「多分、フラッシュバックだと思います。」
校長室のソファーに腰をおろし、真理は数えきれないほどかかっている歴代校長の白黒写真を見上げながら答えた。 
丁度いい。
真理はここで、この小学校を守っているかのような人々全てに、伝えたいことがあった。

フラッシュバックとは、過去に強烈なトラウマを受けた場合、後にその記憶が、突然、それも極めて鮮明に思い出される心理現象をいう。実際にその鮮明さは、今まさに起きているとしか思えないほどで、当人にとっては「記憶の再生」とは思えない。つまり、フラッシュバックを起こすと言うことは、フラッシュバックを起こす原因となったような強いトラウマを再体験することに他ならない。

「スミレちゃんの体験は、ご存知だと思います。きっと、マリアンヌが…小林さんがトランポリンで跳ねているのを見ていた時に、天井に当たらないのかな?と思ったのがきっかけで、思い出したのでしょう。」
校長先生は、書きかけていた重要書類にサインを入れ終わると、仕事机から立ち上がり、真理の向いのソファーに座った。
「申し訳ないことをしました。スミレちゃんにも、小林さんにも。もう少し慎重になるべきでした。」

「いいえ。」
真理はきっぱりと否定した。そこは謝るところではありませんよ、というように。
 
「校長先生、それは違います。
それもこれもひっくるめて、スミレちゃんなんです。
あの子は心に大きな傷を抱えています。
一番愛されたい母親や父親に、愛された実感がない。
それがどれほど手痛いことか、校長先生にもおわかりになると思います。
私も、できればそんな傷は消してあげたい。
できることなら、今の楽しさに夢中になって、過去の痛みを全部忘れてほしい、忘れさせてやりたいとも思います。 
いつか、そんな痛みをはねのける強さを持ってほしいとも願っています。

けれど、今はまだ違います。
今、この瞬間も、あの子の心は痛み続けています。
日常の楽しさや、友達との交流や、ご飯の美味しさはもちろん喜べます。
けれど、それであの子の心の傷が癒えたわけではないんです。 
だから、私たちが注意してさえいれば、あの子は平気だなんて思うのは、傲慢なのではないでしょうか。
 
あの子はきっとこれからも、怖いことを思い出しては今日のように暴れることもあるでしょうし、私たちが想像もできないようなことをするかもしれません。
だって、それは、あの子が心の痛みを訴えているのと同じですから。
『これだけ痛いの、助けて』って言っているのですから、そんなこと言うなとは言えません。 
痛みも傷も含めて、まるごとスミレちゃんなんです。

それに、先日かっぽう着を探した時に、亡くなったおばあさまのことを思い出させたのは私です。
今日のことは、学校の出来事だけで起きたわけではないと思うのです。
 
あの子がどんなふうであっても、どうかあの子を見捨てないでやってください。
お願いします。」

真理はソファーの上で、膝につくほどに頭を下げた。
校長先生はその姿を、苦虫をかみつぶしたような表情で見つめている。
そっと顔をあげて、そんな校長先生の表情を見た真理は、思わず息を詰めた。
校長先生から、深いため息が漏れる。

「あの…」
真理は、自分がひどく不躾なことを言ってしまったと、この時になって気がついた。
きっと気分を害してしまったに違いない。相手は校長先生だ。教育のプロに大して、偉そうなことを…。

「長谷川さん。」
校長先生の、重たい声が名前を読んだ。
「は、はいっ。」
「おっしゃる通りだ。私は、いつの間にか考え違いをしていたようだ。
もみの木学園のお子さんをお引き受けするたびに、私は、ここでこそ、のびのびと成長してほしいと思ってきました。
けれど、それと同じくらいに、 どうかトラブルなく毎日を平穏に過ごしたいと思っていたのです。
学園のお子さんに何かあることで、他の保護者を刺激したくもありませんし…。」
「え?他の?」

真理の問いかけに、校長先生は余計なことを言ってしまったとばかりに、あからさまに話題を逸らした。
「長谷川さん。 スミレさんのことは、よくわかりました。
今後ともご一緒に、彼女の成長を守っていきましょう。
ですが、小林さんのことは、諦めていただかなくてはならないかもしれません。」

「どういうことですか?彼女はクビですか?」
「とんでもない。雇用関係を結んだわけではありませんから、クビもありません。
ですが、スミレさんに噛みつかれて怪我をされましたし、たいそうショックを受けた様子でしたから、きっともう来てくださらないと思います。それに、もう一度とお願いすることも、学校としては…。」

それを知ったら、スミレはどれほど傷つくだろうと思うと、真理は思わず八つ当たりに、聞えよがしの溜息をついてしまった。 

校長先生は校長先生で、ボランティアでありながら教員と同じかそれ以上の知識と実行力を持つ小林幸子という女性の扱いを誤った我が身の責任について追及される事態を恐れていた。
運よく、真理はスミレのことに夢中で、その点には気付いていないようだ。
しかし、マリアンヌがまたやってくることになった時、どの教員からも疑問の声があがらないとは考えにくかった。
いっそ当人から「続けられない」と申し出てくれれば円満解決なのだが…。

学校経営は政治だ。
校長先生は辞去する真理に笑顔を見せながら、肚の中でぐるぐると思案をめぐらせていた。




ポチッと応援お願いします