でできる。
けれども、今はどうしても真吾の顔を見て、声をかけてほしかった。
真吾なら、私自身言葉にできないこのもやもやした気持ちを、分かるようにしてくれて、なだめてくれそうな気がする。
この仲の良い夫婦は、辛い時も楽しい時も、真っ先に相手のことを思い出す。
そうやって、もう10年も波乱の生活を送ってきたのだ。
「迎えに来て。」
独り言を言ったら、涙があふれてきた。
この時間、診察中に決まっている真吾を呼び出すことができないことくらい、重々分かっている。
だから、独り言を言うだけだ。
しゃくりあげそうになって、マリアンヌはあわててバッグからハンカチを取り出した。
やはり家に帰ろうかとも考えたが、どうしても真吾に会いたい。
もう一度、大きく息を吐き出すと、座席を元にもどし、エンジンをかけた。
サイドミラーを見ながらタイミングをはかり、サイドブレーキを下ろそうとしたら、左腕がズキンと痛んだ。
あまりの痛みに、思わず腕を見つめる。
さっきまで紫色に見えていたスミレの噛み痕は、もう真っ黒くなっていた。
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コメント
コメント一覧 (4)
中型は何キロ、大型は何キロとある程度の速度からの急ブレーキテストです
軽自動車のブレーキは構造が簡単なので
急ブレーキなんて、怖いでしょうね
もとより急ブレーキを要すること自体が、恐ろしいシーンです
似たようなミスで死ぬほど怖かった経験があります。
あの時は横断歩道を乗り越えて、交差点の真ん中。
考え事をしていて、ぼんやり右折してしまいました。
女性は男性に比べて、ブレーキを踏む力が弱く、
急ブレーキを踏むのが遅れた上に効きが悪いことが多いとか。
でも、あれ以来、ものすごく慎重に集中して運転するようになりました。
ショックを受けたとき、ワタシは何をするかなぁ。
少なくとも、夫を呼ぶことだけはしません(笑)
一人になりたいと思うかも。
静かな部屋で横になり、心と体を休めます。
で、いつのまにか寝てしまうと、ちょっと楽になれるんです。
さくらももこも「イヤなことがあったら寝る」と言っていました。
マリアンヌはどうやって立ち直るのかしら…。
ショックを受けた時、私もまずひとりになりますね〜。
グルグル考えて、眠れないのは分かっているので、
眠ろうとは思わないけど、ひとりで静かな場所に避難はします。
で、頭が整理できると、猛然としゃべりたくなります。
でも、夫には言わないかな。
彼は「黙って聞いておく」ことが苦手なんですよ。
「それは、こう考えてこうしたら解決できるよ」とか言うんです。
それが的を外れていたりすると、俄然腹が立ちます。
そっかぁ、大変だったねぇと聞いてくれる親友の存在が本当にありがたいです。