「どうした?!」
体育館に大きな声が響いた。
マリアンヌは反射的に声の方を振り向いた。
 
声の主は、たまたま通りがかった校長先生だった。
校内巡視の最中に、絶叫が響く体育館に気づき、急いで様子を見に来たのだった。
校長先生は大股でフロアを横切ると、舞台に飛び乗った。
スミレの歯はまだマリアンヌの左腕を噛んだままだ。
すかさず、マリアンヌの左腕を持つと、スミレの口の中に腕ごとグイと押し込んだ。

噛み付かれた時は剥がそうと引っ張ると、かえって危ない。
引っ張ると歯に相手の体重がかかってしまい、かえって食い込んでしまうのだ。
だから、噛まれたら、そのまま一度口の中に押し込む。
すると、口が大きく開いて歯がはずれる。
 
この時も、押された勢いで、スミレの口が離れた。
マリアンヌは不意に軽くなった左腕を引き、思わず眼の前でみつめた。
早くも内出血した腕には、濃い紫と赤が混じった歯型がクッキリとついている。
唾液がぬるりと光る中で、何カ所か皮膚が切れ、血が滲んでいた。

「小林さんは体育館の外に出てください。保健室の片桐先生を呼んできて。ほかにも手が空いている先生がいたら呼んで。学園の担当にも連絡。体調などに気づいたことがなかったか、尋ねてみて。あ、教頭先生から連絡してもらうように。」
校長先生から矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
 
マリアンヌは職員室に走った。
足が空中に浮いているような気がする。走りには自信があったが、なかなか前に進まない。
職員室に飛び込み、運よくそこにいた教頭先生に報告すると、体育館への応援や保健室への連絡、学園への連絡をてきぱきと進めてくれた。

その頃、体育館には、マリアンヌと相談してあった通り、一足遅れて1年1組のみんなと矢口先生が到着しようとしていた。
本当は、スミレが先にトランポリンの練習をしておき、後から来る1組のみんなと一緒になって体育をしようということになっていたのだ。スミレがいいところを見せて、1組のみんなの気をひこうという魂胆だった。
それに、前日の国語の時間だけはマリアンヌの方針を入れて、ふたりだけで体育館に来たが、基本的には二人の様子を誰かが見えるようにしておくことが、学校としては当然の前提だった。

先頭を歩いてきた矢口先生は、素早く状況を把握した。
「はい、計画変更!今日は外に出よう!!」と、子どもたちを連れてグランドに出て行った。
なんで〜、どうして〜と子どもたちの声がざわざわと遠ざかって行く。 
子どもたちは、スミレのことには気づかなかったようだ。
 
体育館では、校長先生が泣き叫ぶスミレから2歩ほど離れて、静かに見守っている。
無理に動きを封じられなくなったので、頭を打ち付けるような激しい行動はみられなくなっていた。 
が、混乱しているスミレには、そこに誰がいるかもよくわからなかった。

内線連絡を受けた保健の片桐先生が体育館に着いたころにはまだ、スミレは大声で泣き叫んでいた。
けれども、学園で休憩時間に入ったばかりだった真理に連絡を入れ、体調が悪いとは考えにくいことを聞きとった教頭先生が体育館に着いたころには、叫び疲れたのかぐったりと舞台に横たわっていた。

校長先生が静かに近づいて、スミレの小さな身体をゆっくりと抱き起こし、スミレの表情を確認すると、汗ばんで額に髪をはりつかせた頭をなでた。
「苦しかったね。疲れたね。眠っておくれ。」と、ささやきかける。

そして、両腕でそっと抱きあげると、保健室から届いた毛布の上に寝かせようとした。
すると、「おじいちゃん…」とすすり泣きの合間からスミレの声が聞こえ、紅葉のような小さな手が校長先生のシャツの腹をつかんだ。
その手は、本当に紅葉のように真っ赤になっている。
甲がところどころまだらに白くなっている上に一本、鮮紅のみみずばれが浮いている。きっと、マリアンヌともみ合った時に付いたのだろう。

校長先生は舞台に直接胡坐をかいて座り、その上に毛布を置いてもらって、スミレを膝に乗せた。
スミレは校長先生のお腹にすがりついたままだ。
荒い息を吐きながら、スミレはまた何かを言い始めたが、校長先生にも片桐先生にも聞きとれない。
そのうち、すっかり疲れたスミレはガクンと眠ってしまった。 







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